年神とは?

年神(歳神)と聞くと、正月に各家々に来訪する福をもたらす神のように思われている。
しかし、『古事記』(712年)に書かれている大年神(大歳神)の系譜や昭和時代までに残ってきた習俗を調べてみると、単純に1年の時間の単位神ということではなく、多様な意味をもった神だとわかる。

 

 

年は、穀物のこと

 

まずは、大年神の年の言葉の意味を考える。

 

【年・歳】《稲などのみのりの意。一回のみのりに一年かかるところから、後に、年の意。漢字「年」も原義は穀物の熟す意》 (『岩波古語辞典』大野晋、佐竹昭広、前田金五郎 編)

 

年という言葉の元々の意味は、稲などの穀物のことを言い、1回の実りに1年かかるので、派生して、1年のことを「年」ということになったようである。

 

本居宣長は『古事記伝』の中で、大歳神の註釈で、「登志とは穀のことなり、其は神の御霊以て、田に成して、天皇に寄奉賜ふゆえに云り、田より寄すと云こころにて、穀を登志とはいうなり」と述べている。

 

『古事記』における大年神の系譜

 

宇迦之御魂神の兄

 

古事記では、大年神は須佐之男命と、大山津見命の娘である神大市比売(かむおおいちひめ)の息子神であり、
穀物の神である宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)の兄となっている。

 

日本の穀物の神と、渡来の穀物の神(泰氏の奉祭する稲荷神)の兄妹の設定にしたのだろうか。

 

大年神は、妻三人と結婚したとして、それぞれの系譜が載っている。
まずは、神活須毘神(かむいくすびのかみ)の娘である伊怒比売(いのひめ)を妻として5人の神。

 

伊怒比売

 

 

本居宣長が『古事記伝』で、『出雲国風土記』に出雲郡伊努郷(いぬごう)の記載から、伊怒比売は、出雲郡の神で、延喜式神名帳に「出雲郡に伊努神社、神魂伊豆乃賣(かみむすびいずのめ)神社、また神魂神社、および比古佐和氣神社があり、この神魂神社が神活須毘ではないかと推察している。

 

伊努郷は、赤衾伊農意保須美比古佐和氣能命(あまぶすまいぬおおすみひこさわけのみこと)に妻神である天甕津日女命(あめのみかつひめのみこと)が発した言葉、「伊農はや」(はやく来て)に由来するという。

 

ちなみに埼玉県の氷川神社の「西角井從五位物部忠正家系」(『埼玉叢書. 第3巻』、441-442頁)には、天穂日命と天甕津日女命との間の娘に伊努比売が書かれている。

 

この御子神たち

大國御魂神(おおくにみたまのかみ)

大国主命と同神という説もあるが、『古事記』では大国主命は須佐之男命の6世孫と別の所で書かれているので違う神である。大和の地主神と考えられている。

韓神(からのかみ)、曾富理神(そふりのかみ)

朝鮮半島の渡来神とする説がある。曾富理を新羅の「曾尸茂利」(ソシモリ)と関連付けたり、あるいは、日向の「添山(ソホリノヤマ)峰」と関連付けられて考えられたりする。宮中の園神韓神と同じではないかとする説もある。

白日神(しらひのかみ)

本居宣長によると、これは向日神(むかひのかみ)の間違いであり、京都の向神社(現在は向日神社)は、大年神の子、向日の神を祭ると言う。

聖神(ひじりのかみ)

聖なる神では無く、日を知る神、つまり農事に関わる暦の神ではないかと言われている。

 

香用比売(かぐよひめ、かよひめ、かがよひめ)

 

 

この御子神たち

大香山戸臣神(おおかがやまとおみのかみ)

もしかしたら、奈良の天香具山と関係がないだろうか。

御年神(みとしのかみ)

奈良の葛城御歳神社の祭神である。『古語拾遺』(斎部広成)には、大地主神(おおとこぬしのかみ)が牛肉を牛の肉を農夫たちに食わせたら、御歳神がやってきて祟りをなし、田の苗が枯れたので、白猪・白馬・白鶏を献上して御歳神を祀るという由縁の話がある。

 

天知迦流美豆比売(あめちかるみづひめ)

 

 

この御子神たち

奥津日子神(おきつひこのかみ)

竃(かまど)の神と言われている。女神の方を竃として、男神を竃にくべられる薪、炭の火との考え方もある。

奥津比売命(おきつひめのみこと)

竃(かまど)の神と言われている。この神だけ、神ではなく命(みこと)になっている。

大山咋神(おほやまくひのかみ)

比叡山の山神で、日吉大社、松尾大社の祭神。

庭津日神(にはつひのかみ)

 庭の神と言われる。    

阿須波神(あすはのかみ)

神祇官西院において祀られていた5つ座摩神のひとつ。    

波比岐神(はひきのかみ)

神祇官西院において祀られていた5つ座摩神のひとつ。 

香山戸臣神(かぐやまとみのかみ、かぐやまとおみのかみ)

 ここにもまた天香具山を彷彿させる神である。

羽山戸神(はやまとのかみ)

山の麓の神と言われている。

庭高津日神(にはたかつひのかみ)

庭の神と言われる。

大土神(おほつちのかみ)

土の神と言われる。あるいは、土地の神。

 

大年神の系譜自体が、農業に関係する神系譜ではないかと言われるが、ここの系譜は現代の荒神(屋敷荒神、集落荒神)や塞ノ神、ハバキ神、案山子神につながる神のようにも思える。
民間信仰の神との説もあるが、人格神以前の原初的神の系譜のようにも思える。

 

羽山戸神と大気都比売神との間の御子神

なぜだか、天知迦流美豆比売との御子の羽山戸神の系譜だけが語られる。
妻神の大気都比売神は、食物の神、粟国あるいは、ヒノカグツチの姉というようにさまざまな形で登場する神

 

 

この御子神たち

若山咋神(わかやまくいのかみ)

山から降りてくる田の神という説あり。

若年神(わかとしのかみ)

大年神─御年神ー若年神という穀霊という同じ性格の神とも。あるいは苗の神という説もあり。

若狭那売神(わかさなめのかみ)

田植えの神。田植えをする女、早乙女とする説もあり。

弥豆麻岐神(みづまきのかみ)

水撒きの神。

夏高津日神(なつたかのひのかみ)

夏の高く照る日の神とも、夏の日草抜きをする女との説もあり。

秋毘売神(あきびめのかみ)

秋の稲の収穫に関する神とされる。

久久年神(くくとしのかみ)

ククは茎で 稲などの茎が伸びる、育つ神という説がある。

久久紀若室葛根神(くくきわかむろつなねのかみ)

新築の穀物庫に収める稲魂を表す説あり。

 

1年間の農耕の流れを意味する神々とも見える。

 

習俗としての年神

 

民俗学が扱う年神の習俗が現在もそのままの形でどこまで残っているか定かではない。明治から昭和の残っていた習俗をもとに分析されたものである。

先祖の霊説

 

民俗学者・柳田国男の「山の神・田の神交代」論と、去来する田の神・作の神は、正月の神とともに、先祖の霊とする説である。

 

〝数ある農作物の中でも、稲は卓越した重要性がみとめられていたから、この田の神、又は農神とも作の神とも呼ばれている家毎の神が、正月の神と共に、先祖の霊でなかったろうか。山の神は春、里に降って田の神となり、秋の終わりには又、田から上って、山に帰って山の神となる、という言い伝えは、日本全国、北から南まで、そういう言伝えのないところの方が少ないといってよいほど、弘く行われている。
 この農神、または作の神の去来の日は、一定していて、旧二月と十一月の七日・九日・十二日等、但し、冬の方は十月が多く、春は二月の処と三月の処がある。我々の先祖の霊が、極楽などに行ってしまわず、子孫が年々歳々の祭りを絶やさぬ限り、永くこの国土のもっとも閑寂なるところに静遊し、時を定めて故郷の家に往来する、というのであれば、その時期は初秋の稲の花の咲こうとする季節よりも、むしろ苗代の支度に取かかろうとして人の心の動揺する際、その降臨の待ち望まれる時だったのではなかろうか。〟 (柳田国男 著 『先祖の話』 より抜粋要約)

 

祖霊 蛇神説

民俗学者・吉野裕子は、『蛇』の中で、各地の年神の共通点として、

①一本足である。
②海または山から来る。
③蓑笠をつけている。

を見出し、正月に際して山または海から迎えられる祖霊は蛇体と推察している。

 

その例

〝歳神の容姿と性格 岡山県真庭郡
 歳神は夫婦であり、正月の供え物は必ず二膳つくり供える。また片足がなく、すりこぎのようになっており、いわゆる一本足の神として、正月二日の作り初めに、わらじを片方つくって供える風は、岡山県下全般にわたっているが(文化財保護委員会編『正月行事』島根・岡山県)〟

 

大歳神社  岡山県真庭郡新庄村1391

 

 

〝トシトコさん 島根県千酌
  千酌では、トシトコさんは一本足だという。それはトシトコさんが天から降りられる時に茄子畑の中で踏み抜きされたからであるという。(文化財保護委員会編『正月行事』島根・岡山県)〟

 

〝トシガミワラジ
 鳥取県日野郡の村々では、春の初めのシゴトハジメに年神草履というのを半足だけ作る。(『総合日本民俗語彙』第三巻)〟

 

〝ただ出雲市の周辺では三、四十年前まで『正月さんの歌』というのが残っていて、それには『神は山から』という伝えが明らかに歌われていた。
 ○正月さん、正月さん、どこからお出た。三瓶の山から。
  蓑着て、笠かべって、ことことお出た。(以下略)(文化財保護委員会編『正月行事』島根・岡山県)〟

 

 そして、案山子(かかし)との同一性を言及する。

〝「カカシ」は案山子の名のとおり山を案(おも)うもの、山から来たものであり、一本足、田を守り、必ず蓑・笠を着せられて祀られる神である。蛇が「山カガシ」「カガチ」といわれるように、「カカシ」の名称自体がすでに蛇を表わしている。蛇は宇賀御魂、穀神、年穀神、つまり歳神であり祖神である。〟(吉野裕子 『蛇 日本の蛇信仰 』 講談社学術文庫)

 

寝間が祭場のトシトコ神

正月飾りをする神棚は、上の間(いわゆるオモテ)にするものだと思っていたが、昔は違ったようだ。

 

〝このように、正月飾りを上の間のトコではなく寝間である納戸にするという所は、さきにいう山陰の中部、厳密には出雲の東端、伯耆・因幡、および播磨宍栗郡地方、そして隠岐島のほぼ全域に限られるが、単に納戸に神棚を設けるということだけならば、これに接する美作・備前・備中・備後・讃岐、さらに石見と周防との接合地帯、日向と薩摩の接合地帯、また東国の下総・常陸・下野、さらに東北の羽前・陸前・陸中あたりにも点々と見られる。しかし、その神名は必ずしもトシトコではなく、あるいは亥の子といい、あるいは恵比寿・大黒といっている。ところが、関東・東北の一部では、これを安産の神とか子供の神とか、さては目の神として祀るといいながら、その名をオカハンあるいはウカノカミといっているのである。〟(石塚尊俊『神去来』 慶友社)

 

また、正月の神は、15日のとんどさんで送り出すが、ところが、トシトコ神は、11日に田に送りだす。別々の神とのことらしい。

 

〝納戸の神は正月十一日から十月亥の子までは田におられ、亥の子になると納戸に戻って来られるということは右のトシトコ地帯でならば広く聞かれることである。したがって、これはトシトコとはいうが、実は年神としてのトシトコではないことを言外に表明するものとなっている。(前掲書に同じ)〟

 

〝(前略)その実態はいわゆる『正月さん』とは違う、実は穀霊であるとしなければならない。そうして、これを穀霊だとする限り、一方の『正月さん』は穀霊ではないとしなければならない。すなわちこのれはその穀霊を来りはぐくむ、より崇高なる威霊であると考えなければならないはずである。〟(前掲書に同じ)

 

原始暦  春秋太陽暦説など

 

中国から日本に太陰太陽暦が移入される前の時代には、春秋太陽暦、つまり春分の日、秋分の日を元旦とする、1年の2倍の暦を使用していた説がある。また、さらに春夏秋冬の4倍暦説まである。

 

暦の1年の単位と、農業の耕作を1年とするのにはもともとズレが生じるのであり、石塚尊俊説のように、穀霊と正月の神の二つの信仰がまたがるのも自然なのかもしれない。

 

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