加茂神社 島根県雲南市加茂町加茂中996

 

 

加茂岩倉遺跡(島根県雲南市加茂町)のある加茂町の神社の話である。

 

全国に「加茂町」という町名はあり、珍しいものではない。

 

なぜ加茂町と名前がつくのかと言えば、そういう町には、ほぼ100パーセントの確立で、「加茂神社」「賀茂神社」あるいは「鴨神社」が鎮座している。

 

雲南市加茂町の加茂神社を通して、賀茂族のことを考えてみる。

 

 

なぜに事代主命が祭神か?

 

雲南市の加茂神社の祭神はと言うと、「八重事代主命」である。

 

しかし、ここの地域は、中世には京都の賀茂神社の荘園(福田庄)であった。

 

だったら、京都の賀茂神社の祭神、賀茂別雷大神や賀茂建角身命と同じであるはずなのに、なぜ八重事代主命なのか?そういう疑問が生まれてくる。

 

加茂神社の説明板の一部

 

 

賀茂神社の祭神とは?

 

※賀茂を「加茂」、「鴨」と表記する場合があるが、ここでは「賀茂」とする。

 

ここで賀茂神社の祭神をまとめておく。

 

京都の賀茂御祖神社楼門

 

 

京都の賀茂神社

賀茂別雷神社(上賀茂神社):祭神 賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)

 

賀茂御祖神社(下鴨神社) :祭神 玉依姫命(たまよりひめのみこと)賀茂別雷大神の母 

 

              祭神 賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)賀茂別雷大神の祖父  賀茂御祖神社およびその摂社の河合神社の祭神を糺(ただす)の神とも言われる。

奈良の賀茂系の神社

鴨都波神社(下鴨社):祭神 積羽八重事代主命・下照姫命

 

葛木御歳神社(中鴨社):祭神 御歳神(みとしがみ)

 

高鴨神社(上鴨社):祭神 阿遅志貴高日子根命(あじすきたかひこねのみこと)

 

氏族では奈良の賀茂族は地祇(ちぎ)系(国つ神系)、京都の賀茂族は、天神系であるという違いがある。

 

奈良の鴨都波神社を勧請してきたのなら、事代主命であろうが、京都の賀茂神社ならば、賀茂別雷大神か玉依姫命・賀茂建角身命のはずである。

 

いつから分霊を勧請したのか

 

加茂神社の本殿と拝殿

 

 

ここの神社の説明書きでは、〝元久二年(1205年)に御本社(京都 賀茂神社)の分霊を勧請された〟と書かれている。

 

つまりは、ここの加茂神社は、賀茂御祖神社(下鴨社)の分霊を勧請したものだ。

 

『雲陽誌』(1717年)にも、〝元久二年山城国下賀茂を勧請す。天文年中高佐の城主鞍懸次郎四郎源久勝建立す。〟となっている。

 

では、現在加茂神社の境内にある上賀茂社も同じ頃かといえば、もっと古く平安時代の末期には勧請されていたようである。

 

上賀茂社のに保管されていた『源頼朝下文案』には、寿永三年(1184年)と、記した文書に〝伯耆国 星河庄 稲積庄 出雲国 福田庄〟とある。

 

伯耆国の星河庄にある賀茂神社も、阿遅鉏高彦根神も祀っており、京都の上賀茂社からの勧請なのに奈良の賀茂神社の神を祀っている。

 

ここの境内の上賀茂大明神社はもともとどこにあったのか。

 

上賀茂大明神社 右手の小祠は幸神社

 

 

出雲国風土記時代の矢代社・屋代社との関係

 

宝暦14年(1764年)に佐古美八坂によってまとめられた『大原郡屋代郷(加茂村・大崎村・延野村・新宮村)神社萬差出牒』には、二つの賀茂神社が見られるようだ。

 

〝それによれば現在の加茂神社は「大原郡矢代郷加茂村矢代社 鴨御祖大明神所祭神數(敷)座」とされ、今一社「大原郡屋代郷大崎村矢代神社 上賀茂大明神社」がみえる。

 

後者に関しては寛永四年の棟札に「大原郡屋代郷大崎村仁鎮座矢代社」とみえるという。〟(関 和彦「『出雲国風土記』註論」 明石書店)

現在の加茂神社の境内社である「上賀茂大明神社」は、大崎村にあったということがわかるが、関和彦によれば、

〝旧・社地は上・下社を結ぶ参道方向で予想がつくが加茂町大崎字「元宮」であることは間違いない。近年、その地は土砂採掘で姿を消したことは遺憾である。〟(引用 前掲書)

 

奈良時代から京都の賀茂神社と関係があったのではないか

 

まずは、『山城国風土記』逸文である。これを念頭において、『出雲国風土記』の屋代郷の記事を読むと「矢」というキーワードでつながっていることがわかる。

 

 

玉依日賣、石川の瀬見の小川に川遊びせし時、丹塗矢、川上より流れ下りき。乃(すなわ)ち取りて、床の邊に插し置き、遂に孕(はら)みて男子(をのこ)を生みき。人と成る時に至りて、外祖父、建角身命、八尋屋を造り、八戸の扉を竪て、八腹の酒を醸(か)みて、神集(かむつど)へ集へて、七日七夜樂遊したまひて、然して子と語らひて言りたまひしく、

 

「汝の父と思はむ人に此の酒を飮ましめよ」とのりたまへば、即(やが)て酒坏を擧(ささ)げて、天に向きて祭らむと為(おも)ひ、屋の甍を分け穿ちて天に升(のぼ)りき。

 

乃ち、外祖父のみ名に因りて、可茂別雷命と號(なづ)く。

 

謂はゆる丹塗矢は、乙訓の郡の社に坐せる火雷神(ほのいかつちのかみ)なり。

 

可茂建角身命、丹波の伊可古夜日賣、玉依日賣、三柱の神は、蓼倉(たでくら)の里の三井の社(やしろ)に坐(いま)す。 (釋日本紀 卷九)

 

京都の賀茂川

 

 

建角身命の娘である玉依日売が賀茂川で遊んでいると、丹塗矢が流れてくる。それを床の辺に挿し置くうちに妊娠し男の子が生まれた。この子の名前が可茂別雷命という。

 

これが有名な丹塗矢伝説(にぬりやでんせつ)である。

 

『出雲国風土記』(733年)の大原郡の屋代郷の記述

 

〝屋代郷(やしろごう)。
郡家の正北一十里一百一十六歩の所にある。所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)が垜(あむつち)を立てて矢を射られた処である。

 

だから、矢代(やしろ)という。〔神亀三年に字を屋代に改めた。この郷は正倉(しょうそう)がある。〕〟(島根県古代文化センター[編]『解説 出雲国風土記』今井出版)

 

※所造天下大神:大国主命の尊称である。垜:山形に土を盛り、弓の的を立てる所。

 

大原郡には、「屋代郷」だけでなく「屋裏郷」(やうらごう)という大国主命の「矢」に起源する話が書かれている。

 

『出雲国風土記』に書かれている地名起源神話は、大部分だじゃれのような話ばかりである。

 

どこまで、それを信じるかということもあるが、

 

『出雲国風土記』記載神社の「矢代社」「屋代社」(共に不在神祇官社)が、京都の上下賀茂社になっていることを考えると、奈良時代に既に、京都の賀茂神社とつながっていた可能性もあるのではなかろうか。

 

別雷大神の父は、事代主命か?

 

建角身命の系図

建角身命は、記紀神話において、神武天皇を大和の橿原まで案内したとする八咫烏(やたがらす)とも言われる。言うなれば、天孫降臨神話でニニギノミコトの導きをした猿田彦大神と同じ役割を担う導きの神である。

 

『新撰姓氏録』では、天神でその子孫が鴨県主で記載されている。

山城国神別天神鴨県主県主賀茂県主同祖 神日本磐余彦天皇[謚神武。]欲向中洲之時。山中嶮絶。跋渉失路。於是。神魂命孫鴨建津之身命。化如大烏翔飛奉導。遂達中洲。天皇嘉其有功。特厚褒賞。天八咫烏之号。従此始也

 

ここでは、「神魂命孫鴨建津之身命」というように神魂命系になっている。

 

系図で言うと

神皇産霊尊ー天神玉命ー天櫛玉命ー加茂建角身命(八咫烏鴨武角身命)ー鴨建玉依彦命ー五十手美命(賀茂県主の系図)

あるいは、高魂命系の系図にも「陶津耳命」という別名で登場する。そこには、「三島溝杭耳」の別名もある。

 

高魂命-伊久魂命-天押立命-陶津耳命-玉依彦命-生玉兄日子 (葛城直の系図) 

 

   (生魂命)(神櫛玉命)(建角身命)

 

             (三島溝杭耳命)

 

 

建角身命は事代主命の姑

 

事代主命と建角身命とは一見何にも関係なさそうであるが、日本書紀には、事代主神が八尋熊鰐に化身して三島溝樴姫(玉櫛姫)に妻問いし、神武天皇の妃である姫蹈韛五十鈴姫命(ヒメタタライスズヒメ)が生まれるという話がある。

 

つまり、事代主命の姑が、建角身命ということになる。(その後、事代主命の子孫は、綏靖天皇・安寧天皇の后となることも書かれている。)

 

建角身命の系譜は、事代主命が妻問いされた側(三島溝樴姫の母族)の系図で、事代主命が地祇なので陰陽の関係から天神になり不思議はない。では事代主命側の父系の系図はどうなっているか。

 

素戔嗚尊-大国主命-都美波八重事代主命ー天事代主籤入彦命-奇日方天日方命-飯肩巣見命ー建甕尻命ー豊御気主命ー大御気主命ー建飯賀田須命ー大田々根子命ー大御気持命(『三輪高宮家系』)

 

『三輪高宮家系』の系図で言うと、「事代主」という名前がついた神が二代に渡っており、二代目には、頭に「天」が付けられている。賀茂県主との婚姻関係で天神となったのか?

 

『新撰姓氏録』にも大和国の 飛鳥直が天神で「天事代主命之後也」と書かれている。

 

 

では別雷大神の父が事代主命かと聞かれれば、前提が「単婚」であり、男子が一人生まれた、そして『日本書紀』で書かれていることのみを考えれば、事代主命が父となる。

 

雲南市の加茂神社の祭神が本来なら建角身命を主祭神で祀るところを事代主命を祀っても不自然ではない。

 

 

参考文献 石塚尊俊「出雲国神社史の研究」(岩田書院)

 

     関 和彦「『出雲国風土記』註論」(明石書店)

 

 

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