美保神社の社殿は、「比翼大社造」と呼ばれる本殿が二つ仲良く並んだ美しい姿です。

 

公式的には、事代主命義理の母である三穂津姫命を祭っていると言われます。しかし、元々そうだったのでしょうか。

 

美保神社の祭神の歴史を探ってみます。

 

 

美保神社の現在の祭神

 

美保神社 島根県松江市美保関町美保関608

 

 

事代主命系 えびす様の総本宮として有名な島根県の美保神社は、現在向かって右側大国主命の妻とされる三穂津姫命を祭り、左側に大国主命の息子とされる事代主命を祭っています。

 

正式には、向かって右側が「左殿(大御前、おおごぜん)」であり、向かって左側が「右殿(二御前、にのごぜん)」です。

 

神社神道においては、左殿が上位とされてきました。

 

それを裏付けるように、古書では、三穂津姫命を優位に表現しています。

 

『神名帳頭註』(1503年)      「島根郡美保、三穂津姫也、一座事代主」

 

『雲陽誌』(1717年)        「美保神社、三穂津姫、事代主命の鎮座なり」

 

『出雲神社巡拝記』(1833年)    「三穂両大明神 祭神一の宮みほつひめの命 二の宮ことしろぬし命」

 

それは、事代主命の父親の妻なので、上位に位置づけられたのでしょうか?

 

三穂津姫命とはどんな女神か?

 

後ろから見た本殿の姿
現代では千木の形が、左側が横そぎで女神、右側が縦そぎで男神を表わすと言われています。(左 祭神・三穂津姫命 右 祭神・事代主命)

 

 

『日本書紀』の三穂津姫命

三穂津姫命は、『日本書紀』の一書(あるふみ)に唯一登場してくる高天原のタカムスビの神の娘です。

 

〝ときに高皇産霊尊が、大物主神に勅されるのに、「お前がもし国つ神を妻とするなら、私はお前がなお心をゆるしていないと考える。

 

それで、いまわが娘の三穂津姫をお前に娶あわせて妻とさせたい。

 

八十万の神たちをひきつれて、永く皇孫のために守って欲しい」といわれて還り降らされた。〟(宇治谷 孟 現代語訳『日本書紀 上』講談社学術文庫)

 

ここを正確に読むと、三穂津姫命は国譲りを承諾した大国主命ではなく、大物主命の妻なのです。大国主命と事代主命も国譲り神話に登場しますが、大物主命はそもそもだれなのでしょう。

 

いつしか大和の大神神社(おおみわじんじゃ)の祭神の大物主命が大国主命の和魂とされて、大国主命の妻神になったと思えますが、大物主命は、事代主命であるという説もあります。

 

記紀神話を詳しく読むと、大神神社の祭神は、少彦名神なのか事代主命なのか、大国主命なのか、さっぱりわからなくなります。

 

『日本書紀』の大物主命、事代主命

『日本書紀』では、現在の三輪山の祭神である大物主命について、下記のように記しています。

 

大己貴神と少彦名命の会話で始まります。

 

大己貴神が「そうです。分かりました。あなたは私の幸魂奇魂です。今どこに住みたい住みたいと思われますか」と。

 

答えていわれる。「私は日本国の三諸山に住みたいと思う。」と。そこで宮をその所に造って、行き住まわせた。これが大三輪の神である。

 

この神のみ子は賀茂の君たち・大三輪の君たち、また姫蹈鞴五十鈴姫である。

 

別の説では、事代主神が、大きな鰐になって、三島の溝樴姫、あるいは玉櫛姫という人の所に通われた。そしてみ子姫蹈鞴五十鈴姫命を生まれた。

 

これが神日本磐余彦火火出天皇(神武天皇)の后である。"(宇治谷 猛 訳『日本書紀(上)』  講談社文庫)

 

ここの話の展開ですが、

 

大己貴神(大国主命)が共に国造りをしてきた少彦名命が、三諸山の祭神=大和の大神神社の祭神です。けれども、少彦名命は、大己貴神の幸魂奇魂であるという別々の神が一つの神のように表現されています。

 

片方で、事代主命が大きなワニになって「三島の溝樴姫」に妻問いし(静岡県の三島大社の三島はここに由来していると思われる。)、初代天皇家の皇后を輩出した話が書かれています。

 

「別説」とは書いてありますが、少彦名命=事代主神だったと考えると話のつじつまがあいます。

 

三穂津姫命は、三島の溝樴姫命だった!

 

江戸時代中期の地誌『雲陽誌』(1717年)の揖屋神社のところに不思議なことが書かれています。

 

〝揖屋大明神 本社大己貴命なり、少彦名命事代主命をあはせ祭る、左三穂津姫素戔嗚尊已上五神、【風土記】に載る伊布夜社是なり、天正十一年大江朝臣元秋建立、

 

…中略…【日本紀】に熊野諸手舟と書するは此所の諸手舟の事なりといひつたふ、世人熊野と書てゆやとよませ侍る本字揖屋なり、事代主命三島溝樴姫に通給ふ毎夜雞なきて別たまふ、

 

故に揖屋意東出雲江大草多久島美穂關にも今も雞を飼ことを忌といへり、三島とは三穂島の事なり、〟(『雲陽誌』)

 

『日本書紀』に記述される「熊野諸手舟」は揖屋神社の諸手舟という伝承があるそうです。熊野=ゆや=揖屋であると。

 

そして、事代主命がここから毎晩 美保の関にいる三島溝樴姫に通っていたが、鶏が鳴き、別れてしまった、その故事にもとづき鶏タブー(鶏を飼わない、食べない)がある地域があるとのことです。

 

三島溝樴姫の「三島」は、「三穂島」のことであるとも書かれています。

 

『出雲神社巡拝記』(1833年)にも同様の話が書かれており、さらに事代主命が鶏の声であわてて右の足で櫂て、ワニに足を咬まれた話まで述べられています。

 

〝扨又当所に鶏飼事を忌む 其訳ハ、古としろぬしの命 みしまの、ミぞくひ姫の神に通ひ給ふ時、毎夜 鶏鳴てより分れ給ふ。

 

ある夜 鶏時違ひして 姫神の元より俄に三保関へ帰り給ふ時 舟の、かへを失ひ右の足にて舟をかきて帰り給ふとて鰐其足を喰ふ 元ハ 鶏より起りたる故に 今に至りても此鳥をにくミ給ふと云〟(『出雲神社巡拝記』)

 

 

江戸時代においては、三島溝杭姫命が美保神社の祭神であったとしか思えない記事です。

 

そうなると三穂津姫命=三島溝杭姫命となり、美保神社は事代主命と夫婦で祭っている話になります。

 

江戸時代の祭祀形態 【一年神主と賀茂県主】

 

現在の祭祀構造は、明治時代の国家的な神社再編や現代の過疎化、祭りの担い手不足で江戸時代のものとは大きく違っています。

 

江戸時代はどうであったか、あくまで古老の伝承ですが、大まかにかいまみることができます。

 

 

和歌森 太郎 著『美保神社の研究』(弘文堂 初版1955年)という本があります。

 

さまざまな伝承がちりばめられた本です。

 

この本に書かれている江戸時代の祭祀構造は、おそらくこの図のようであったと想像できます。祭祀構造は、大きく2系統に分かれていたと思われます。

 

(現在では、一つの神社に一つの祖を祭る氏族(子孫)と考えがちですが、一つの神社において複数の氏族が各々別々の祖を祭っていたという時代もあったのかと、考えさせられます。)

 

 

全国的に有名な美保神社の一年神主の記載です。

 

一年神主

〝近世末の「諸国周遊奇談」という書物には「一年神主」とあるが、土地の有力家福田芳太郎氏の家に蔵する嘉永四年一月付の「御祭禮頭家獻立帳」は一年神主にあたえるものを「二ノ宮神主」とも書いている。

 

何故「二ノ宮神主」と稱んだかについて古老の伝承は次のようにいう。この神社の御祭神は、事代主命を主とするけれども、その義母にあたる三穂津姫命を併せまつるので、二の親神の方を「大御前」(おおごぜん)とよび本殿の左殿(向つて右)にまつり、主神事代主神を「二の御前」として右殿(向つて左)にまつるが、その「二の御前」に仕える神主が「二の宮神主」たる「一年神主」であつたというのである。

 

そしてこれに對する「大御前」の神主は、土地の幕末の記録にいう「横山様」「諸國周遊奇談」にいう「正神主」すなわち今の宮司家の祖先であつたという。今日、一部の氏子の意識乃至主張では、一年神主こそ昔はこの神社の正神主であり、今の宮司のするようなことを嘗てはしていたのだという。〟(和歌森 太郎 著 『美保神社の研究』 弘文堂)

 

本の別のところには、また別の伝承が載っています。

 

〝なお別に福田芳太郎氏の伝承では、この神社の附属神宮寺(今は松江の愛宕寺に移る)の住職が大御前の神殿に仕え、一年神主が二の御前の神殿に仕えたこともあるとのことでもある。〟(和歌森 太郎 著『美保神社の研究』弘文堂)

美保神社の「一年神主」とは、一般の神社とは違い、氏子さんだったらだれでも選ばれるものでないことも書かれています。

 

これは、この本が書かれた当時(1955年頃)の話です。

 

〝さて、美保関町における美保神社の氏子は三百餘戸もあるけれども、どういう家のものが「一年神主」や「頭家神主」をつとめることができるかというと、先ず以って第一の前提条件とされるのは、「頭筋」の家に属するということである。

 

頭筋とは美保の明神さんの子孫といわれる十六流の家(野村五松氏の説、なお松浦蔵松老の説では十八流の家)である。これは本家分家併せて八十戸ほどある。〟

 

「美保の明神さんの子孫」ということだから、事代主命の末裔という話です。(こういう話を信じない人も多かろうと思いますが、神社の氏神というものは本来祖先を祭っているものだと私は思います。)

 

糺神社

 

 

美保神社の境外摂社になぜ糺(ただす)神社が?と思いました。「糺(ただす)」と言えば、京都の賀茂御祖神社(祭神は、玉依姫命と父神の賀茂建角身命)が思い起こされます。

 

平安時代には、賀茂御祖神社の祭神は、「糺の神」とも呼ばれていました。(『源氏物語』『枕草子』)

 

さて、この神社についても、『美保神社の研究』にはさまざまな記述があります。

 

〝しかし、伝承によれば、この部落の外の客人山よりも東の方の海辺にかつては祀られていたものらしい。伶人の奥市家の屋敷神であったともいう。〟

(伶人とは、神道の祭典楽に従事する人を言います。)

〝これは、事代主命を助けたと言われている久延毘古命を祀っている。〟

〝世襲宮司の家である横山家に特に関係が深いものと言われ、宮司家はこの神の子孫であるとも説かれている。〟

 

その奥市家についての記述がまた驚かせられます。

〝古老の伝えでは、特定の神職が成立する前の神事全体の指導者は、何分にも一年神主は年々の交替制であるために、奥市家が、その立場になってつとめたのだと言っている。〟

〝この家と横山家とが結びついていたことは事実であるらしい。〟

 

何れも 『美保神社の研究』の引用ですが、これをまとめると奥市家ならびに横山神主家の祖先が、糺神社の祭神という話になります。

 

ちなみに美保神社の巫女さんは、「市」と呼ばれて全国的にも有名のようです。

 

"宮中の神事に奉仕した御巫(みかんこ),伊勢神宮の斎宮(いつきのみや),賀茂神社の斎院またはアレオトメ,熱田神宮の惣の市(そうのいち),鹿島神宮の物忌(ものいみ),厳島神社の内侍(ないし),美保神社の市(いち)などが著名である。"(『世界大百科事典 第2』 平凡社)

 

賀茂建角身命は、三島溝杭姫命の父

 

賀茂県主の祖の鴨建角身命は、系図上の別名として、八咫烏、八咫烏鴨武角身命、三嶋湟咋、三島溝咋、三島溝橛耳神、陶津耳命と書かれます。

 

美保神社の祭神となんの関係もないように見えますが、三穂津姫命が三島の溝樴姫命だとすると、その父神ということになります。

 

『新撰姓氏録』(815年)の賀茂県主の系譜は、神魂命系の天神ですが、高魂命系のこのような系譜もあります。

 

高皇産霊尊ー天活玉命ー天押立命ー陶津耳命ー玉依彦命ー生玉兄日子命(賀茂氏祖)

 

あくまで想像ですが、国譲り神話が作られたことにより、事代主命と三島溝樴姫命の婚姻話が、高魂命の娘の三穂津姫命の婚姻話に転化したのではなかろうかと思うのです。

 

 

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