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中世には出雲大社の祭神が、大国主命から素戔嗚尊に変えられたのはなぜか?

出雲(杵築)大社は、『古事記』や『日本書紀』であれほど祭神は大国主命と書かれたのに、中世には、鰐淵寺の影響等で、祭神が素戔嗚命に変えられてしまったといわれています。中世というのならいつの時代に変えられたのでしょうか?なぜ変える必要があったのでしょうか?

出雲大社の銅門 素戔嗚尊が祭神の最後の年 

出雲大社の四の鳥居、拝殿にたどりつく最後の銅の鳥居ですが、戦国武将・毛利輝元の孫である毛利綱広が、江戸時代の初期、寛文6年(1666年)に寄進したものです。 【参考】 出雲市/ 出雲大社

その銅の門には、出雲大社(当時、雲陽大社とも呼ばれていた)の祭神が、素戔嗚尊であるということが、刻まれています。

日神者地神五代之祖天照太神是也、月神者月読尊是也、素戔嗚尊雲陽大社神也

素戔嗚尊雲陽大社神也」つまり、「素戔嗚尊は、雲陽大社の神である」ということです。


※日神の後に「地神五代の祖 天照太(大)神」とありますが、「天照大御神は、天津神であって地神ではないのに?」と、思いがちですが、中世の神道では、天神七代がまずあり、地神五代(①天照大神②正哉吾勝々速日天忍穂耳尊③天津彦々火瓊々杵尊④彦火々出見尊⑤彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊)として位置づけられています。
【参考】 『神道集』の神々

銅の鳥居の左側には、

寛文六年・丙午・林鐘吉日
防長二州勅史
従四位下・行侍従兼大膳大夫大江綱廣朝臣

と刻まれています。ちなみに、毛利氏は、相撲の元祖 野見の宿祢の末裔で、大江姓を名乗っています。つまり、出雲国造家とは、天穂日命を祖と仰ぐ同系の氏族だということになっています。詳しくは 相撲の元祖 野見宿禰と出雲

さて、出雲大社の祭神が、素戔嗚尊から大国主命に戻った契機が、寛文7年(1667)の造営遷宮であったと云われています。それまでの出雲大社には、仏堂や仏塔が立ち並んで神仏習合していましたが、寛文7年の遷宮のために、神仏分離・廃仏毀釈が行われたのです。

つまり、毛利綱広が銅の鳥居を寄進した、寛文6年(1666年)は、素戔嗚尊が祭神の最後の年であった可能性が強いのです。

祭神が素戔嗚尊に変わったと考えられるのは平安時代?

ばくぜんと中世に変わったと言われていますが、具体的にいつ頃というのははっかりしていません。ただ、意外にも平安時代の早い所で変わっていたと思われる節があります。

平安時代の遅くとも、九世紀末には成立していたとみられる『先代旧事本紀』に素戔嗚尊の記載があるからです。

伊弉諾尊、御身を滌ぎたまふ時に所生せる神三柱。…中略… 御鼻を洗たまふ時、所成せる神を建速素戔烏尊と名づく。出雲国の熊野・杵築の神宮に坐します。

『先代旧事本紀』巻第一(陰陽本紀)

この文章をどう解釈するかですが、杵築大社(現 出雲大社)で、大国主命と素戔嗚尊2つの祭神を祀っていたという解釈も成り立ちます。しかし、延喜式神明帳(927年)の出雲国出雲郡の記載順を見ると、不思議なことに気づきます。

大穴持神社 小社
杵築大社 大社 名神大社
同社大神大后神社 小社
同社坐伊能知比売神社 小社
同社神魂御子神社 小社
同社神魂伊能知奴志神社 小社
同社神大穴持御子神社 小社
同社大穴持伊那西波伎神社 小社
同社大穴持御子玉江神社 小社
阿須伎神社 小社 
以下 略

小社である大穴持神社が、名神大社である杵築大社を出し抜いて筆頭です。この大穴持神社は、廃絶されて比定社はないことになっています。『出雲国風土記』にも記載がありません。奈良時代の杵築大社の摂社の一つが発展してひとつの小社に発展したという解釈だと思われますが、なぜ筆頭なのでしょうか。

杵築大社の祭神が、素戔嗚尊に変更されたために、大穴持(大国主命)が、独立遷宮したとは考えられないでしょうか。

霊亀2年(716年)から天長10年(833年)まで出雲国造が朝廷で行った『出雲国造神賀詞』(いずものくにのみやつこのかんよごと)には、「大穴持命の申し給はく・・・八百丹杵築宮に静まり坐しき。」とあるので、833年よりも後に祭神が素戔嗚尊に変わったと推察されます。

大国主命に祭神が戻る前には無かった素鵞社

素鵞社(そがのやしろ)

なぜに、大穴持神社が遷宮独立した神社になったと思うのは、出雲大社の背後に鎮座する素鵞社(そがのやしろ)の存在です。

素鵞社に至っては、延喜式の杵築大社に続く同社の中にありません。それゆえ、出雲社に比定する考え方が昔からあります。

しかしながら、大国主命に祭神が戻ったであろう寛文7年(1667)の造営遷宮よりも前の絵図には、その素鵞社はないのです。下の図が、慶長十四年御造営之図(1609年)です。本殿の裏には素鵞社はなくて、出雲国造の北島屋敷があります。

慶長十四年御造営之図 部分抜粋  島根県立古代出雲歴史博物館の展示物

つまり、出雲大社の祭神であった素戔嗚尊が大国主命に戻ったが故、その祀り場所がなくなったために、素戔嗚尊を祀る素鵞社が新たに造られたと考えられます。

出雲国造家の祀る神は、もともとは素戔嗚尊であった

熊野大社  島根県松江市八雲町熊野2451 
出雲国造家の元々奉斎していたのは熊野神社で、出雲国意宇郡から、出雲郡杵築郷(現在の出雲大社周辺)に10世紀頃、移転してきたのではないかと言われている。(国造家の伝承では、8世紀初め)

出雲国造家の祭る神は、天長10年(833年)の『令義解りょうぎげ』の(wiki令義解)に見られるように、国津神(地祇)の大国主命(出雲オオナムチ神)ではなく、天神の素戔嗚尊でした。

天神者。伊勢。山城ノ鴨。住吉。出雲国造斎神等類是也。

地祇者、大神、大倭、葛木鴨、出雲大汝神等類是也。

出雲国造家がもともと祭祀していたのは、素戔嗚尊としての熊野大神です。(これも、複数の社家によって矛盾を抱えた祭神であり、8世紀中期以後の『出雲国造神賀詞』でも出雲国造家は素戔嗚尊とは表現せず、「伊射奈伎乃日真名子(いざなぎのひまなこ)加夫呂伎(かむろぎ)熊野大神櫛御気野命(くしみけぬのみこと)」としています。
しかし、先の『先代旧事本紀』には、〝御鼻を洗たまふ時、所成せる神を建速素戔烏尊と名づく。出雲国の熊野・杵築の神宮に坐します。〟とあり、平安時代には、中央では、熊野大神も杵築大神も、素戔嗚尊というとらえ方だったと思われます。

天穂日命あめのほひのみことを祖とする出雲国造家ですが、記紀神話では、その天穂日命は、天照大御神と素戔嗚尊との誓約うけいで生まれた天照大御神の第二皇子ということになっています。(そういう観点でいえば、父方の祖なのかもしれません。)
姓は、出雲臣です。(出雲臣=出雲国造家と書かれた本が多いですが、実際は、出雲国造家だけではなく、様々な系統の出雲臣が存在します。出雲大社の旧社家であった富家も出雲臣です。)

須佐神社 本殿 島根県出雲市佐田町須佐730
祭神 素戔嗚尊 高群逸枝『母系制の研究』によれば、式内須佐神社の神主家も家譜によれば出雲氏を称していたそうである。

つまり、出雲国造家が本来祀る神と記紀神話での祭祀がもともと矛盾があったので、奈良時代に確立された律令体制や神祇体系が崩壊する過程で、本来の祭祀神に戻ったということだと思われます。

『大社町誌』では、律令体制時代の素戔嗚尊祭神説を「苦し紛れのスサノヲ祭神説」と表現しています。

国造出雲市の熊野大社を中心とした伝統的な祭祀の形態と、これをまったく無視した記紀神話(官製「出雲神話」)との矛盾によるものだった。国造側では、国造新任時に行う神賀詞奏上の機会などをとらえ、繰り返し自分がイザナギの子クマノ大神と国造りの神オホナムチ以下、出雲国内一八〇余社すべての祭祀を司る存在であると述べて、何とかこの苦境から逃れようとした。平安初期から現れている祭神スサノオ説も、この延長線上にあるもので、そこでは主として熊野大社に視点をすえて、熊野大社そして杵築大社もまた天神アマテラスの弟スサノオヲを祭神とすることが主張されたのであった。

『大社町誌 上巻』 平成3年9月30日発行 大社町発行

つまりは、鰐淵寺の影響というよりは、出雲国造家自体が、祭神を素戔嗚尊に変える主体的要因があったと思われます。

素戔嗚尊を祭神とする杵築大社の側の古文書

祭神を大国主命ではなく素戔嗚尊とする文書の初出はいつかはわかりませんが、建武3年(1336年)の文書があります。

謹みて旧記を検ずるに、当社(杵築大社)大明神は、伊弉諾・伊弉冉の御子、天照大御神の弟、天下社禝しゃしょくの神素戔烏尊これなり。 十束とつかの利剣を振るいて、八咫の毒蛇を割き、八目の鏑箭かぶらやをもって呉国の凶徒をうち、国域の太平を致す。 而してなお戎敵じゅうてきを防がんため、神殿を高大に建て、或は四海を守り、不慮を警す。 故に、これを矢蔵やぐら明神と号す。 或は浮山を留めて垂れ潜む。 故に、これを杵築大社と号す。彼の嚢時法楽のうじほうらく経巻凝して嶋を作り、往代警固の甲冑化して石と成る。霊威すでに天下に振るい、明徳博く海内に聞こゆる者か。自余の奇特勝口すべからざる者か。然らば則ち、本地の加被を仰ぎ、聖主殊に敬神有るべきはこの神なり。垂迹の護持を憑み、武家もっとも崇敬すうけいせらるべきは当社なり。

建武三年(1336)の国造出雲孝時解状土代写 [千家家文書]

鎌倉時代が終わり、南北朝の時代の頃の文書です。神仏習合時代の神話を示すと同時に武家にふさわしく軍神として戦に強いイメージの素戔烏尊が強調されています。

鎌倉時代末期成立したと言われる『大山寺縁起』にも、直接素戔嗚尊の名前は出てこないけれども、素戔嗚尊を想像させる同様の記述があります。

乙見神社の社稷神 出雲市大社町入南360
中世神話の名残なのかもしれない。

社稷(しゃしょく)

中国古来の祭祀の一つ。社は土地の神,稷は穀物の神で、この両者が結合し、周代に政治的な礼の制度に取入れられ、天下の土地を祭る国家的祭祀になった。そのため国家の代名詞としても用いられる。社稷の祭りは春秋2回行われ、天の祭りである郊、祖先の祭りである宗廟 (そうびょう) と並ぶ三大祭祀の一つとして、これを主催することは長い間天子の重要な任務とされていた。

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

素戔嗚尊が登場する鰐淵寺の寺伝

13世紀の寺伝には素戔嗚尊が登場しない!

鰐淵寺のもっとも古い寺伝である建長6年(1254年)の『鰐淵寺衆徒勧進状案』には「杵築大神」は登場するものの「素戔嗚尊」は登場しません。13世紀の段階では、ことさらに、素戔嗚尊と蔵王権現の関係を強調する必要もなかったのかもしれません。しかし、すでに杵築大神=素戔嗚尊の時代でした。

(1)天竺マガダ国霊鷲山りょうしゅせんの巽の角が欠けて、長い間波に浮かび流されて日本に着いた。それゆえこの山を「浮浪山」と呼ぶ。深洞・幽谷の中にはおびただしい貝が層を成し、また山腹に「波の跡」が残っているのは、ここが殊勝の霊地であることの証跡である。

(2)開祖は智春上人で、蔵王宝窟で修業中、水中に落とした閼伽器を鰐がくわえて淵の底から浮上したので、「鰐淵寺」と号した。

(3)素晴らしい霊地なので、「杵築大神」は毎夜中、ひそかに「霊嶽」の月に影向する。

※蔵王宝窟・・・浮浪の滝の裏側に洞穴があり、かつては蔵王権現が祀られていました。
※影向・・・神仏が一時姿を現すこと。

『鰐淵寺衆徒勧進状案』 現代語訳  山本ひろ子著『摩多羅神─我らいかなる縁ありて』より

浮浪の滝と蔵王堂

ところが、年月日未詳ながら、元亀年間(1570年~1573年)の頃とされる鰐淵寺の文書には、素戔嗚尊が鰐淵寺と杵築大社の創立の主人公であるかのような表現になっています。

当寺は、最初西天鷲嶺せいてんしゅうれいたつみの隅、欠けて浮浪し流れ来るを、素戔嗚尊築き留め玉ふ。故に浮浪山といふ。麓には霊祇利生れいぎりしょうの大社を建て、諸神降臨の勝地と定め、峯には権現和光の社壇しゃだんを構え、仏天影向えこうの結界を示す。夜半毎に大明神飛瀧の社地に歩を運び、仏法を護り国家を持し盟誓めいせいを成し玉ふ所以なり。ここをもって、杵築と鰐淵二にして二ならず、並びに仏道神道しばしも相離るる事無し。

鰐淵寺僧某書状断簡

書かれた内容をざっとまとめると次のような話です。

〝仏教発祥の地、釈迦が初めて法華経を説いた霊鷲山の隅が欠けて日本まで流れてきたのを素戔嗚尊がつき固めて浮浪山(つまり北山山系)となりました。不浮山の麓には霊験あらたかな神の御利益のある出雲大社を立て、神々が降臨するのにふさわしい場所とし、山の頂上には、蔵王権現の社殿を構え、仏や天部が、衆生を救済するために、現れる結界を張りました。杵築大明神(素戔嗚尊)は、浮浪の滝のところに毎晩やってきて、仏法を護り国家を持ち誓いを立てます。杵築大社と鰐淵寺は、一心同体であり、仏教も神道もちょっとでも離れることはありません。〟

中世の神仏習合時代の神として躍り出た素戔嗚尊

素戔嗚尊は、中世に信仰が広がった牛頭天王ごずてんのうや、新羅明神しんらみょうじんと同体とされていきます。
その仏教に関わる新羅明神は、滋賀県大津市園城寺町にある天台寺門宗の総本山の円城寺(三井寺)の守護神です。智証大師(814年 – 891年)が唐から帰国の途上、船中に老翁が出現し、自らを新羅国明神と称したといいます。
このことは、①素戔嗚尊が仏教の守護神となる②素戔嗚尊が新羅等の渡来神ととらえられるということです。

新羅明神はスサノオである。スサノオは新羅のソシモリに赴き、そこで久しい時を過ごした。智証大師が入唐求法を終えて帰朝する船に、「素髪の翁」として出現し、「私は新羅国の神である。師の教法を護ろう」と告げた。

『寺門伝記補録』

元来は、新羅明神は、この地方での地主神であったと言われています。つまり、新羅系の渡来人が住んでいたということです。元は朝鮮半島の渡来神であったものが、日本書紀の一書にあるように日本から曽尸茂梨そしもりに赴いた素戔嗚尊という日本の神に置き換えられたと思います。

鰐淵寺と同じ天台宗の宗派で、素戔嗚尊が、お寺の守り神としたことは、鰐淵寺が素戔嗚尊を守り神にした自然の流れをつくったのではないでしょうか。

鰐淵寺の摩多羅神と同体となった素戔嗚尊

古代、鰐淵山は浮浪の滝の蔵王権現を中心とした修験の道場でした。12世紀には比叡山延暦寺の末寺として境内に堂塔・僧坊が建てられました。つまりは、天台宗の寺院です。
かつては、本尊を千手観音菩薩とする北院と、薬師如来とする南院とに分かれていましたが、室町時代に両本尊を並べて祀る根本堂を創建し、両院が統一されました。

摩多羅神は、天台宗ゆかりの神

鰐淵寺の摩陀羅神社
常行堂の後戸に祀られていた摩多羅神が、この年に常行堂の後ろに寛文7年(1667年)に神社として建てられました。

伝説では、摩多羅神は比叡山の円仁が中国から帰国の際に感得し、比叡山に常行堂を建立したのが始まりとされています。だから、なぜお寺の境内地に神社が?ではなくて、もともと天台宗のお寺由来なのです。摩多羅神社に接続しているのは、いわゆる神社の「拝殿」ではなくて、「常行堂」です。

さて、この摩多羅神社ですが元は、唐川にありましたが、天正年間に吉川元春によって別所の鰐淵寺に移されました。(山本ひろ子著『摩多羅神─我らいかなる縁ありて』)

素戔嗚尊のお墓 摩多羅神

江戸時代初期の地誌『懐橘談』にも、摩多羅神=素戔嗚尊と明確に書いてあります。

左に摩多羅神の社あり、此は伝教大師渡唐の時、青龍寺にて鎮守を祈る、即ち素戔嗚尊是を摩多羅神と号す、天台の守護神なり

『懐橘談』(1653頃)

その唐川の摩多羅神社跡は、唐川の茶畑の中にありますが、「素戔嗚命のお墓」と呼ばれていました。また鰐淵寺の浮浪の滝の上の峯にも素戔嗚命の葬地と呼べる場所がありました。『雲陽誌』には、浮浪の滝を登ったところの山頂に、素戔嗚尊を摩多羅神として祀っていたことを述べています。

飛瀧社の絶頂を熊成の嶽といふ、八葉の其一なり、弥山ともいふ、素戔嗚尊を葬たてまつるといえり、神書に熊成の嶽に神去りますといふもしかなり、故に素戔嗚尊を山上にまつりて摩多羅神と崇敬す、

『雲陽誌』

※ 飛瀧社…浮浪の滝の蔵王権現のこと 
※ 熊成の嶽
※ 弥山…出雲大社近くの弥山とは別です。

鰐淵寺の蔵王権現=素戔嗚尊というのが通説で、そのように書いてある本や論文がたくさんありますが、こうして、摩多羅神として別個に書いてあるところをみると、摩多羅神=素戔嗚尊であって、蔵王権現とは同体ではないと思われます。

摩多羅神は、必ずしも本来素戔嗚尊ではない

比叡山では、摩多羅神が臨終や往生を司る働きから荼枳尼天だきにてんと同体とされたり、大黒天と同体とされたりすることがあります。
大黒天と同体ならば、摩多羅神=大国主命であっても不思議はないですが、杵築大社の祭神がすでに大国主命から素戔嗚尊に変わっていたので素戔嗚尊と同体になったのかもしれません。

濃厚な素戔嗚尊伝承地 唐川

唐川の摩多羅神社跡

韓竈神社遥拝社 島根県出雲市唐川町207
『平田市誌』によれば、明治5年2月に遥拝社を設けたとあります。

韓竈神社遥拝社

唐川町の韓竈神社からかまじんじゃ遥拝社の裏手の茶畑には、「素戔嗚尊の墓」と呼ばれる摩多羅神社がありました。
『島根県口碑伝説集』 (島根県教育会 発行 昭和2年)の抜粋です。

二、素戔嗚命の御墓所

大字唐川、氏神神社拝殿附近の畑に、素尊の御墓と称するものがあったが、往古、其の塚に在った骨を掘り出して、摩多羅神に納め、今は其の跡が無いと云ふ。伝ふる所によれば、その脛骨は非常に長く太きより推して、御丈けは八尺に達したであらうと想像せられると云ふ。

『島根県口碑伝説集』116コマ

※御丈けは八尺…身長が約240cm

摩多羅神自体は、鰐淵寺が比叡山の末寺となったのが12世紀なので、古いものではありません。となれば、元は唐川町の地主神を祀っていたものを、摩多羅神として再編された可能性があります。

韓竈神社

この唐川町の地名ですが、

鎌倉時代末期に楯縫郡辛川村と記され(『鰐淵寺文書』)江戸期には、楯縫郡唐川村とあり、鰐淵寺領で、唐川炭と呼ばれる木炭生産が盛んであった。

『平田市大辞典』

この唐川町の「唐」(から)は、鎌倉時代は「辛」という漢字ですが、おそらく韓竈神社の「韓」(から)からきていると思われます。

韓竈神社 島根県出雲市唐川町408
延喜式には「韓竈神社」と記載されています。いわゆる朝鮮半島の釡ですが、『出雲国風土記』(733年)には、「韓銍社」とあり、いわゆる朝鮮半島の鎌です。

急激な自然石の石段を登って行き、最後は極めて狭い岩の割れ目(幅が45cmぐらい)をくぐっていかないと到達できない古社です。

朝鮮半島から渡来した金属の技術者が奉斎する神だったのかもしれませんが、高天原から新羅の国ソシモリに降臨した素戔嗚尊に結びつけられることが多く、主祭神は素戔嗚尊です。

『日本書紀』 一書(第四)
素盞嗚尊の行いはひどいものであった。 そこで、神々が、千座の置戸の罪を科せられて追放された。この時素盞嗚尊は、その子五十猛神をひきいて、新羅の国に降られて、曽尸茂梨ソシモリの所においでになった。 そこで不服の言葉をいわれて「この地には私は居たくないのだ。」と。 ついに土で舟を造り、それに乗って東の方に渡り、出雲の国の簸の川の上流にある、鳥上の山についた。

『日本書紀』 一書(第五)
素盞嗚尊が言われるのに、韓郷の島には金銀がある。もしわが子の治める国に、舟がなかったらよくないだろう」と。そこで鬢を抜いて杉、胸毛から檜、尻毛から槙、眉毛を樟となしたとある。 

大人伝承

唐川町ではなく、隣の河下町に「大人おおひと」というあざの場所があります。大人には、次のような伝承が残っているそうです。

昔、大人おおひとに大きな人が住んでいた。あるとき、大きな人が、大人おおひとの地から唐川町の鈴谷りんたにの入り口にある「宮が原」に手をついた。そのとき、大きい人の腹にあたる場所が、お茶の里唐川館の北となりの荒木家であった。そのため荒木家の屋号を「原」という。大人おおひとから原家まで直線で1000メートルあり、大人がいかにい大きな人であったかがわかる。
また別の伝承では、大人おおひとに「大人族おおひとぞく」と呼ばれる集団が住んでいた。大人族おおひとぞくは、朝鮮半島からの渡来人で、製鉄や開墾、農耕等の技術を持った人々で、地域に大きな貢献をした。この人々の活躍から大人伝承が生まれたものと思われる。

『鰐淵探訪』 編集発行 鰐淵コミュニティセンター

実際、弥生時代から古墳時代に通じて、唐川町近辺に渡来人が住んでいたのかもしれません。

参考文献

少しずつ加筆・更新してまいります。

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