『古事記』(716年)には、様々な大国主命の伝説が書かれています。その受難伝説といいますか、何度も八十神に何度も殺されては、神々の力によって、よみがえってきます。その伝承地を歩いてみました。

 

 

さまざまな土地のウサギとワニの伝承

伯耆の伝承

 

因幡という鳥取県東部だけではなく、鳥取県の中ほどの鳥取県大山町束積(つかづみ)の中山神社にも伝承が残っています。

 

中山神社 鳥取県西伯郡大山町束積8番地

 

中山神社の前に設置してあった説明板の内容です。

 

“束積に住む白兎が川をのぼる鱒の背を借り川を往き来していたが、過って鱒の背を踏みはずし溺れた。さいわい流れ木につかまり隠岐島まで流された。帰郷の念から鰐をだまし、皮を剥がれたところを大国主命に助けられた。

 

「伯耆の白兎」の話は「因幡の白兎」と共に『古事記伝』で語られている。束積に帰って一休みした岩が「兎の腰掛け岩」として残っているほか、流れ木に助けられた川を「木の枝川」「甲川」と呼ぶようになった。

 

村人は白兎の愛郷の念を偲び元の遊び場「古屋敷ヶ平ル」に社を建て「素菟神社」とした。この社は皮膚病(疱瘡)の守り神となり、平癒の節は笠を納めるのを例とし参拝者があとを絶たなかった。明治初年社が野火で焼失し、今は中山神社境内に再建され長く白兎の心情を保っている。    平成二年三月  大山町教育委員会 ”

 

貝原好古(かいばら よしふる)の『和爾雅』(わじが)(1694年)には、「伯耆 素菟(うさぎ)大明神」と記載されているので、古くから伯耆(鳥取県西部にも伝承があったのでしょう。

 

因幡国高草郡の伏野の伝承

 

鳥取県東部に「伏野」(ふしの)という地名があります。『鳥取県神社誌』( 昭和10年 鳥取県神職会 編)によると、伏野神社に記載の所に「神代の昔に於て白兔神伏し給ひし野なるを以て、大字名を伏野と称し」とあり、シロウサギの神に由来するものとしています。

 

伏野神社 鳥取県鳥取市伏野2255

 

 

この伏野の伝承地を裏付けるように、因幡国風土記逸文にもまた竹林の老兎の話があります。

〝白兎
  因幡の記を見ると、この国に高草の郡がある。その名の由来に二つの解釈がある。その一つは、野の中の草が高く生えているので、高草の野という。その野を郡の名とした、というものである。

 

 もう一つは、竹草の郡とする説である。ここには昔竹林があった。それで竹草というのである。竹は草が長いという意味で竹草というのであろうか。その竹の事を説明すると、昔この竹の中に老いた兎が住んでいた。

 

ある時、急に洪水が起こって、その竹原が水没した。浪にあらわれて竹の根も掘られ、皆崩れて抜けてしまったので、兎は竹の根に乗って流れてしまったところ、おきの島についた。

 

水嵩(みずかさ)が減って後に、本の所に帰ろうと思うけれども、海を渡る方法がなかった。その時、海の中にワニという魚がいた。

 

この兎がワニに言うことには、「お前の仲間はどれぐらい多いのか」。ワニが言うことには、「我々の仲間はとても多くて海に満ちている」という。…後略 …〟(『塵袋』第十  現代語訳 中村啓信監修・訳注『風土記 下』  角川ソフィア文庫)

 

因幡国気高郡の白兎神社

 

白兎神社 鳥取県鳥取市白兎603

 

 

兎の宮、大兎大明神、白兔大明神とも呼ばれていたそうです。戦乱で消失し、鹿野城主だった亀井茲矩により慶長年間に再興されました。道の駅「神話の里 白うさぎ」が大鳥居の近くに設置され、観光客でにぎわっています。

 

白兎海岸の淤岐島

 

 

白兎神社の場合は、白兎が流されたのは、隠岐ではなく、白兎海岸のすぐ近くの淤岐島ということになっています。しかし、束積と伏野での伝承では、「隠岐島」ということです。

 

宇佐神宮の社家伝承 【ウサギ族VSワニ族】

 

宇佐公康(きみやす)氏の著書「宇佐家伝承 古伝が語る古代史」を読んで、たいへんびっくりしました。

 

『古事記』のウサギとワニの話は、たんなる動物をモチーフとした神話かと思っていたら、実にウサギ族とワニ族という氏族の戦いを反映したものというのです。

 

以下、その本の抜粋です。太字の強調は私がしました。

 

このような条里遺構を残している因幡国は、隣国の伯耆国(鳥取県の西半分)とともに、古くから、豪族の出雲族が、統治して開けていて、その統治下に、菟狹族や和邇族が生活していた。

 

和邇族が、その祖神をワニ神として祀っていたように、菟狹族は、ウサ神を氏神として祀っていた。『古事記』に見える「稲羽の素菟」とは、実はこの菟狹族の族長をさしていったのであって、動物の白ウサギではない。〟

 

宇佐家は、ウサギの神を氏神として祭っていたといいます。

 

〝 白ウサギが、ワニザメに皮をはがれて、赤裸になったという伝説は、経済上の取引で、菟狹族が和邇族に、玄人くさい駆引を使って失敗し、和邇族から資産を押えられ、全部没収されて、赤裸になってしまったことを物語るものである。

 

〝この隠岐諸島に、菟狹族は石器時代から住みついて、自給自足体制による農漁業をいとなんでいたことは、島後の西郷町から、石器時代の遺物が発見されたことによって実証される。

 

そして、その生活の九○%は、アマ(海士)による漁労・採取であったことは、菟狹族はウサ神、すなわち、ツキヨミノミコト(月読尊)をアマ(天)の神とするアマ(海)族であるという伝承によっても明らかである。〟

 

ちなみに隠岐島には、今も海士町という町があります。

 

「月にウサギ」というような話が驚きです。宇佐家は、月読尊を奉祭していたのです。

 

〝 菟狹族は、この教示を実行にうつし、隠岐諸島の領有権はもとより、物品貨幣の全財産の所有権を和邇族に移譲して、長年住みなれた島を去った。

 

そして、オオクニヌシノミコトが、菟狹族に無償で与えた因幡国八上の地に移住して、この地を開拓して定住し、のちに、ここを根拠地として、山陽・北九州・東九州地方にまで発展し、古の菟狹国をつくって繁栄するに至った。〟 (宇佐公康著 『宇佐家伝承 古伝が語る古代史』 木耳社)

 

隠岐をワニ族に譲り、大国主命が与えた因幡国八上の地に移動したと云います。

 

もしかして、八上は、宇佐神宮の八幡神に由来していないかなどと、頭によぎります。一般的には、大国主命と結婚した八上姫に由来すると考えられています。

 

霊石山  天照大御神が巡幸したという伝承があります。西側には、大国主命の背負っていた袋に由来する「袋河原」「布袋」という地名があります。

 

 

ここでいう八上の地、因幡国八上郡の古代の中心地であった霊石山の南麓には3つの白兎神社があります。

 

福本の白兎神社

 

 

江戸時代初期の鳥取藩医・小泉友賢(1622-16919)著の『稲葉民談記』(1688)によると、

 

土師百井    大菟明神

 

福本      大菟明神

 

池田      大菟明神

 

内海      大菟明神

 

四つの大菟明神が書いてあり、このうちの上3つが、霊石山の南側、土師郷にありました。

 

ワニ族の足跡を探る

 

隠岐の国造

さて、もともと菟狹族が領有していた隠岐を和邇族に移譲したという宇佐家の伝承です。

 

隠岐の国造家を見てみます。

 

『先代旧事本紀』の「国造本紀」では、

 

意岐国造(おきのくにのみやつこ)は、応神天皇(第15代)の時代、孝昭天皇(観松彦香殖稲命、みまつひこかえしね)の弟とも言われる観松彦伊呂止命(みまつひこいろとのみこと、観松彦色止)の5世孫である十挨彦命(とおえひこのみこと)を国造に定めたことに始まると書かれています。

 

氏族自体は、第5代天皇の末裔で古いですが、決められた時期が応神天皇の時代だから比較的新しい方の部類です。

 

孝昭天皇といえば、第一皇子が天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと、天押帯日子命)であり、和邇氏の祖とも云われる皇子ですので、まんざら関係がないとは言えません。

 

皇別氏族の系譜であり、『新撰姓氏録』(815年)にも天足彦国押人命を祖とした氏族が、和迩(わに)部です。

右京  皇別 和迩部 天足彦国押人命三世孫彦国葺命之後也 

 

山城国 皇別 和迩部 小野朝臣同祖天足彦国押人命六世孫米餅搗大使主命之後 

 

摂津国 皇別 和迩部 大春日朝臣同祖天足彦国忍人命之後也

 

また、出雲族系の氏族系譜にも、ワニが出て来る氏族があります。

大和国 神別 地祇 和仁古 大国主六世孫 阿太賀田須命之後也

「阿太賀田須命(あたかたすのみこと)」が始祖なので、宗像族とも同族関係にあったのかもしれません。

 

因幡の国造

「国造本紀」によると、成務天皇の時代に彦坐王の子・彦多都彦命が初めて国造に任じられています。

 

彦坐王(ひこいますのおう)は、第9代開化天皇の第三皇子であり、和邇氏遠祖の姥津命の妹の姥津媛命(ははつひめのみこと)との間に生まれた皇子となっています。

 

因幡国造の初代は、和邇氏系でした。

 

青谷上寺地遺跡の線刻

和邇は、ワニか?サメか?

 

記紀神話に登場する和邇(わに)は、爬虫類のワニ(鰐)か、魚類のサメ(鮫)かという論争が昔からあり、古くは本居宣長がワニ説でした。

 

日本には、ワニ(鰐)は生息していないので、サメであるという考えもありますが、一方、平安時代の事典のような『和名類聚抄』には、和邇は、四足のワニ(鰐)であることが書かれているので、そういう論争も成り立ちます。

 

また、山陰の隠岐や広島の備北地区では、サメの料理をワニ料理と言います。山陰ではサメのことを俗にワニというそうです。(自分は山陰の人間ですが、直接聞いたことがありません。)

 

ともかく、そういう論争があり、現在はサメ説の方が古代史の世界では多数派だと思います。

サメの線刻画

 

鳥取県の青谷上寺地遺跡がある場所は、因幡国気高郡です。

 

青谷上寺地遺跡展示館を見学して驚きました。

 

サメをトーテムにしていたかのように、サメを線で描いた出土品をたくさん見たからです。

 

弥生時代の土器  青谷上寺地遺跡展示館

 

 

銅剣の一部の写真 青谷上寺地遺跡展示館     銅剣そのものは鳥取県博物館所蔵

 

 

他の弥生時代の遺跡で出土したのは、島根県出雲市の白枝荒神遺跡、鳥取県大山町の茶畑六反田遺跡、兵庫県北部の袴狭遺跡など、山陰の日本海沿岸部です。

 

弥生時代に日本海沿岸部に広く分布したワニ族の証なのかもしれません。

 

と同時に、「倭国大乱」の時代に、ウサギ族とワニ族の戦争というものが本当にあったような気がします。

 

 

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