現在は、埋め立てられ田畑になっていますが、出雲大社の前の東南に「菱根池」という広大な池がありました。池というと小さなものを想像しますが、その大きさから、池というよりは湖と呼んだ方がいいと思ってしまいます。その菱根池は、出雲国造にとって祭祀に欠かせない重要な池でした。
出雲大社摂社 大穴持御子玉江神社(乙見社)
島根県出雲市大社町修理免920
元は、菱根池の南東に鎮座していました。

奈良時代の菱根池の場所
島根県立古代出雲歴史博物館の展示品にあった『出雲国風土記』(733年)時代の地図に私が加工したものです。
赤丸で示したところが、菱根池です。当時は、斐伊川が菱根池に流れていたのです。ある古代史の本では、「神門の水海」だけ書かれているものや、神門の水海と一緒にされているものもあります。

雲陽誌における菱根池の記事
江戸時代にすでに埋め立てられた菱根池のことが書かれています。
菱根池
大社の前にあり、池の中に株を立て是より殺生禁断の境とす、寛永年中埋て田疇となる、今は六ヶ村に分修理免入南菱根江田矢島濱村といふ、
『雲陽誌』
埋め立てられた池から、修理免・入南・菱根・江田・矢島・浜村の6つの村が生まれたわけなのでいかに広い池だったかがわかります。池の中の杭から、殺生禁断の─つまり出雲大社の神域が、菱根池の途中にあったようです。
かつて出雲国造は、菱根池で水葬を行っていた
『雲陽誌』よりも、前の出雲国の地誌『懐橘談』には、出雲国造が水葬を行っていたことが書かれています。
菱根池
菱根の池は大社の前にあり、池の中に株を立て、是より殺生禁断の境とす。昔は国造身退は赤半にのせて、この池に沈めしとなり。孟子曰く、上世、其の親死する、則は挙げて之を壑に委と云い易に曰く。古之葬者、厚く之を衣する。薪を以てし之を中野に葬り封ぜず樹期といへるも、皆是上古の風儀なるべし。
『懐橘談』下巻 (1653)
弘仁年中に穂日二十五世の孫、国造千國よりぞ、土葬にし侍る。浮屠の書諸、経要集を見侍りしに、凡そ葬法に四種あり。一に曰く水漂。二に曰く火焚。三に曰く土埋。四に曰く施林と云々。五分律には、若し火に焼く時、安在石上に草を得ざる土に、虫を傷らんと恐ると有り。火葬は佛氏よりぞ出たり。
昔(平安時代の頭)までは、出雲国造が死去すれば、赤牛にのせて、菱根池に沈めたといいます。
弘仁年中(810年から824年)出雲国造家 土葬になる
〝弘仁年中に穂日二十五世の孫、国造千國よりぞ、土葬にし侍る〟と水葬から土葬に変わったことが書かれています。〝穂日二十五世の孫、国造千國〟とはありますが、『出雲国造世系譜』によれば、出雲国造千國は、天穂日命の25世の孫ではなく、24世の孫です。そして26世が、716年に朝廷で神賀詞の奏上を行った出雲国造果安なので、「弘仁年中」とは、つじつまがあいません。
しかし、出雲國造 出雲臣・千家家・北島家系譜 によれば、出雲国造千國は、29世孫で、出雲国造に797年就任
とあり、弘仁年中は、31世孫の出雲国造旅人の時代なので、もしかすると、この時代に29世孫の千國がお亡くなりになったのかもしれません。
概ねこの時代に、菱根池の水葬が止められたとすれば、「国造出雲氏が杵築に移住したと推定される十世紀ごろ」(『大社町誌』)という通説よりも、早く国造家の伝承通り、8世紀には移住していたのでしょう。
菱根池に流れる斐伊川の入江の「乙見」(おとみ)とは?
冒頭に述べた出雲大社摂社である大穴持御子玉江神社(乙見社)は、もともとは、菱根池の南東の入南(にゅうなん)という場所に鎮座していました。
入南とは、入江の南という地名です。つまり、入江とは菱根池に流れる斐伊川の河口を意味します。
現在も入南には、大穴持御子玉江神社とは別の乙見神社が鎮座しています。この両社の関係が、大穴持御子玉江神社が修理免に遷った後の後裔の神社が乙見神社であるという説もありますが、乙見神社の現在の由緒を見る限りではそう思えません。(詳しくは、私の別サイトで展開しています。→ 乙見神社 島根県出雲市入南と菱根池 )
乙見神社 島根県出雲市大社町入南360

その前に、この「乙見」というのは、入南方面の固有の地名なのか、それともなんの意味がある言葉なのか謎です。
奈良時代より、出雲国造が大和朝廷に出向き、天皇の前で奏上したのが『出雲国造神賀詞』(いずものくにのみやつこのかんよごと)であり、『延喜式』にその文章が残って居ますが、「遠止美」(おとみ)という言葉が登場します。
出雲国造神賀詞いづもくにのみやつこかんよごとの遠止美(おとみ)
『出雲国造神賀詞』の後半部分に「彼方の古川岸、此方の古川岸に生ひ立つ若水沼間の、いや若えに御若えまし、須すぎ振る遠止美の水の」に登場します。
※『出雲国造神賀詞』の全文と現代語訳がこちらのサイトに載っています。→ 平成出雲風土記 出雲国造神賀詞
現代語訳を読むと、天皇が、淀の水から逆流してのぼるがごとく、ますます若返りになられることを祈るような言葉に聞こえます。つまり、一般的には、遠止美の水とは、「淀んだ水」と思われているようです。淀んだとは、流れが滞って水がたまっている状態で、池や河口付近に見られます。
関 和彦氏の解釈によれば、彼方の古川岸、此方の古川岸とは、神門水海に流れる神門川(現在 神戸川)と斐伊川の岸辺ではないかということです。
「古川岸」とは、古い川岸ではなく、歴史経(ふ)る川の岸辺であろう。神賀詞の内容を合せてその「歴史経る」、彼方・此方の川を探すならば出雲大社前面の「神門水海」に注いでいる斐伊川と神門川であろう。
関 和彦 『神門水海の神話的空間 ─歴史地理学的神話論─」 島根県古代文化センター 『出雲国風土記の研究 Ⅳ』
奈良時代当時の地形から見ますと、神門川の岸辺が「高岸郷」、斐伊川の岸辺が「多芸志」の辺りが位置します。
それも、後代に神門水海とその一部の菱根池が土砂で埋まってきて、斐伊川の岸辺が入南辺りにまでになったのではないかと思われます。
様々な遠止美(乙見)の解釈
千家方の第79代出雲国造の千家尊澄の文書で『遠止美乃水考』という文書があります。(島根県古代文化センター 『出雲国風土記の研究 Ⅳ』に載っています。)さまざまな角度から遠止美乃水を考察しています。
禊みそぎに関係する淀みの水
さるは鈴屋翁の後釈に、遠止美の水、遠止の美水(みもひ)、と両方に訓て、遠止美は淀みなり、今も此伊勢人などは、水のよとむをも、又事の盛りなるか弛ひ静まるをもをとむといへり
※ 鈴屋翁…国学者本居宣長の別称
千家尊澄 『遠止美乃水考』
※ 後釈…本居宣長著『出雲国造神寿後釈』
まずは、現代の通説とも言うべき本居宣長の解釈である「遠止美は淀み」を述べます。「淀み」とは、水や空気などが流れずにたまっていることであり、その場所のことも云います。
関連して『出雲国風土記』(733年)の仁多郡の三津(三澤とも)の水について展開していきます。関連の記事→ アジスキタカヒコネと三澤郷
国造の此の斎にも、用ひ初ることなれば、御贄五十舁の内にもまじえて、此水を献るなるべし、さる故に此言はあるならむ、かの三津が斐の川に傍ひたる郷にて、津は其川門なり、かくて滌ぎ振るといふは、かの神代に、阿遅須伎高日子命の御身沐浴坐、とあるにつきて、いへるにて、をとみの水とは川にて、身にまれ物にまれ、滌ぎ振れば、その勢ひにて、流るる水の、淀みてやや上さまへもさかのぼる故に、いへり
千家尊澄 『遠止美乃水考』
仁多郡三澤郷の三津池(三澤池とも)は、出雲国造が、神賀詞を奏上するため、朝廷に行く前にその水を初めに用いる水です。
風土記の仁多郡三澤郷のくだりでは、大国主命が夢で祈願されたあと、言葉を話せない阿遅須伎高日子命が、「御澤」と話し、それはどこかと大国主命がたずねると、阿遅須伎高日子命は、石川を渡った所の津(澤とも)の場所を示し、そこで沐浴したという話があります。
遠止=小門で、川門のこと
千家尊澄氏は、「遠止は小門にて、三津の川門をいふ」として、伊弉諾命が禊をした橘の小門も同様であるとしています。そうなると、神賀詞にでている小門は、神門の水海にながれる神門川と斐伊川の河口ということになるのではないでしょうか。
遠止美の水は、真名井の水
真名井の清水 島根県出雲市大社町杵築東真名井
祭神 彌都波能賣神
出雲国造の寿命を延ばす「歯固めの神事」には、この真名井の清水の小石を用いる習わしだそうです。

今の乙見の社地は、いふもさらなり、真名井のある所をもすべて近きわたりを、遠止美といひけむを、その郷の中に真清水の(今の、真名井の水なり、)あるを、遠止美の水といひて、朝廷に献りしなるべし、この水の名高き事は、大同類聚方二十二巻云、乙見薬、出雲国造乃方云々、冷水一味、毎與之、とありて冷水はすなはち、この真名井の水にて、いみしき奇薬なりけむかし
千家尊澄 『遠止美乃水考』
真名井の清水がある場所は、大穴持御子玉江神社(乙見社)の近くです。そこらへんの地域も含めて、「遠止美」といったかはよくわかりませんが、確かに『大同類聚方』(だいどうるいじゅほう)(808年)の二十二巻には、「乙見薬 出雲国造尊積家乃方、波支古紀之而吐食乎大爾腹痛大便重久下利九死一生乃者救乎薬方 冷水 一味毎々与之也」とあります。
※『大同類聚方』…平安時代初期に編纂された日本最古の医学書。
地名としての乙見
乙見社に往昔が入南にありしことは、いよいよ明らかなり、されど自是東在砂濱其所于今号乙見、とあるは寛文の頃、かのわたりすべて、乙見といひて、いまだ入南といふ名はなかりしなるべし
千家尊澄 『遠止美乃水考』
入南という場所は、奈良時代の地図で見ると、菱根池の中です。菱根池の東の砂浜すべて乙見と呼んでいたかもしれません。
下照姫命を祀るオトメノ社→オトミノ社
さて、ヲトミといふよしは、ヲトミノ社のあるよりの名なり、さるは此社には、大国主大神の、比賣御子下照比賣命(天若彦日子も鎮座)の鎮座はヲトメノ社といひけむを賣と美を草書にてよく似たれば、後の世に訛れるなるべし
千家尊澄 『遠止美乃水考』
修理免の乙見神社も入南の乙見神社も、同じく祭神は、下照姫命です。いわゆる、乙女の社から乙見と社へと、転訛したのではないかという説です。神社名から地名も乙見となっていったかもしれません。
なお、『出雲国造神賀詞』の「生ひ立つ若水沼間の」に着目して、民俗学者 折口信夫の「みぬまが水辺に現れる禊を助ける神女」説を述べた文章があります。 水の女 折口信夫/青空書院
『遠止美乃水考』という文書には、月の変若水(をちみづ)等の他の説もありますが、省略しました。
少しずつ加筆更新していきます。