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謎の御陵神社 出雲市大社町鷺浦

Googleマップで出雲市大社町の神社を検索すると、鷺浦に御陵神社が表示されます。「御陵」と聞くと、どんな神様のお墓なのか、あるいは、天皇や皇后のお墓なのだろうか、疑問が出てきます。現地の伝承などを踏まえて考察してみました。

島根県出雲市大社町鷺浦 鳥居の奥に巨岩があり、祠が祀られています。

御陵墓(ミサキボウ)、ミサキブリさんと地元では呼ばれている

県の図書館で様々な本でこの神社のいわれを調べようとしましたが、ほとんどわかりませんでした。(ちなみに『大社の史話』や『大社町誌』を見ましたが、御陵神社の記事は見つかりませんでした。)

磐座(いわくら)の本を見ましたら、須田郡司さんの本にありました。

日御碕と鷺浦を結ぶ道路沿いにある巨岩。地元では、山の神、御陵墓(ミサキボウ)と呼ばれ、特に祭りは無く、一帯は梅の谷と呼ばれている。

須田郡司 企画制作 『出雲の國(出雲市編)巨石マップ』

私が、聞いた地元の方は「ミサキブリさん」と読んでいました。

「山の神」とありますが、巨岩の山は、太々山(だいだいやま)ですが、総じて、北山山系(東は旅伏山まで)で、出雲国風土記時代は「出雲御埼山」(いづもみさきやま)と呼ばれていました。

伊奈西波岐神社の旧社地伝承

 伊奈西波岐神社 島根県出雲市大社町鷺浦102

著名な出雲国風土記研究家である関和彦さんの本に書かれています。(太字は私。)

鷺神社の旧社地と書かれていますが、伊奈西波岐神社は鷺神社(さぎじんじゃ)とも呼ばれています。

鷺浦に注ぐ八千代川を四丁ほど上ると左手の山壁に大きな磐座が見える。小さな木の鳥居が見えるがここが鷺神社の旧社地という。『出雲国風土記』の時代は鷺浦の岸辺はもう少し奥まで入り込んでいたらしい。鷺神社の伝・旧社地には現在も磐座への接近を遮るように白木の鳥居が立てられている。陽も届かない鬱蒼とした木々の下、少し斜めに立つ白木鳥居は原始・古代の信仰空間を今に伝えている。

関 和彦著『古代出雲への旅』(中公新書)

鷺浦の国土地理院地図  鳥居の場所が、 伊奈西波岐神社です。

郷土史家の杉谷正吉さんの本『鵜鷺古事集抄』にも、このことが書かれています。あくまで、「故杉谷磯松翁口伝」として載っています。以下抜粋です。

一説に、古代さぎ浦は、「佐木浦」と言った、(註 神社創立由来紀では佐岐浦)往痔、佐木某という人が上司の命をうけて、この地一帯の主となり永年住みついたと伝えられるが、佐木某又はその一族が前記安部荒武者たちと同行して居たという言い伝えは残っていない。

その頃のさぎ浦の海岸線は現在の梅谷道入口附近まで入り込み、住みついた人たちはこれより南、杵築谷と梅谷の川沿いに住居を構えて居り、其後、幾世代を経て後、稲背脛命を主神として祀った氏神は梅谷入口で、太々山山麓に建立された。其後、何たびか襲った洪水と山崩れのため、杵築谷、梅谷から流出した土礫は永年の間に下流に堆積して、現在の海岸線を形成したものであると、古老からの口伝で聞いている。


杉谷正吉著 『鵜鷺古事集抄』 1972年

御陵神社のある梅谷の八千代川

古代の御埼社ではないのか?

御陵神社のある梅の谷が、伊奈西波岐神社の元の鎮座地であることはわかりました。では、あの祠はなぜに伊奈西波岐神社の元宮と呼べばいいところ、御陵神社なのでしょうか?

ここからは、私の推察です。

「ミサキボ」あるいは「ミサキブリ」というのですから、単純に元はミサキ神社だったのではないかと私は思ってしまいました。

『出雲国風土記』(733年)によると、出雲郡には、神祇官社1、不在神祇官社2というように、3つもミサキ神社があります。なぜだか、「美佐伎社」、「御前社」、「同御埼社」と、別の漢字が当てられています。神祇官社1の「美佐伎社」は、通説では、現代の日御碕神社が比定社とされています。(厳密に言うと、日御碕神社は、美佐伎社と百枝槐社(もものえにす)を合わせたものとされています。)

 ちなみに伊奈西波岐神社は、出雲国風土記時代は、企豆伎(きづき)社の神祇官社6、不在神祇官社1の中の一つと言われています。延喜式の時代(平安中期)になると、同社大穴持伊那西波伎神社であると云われています。(同社とは杵築大社の摂社である表現)

江戸時代中期の『雲陽誌』(1717年)にも、鷺浦の御崎神社が書かれています。

鷺宮    ・・・略・・・
荒神
御崎社
恵比須宮
大歳明神
素我明神
柏権現
道祖神
          以下略

『雲陽誌』 鷺浦

出雲地方にも、御崎なる社無しの神社がいくつか見受けられます。『雲陽誌』を見る限りでは、日御碕神社を勧請した神社は、日御碕と書いてあり、それとは関係のないと思われます。また、大正15年の後藤蔵四郎 著『 出雲国風土記考証』にも、「鷺の御埼社」のことが書かれています。私が探す限りでは、鷺浦に御埼社なる神社は見つかりません。大正時代にも現存した、鷺の御埼社がどこの神社を示していたのでしょうか。

御前社、同御埼社、

この両社は何處の社をいったものか未だ明らかでない。宇龍の早足神社や鷺の御埼社をいったものか、經ヶ島や艫島に祀ってあったものか、稲佐濱に關岩を地の御前といひ、辨天島を沖ノ御前といふが、これを指したものか、まだ全くわからぬ。 

後藤蔵四郎 著『 出雲国風土記考証』大岡山書店  大正15年

仮に後藤蔵四郎氏の言う鷺浦の御埼社であるとしたなら、かなり古い神社の可能性もあります。

古来からある神社だけれども、明治期の神社の再編に伴い、廃絶になった祠がたくさんあります。

あくまでも私が思う仮説ですが、神社の存亡の危機を免れるためにも「ミサキ」が転じて「ミササギ(御陵」」になったのではないか?確かめるすべはありません。

大国主命の御陵説

インターネットで、御陵神社を調べると、大国主命の御陵ではないかという言説にあたります。おそらく、黄泉の坂・穴の比定地や富家伝承本の影響ではないかと思われます。

鷺浦の窟 『出雲風土記』の黄泉の坂・黄泉の穴 説

通説として、『出雲風土記』に登場する黄泉の坂(黄泉の穴)は、猪の目洞窟とされています。しかし、脳島と脳磯の関係から、猪の目洞窟は、脳島(鷺浦の柏島とされている)とは、距離が遠くなる理由から、鷺浦の洞窟を比定する方が風土記の記載と整合性をもつと云われています。

まずは、黄泉の坂・黄泉の穴の記載です。

名は脳なづきの磯いそ。高さ一丈ばかり。上に生えた松が生い茂り、磯まで届いている。邑人が朝夕に往来しているかのように、また木の枝は人が引き寄せたかのようである。磯から西の方に窟いわや戸どがある。高さ・広さはそれぞれ六尺ばかりである。窟の中に穴がある。人は入ることができない。奥行きの深さは不明である。夢でこの磯の窟のあたりに行くと、必ず死ぬ。だから土地の人は古より今に至るまで、黄泉よみの坂・黄泉の穴と名づけている。

島根県古代文化センター編 『解説 出雲国風土記』 (今井出版)

鷺浦の柏島(『出雲国風土記』の脳島(なづきのしま)とされている。)

一方、猪の目洞窟から北西へ一・八キロメートルにある水垂(たるみ)の磯(出雲市大社町鷺浦)の窟を比定する説もある。『風土記』に書かれた穴の形状や島浜の記載順からみれば、こちらの窟のほうが整合性の高い見解だ。

島根県古代文化センター編『解説 出雲国風土記』(今井出版)

鷺浦の窟は、ながらの窟と呼ばれているそうです。また、さらに〝地元では「大国主命のろうや」「須佐之男命の穴」であるという伝承があるそうだ。〟(佐藤雄一『出雲国風土記』に見える「黄泉の穴」 『大社の史話186号』記載)

大国主命の牢屋というのは、かなりショッキングな話ですが、鷺浦の郷土史家である梶谷実氏の文章を読む限りでは、須佐之男命の根の国から、大国主命が脱出する『古事記』に描かれる場所がここの窟ではないかということのようです。

詳しくは ⇒ 国譲り神話と出雲大社創建(9) 黄泉の洞窟

富家伝承 竜山に葬られる大国主命

この話は、出雲大社の過去の上官家だった富家の末裔の方が書かれた伝承本に書いてあることです。

斎木雲州著『出雲と蘇我王国』には、八代目オオナムチである八千矛王(大国主命)と八代目スクナヒコである事代主命が、徐福の手下に、海崖の窟に閉じ込められ、大国主命と事代主命が亡くなってしまった話が書かれています。

イナセハギに捕らわれた事代主は、粟島の裏の洞窟に幽閉された。八千矛王も猪目洞窟(出雲市猪目)に、幽閉された。

斎木雲州著『出雲と蘇我王国』 (大元出版)

八千矛王の遺体は北山山地の竜山に埋葬されていたから、その山を拝む位置に社を建てるように、と神門臣家から指示があった。

斎木雲州著『出雲と蘇我王国』 (大元出版)

いろいろ考察しましたが、確証を得る答えはいつものことですが、出ませんでした。

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