『古事記』(712年)の稲羽のシロウサギとワニの話には続きがあります。
『古事記』の大国主命と手間山
因幡のシロウサギのを助けた大国主命は八上姫と結ばれます。
しかし、それをねたんだ八十神(やそがみ)にねたまれ、出雲に帰る途中、あろうことか伯耆にある手間山の麓で、殺されます。
八十神たちは、大きな赤い猪を坂の上から追い込むから、下で待っている大国主命に猪を抱きしめてつかまえるように命じました。
しかし、それは猪ではなく、赤く焼いた大きな岩だったのです。
その岩を抱きしめた大国主命は、大きなやけどになって亡くなりました。
しかし、死んでは終わらないのが神様です。
母神である刺国若姫命(サシクニワカヒメノミコト)」が「神産巣日之命(カミムスビノミコト)」にお願いをしました。
赤貝の「蚶貝比売(キサガイヒメ)」と蛤の「蛤貝比売(ウムギヒメ)」が遣わされ、薬を作りました。
キサ貝比賣が貝殻を削り粉を焼き、蛤貝比賣はそれを水で母の乳の汁として大国主命に塗りました。
そうすると、また大国主命は麗しい男によみがえり歩き回ったのです。
手間要害山の麓にある清水井 鳥取県西伯郡南部町清水川233
ここの湧水が大国主命を蘇えさせたと言い伝えられている。
八十神とは、固有の神の名前でなく、たくさんの神々と云われています。
異母兄弟であり、八十神の国はいずれも大国主神の国から遠く離れていたとの記述もあるので、他の国に住んでいた出雲族ということなります。
大和の出雲族だったのかもしれません。
キサガイ姫とウムギ姫は、『出雲国風土記』(733年)の島根郡(出雲国の東北部)の加賀郷と法吉郷に神魂命(かむむすみのみこと)の御子神として登場します。
ここの神様については、『古事記』と『出雲国風土記』は符合しています。
さて、この大国主命の赤猪岩伝説の話ですが、
1)なぜ 伯耆の手間山の麓が舞台として選ばれたのでしょうか。
2)この話はいったい何を表わしているんでしょうか。
手間(てま)とは何か
少彦名命と関係がある
松江市の大橋川と手間神社
手間とは少彦名命と関係した地名です。
本居宣長が、『古事記伝』で出雲国意宇郡の築野村、間潟(まかた)の海中に「手間の天神」というのがあると書いているように、松江の大橋川に手間天神を祀った島があります。
天満天神は、一般的に学問の神様「菅原道真」のことを言いますが、手間天神は、少彦名命のことを言います。
カミムスビノミコトあるいはタカムスビノミコトの手の間から落ちたことが、手間天神の由来とされています。
『和名類聚抄』(931年 - 938)には「伯耆国會見郡の天萬郷(てまのごう)」と書かれています。
平安時代には手間→天萬に表記がかわったのかもしれません。
いわゆる関所があったところ
「通道(かよいぢ) 国の東の堺なる手間の剗(せき)に通ふ、三十一里百八十歩」と、『出雲国風土記』にいわゆる関所のような場所がありました。
安来市の安田関がここじゃないかと言われていますが、手間剗というからには案外伯耆国側に出た所だったかもしれません。
どちらにせよ、出雲国と伯耆国との境界であったわけです。
手間の山の概観
手間要害山(別名 岩坪山、天万山)で329mあります。
西側から見た現在の山の名前「手間要害山」と「膳棚山」(ぜんだなやま)です。
この手間要害山の頂上には、戦国時代の山城がありました。それで「要害」というのです。
その頂上には、赤猪神社跡があります。(このページの上部の写真)。
「手間要害山」と「膳棚山」の麓である所には古道がのびています。
そして、「膳棚山」の東側の麓には、赤猪岩神社が鎮座しています。
山上の赤猪神社
江戸時代は、赤岩権現と呼ばれていました。現在社は無く、大正十一年に、麓の赤猪岩神社に合祀されました。
いつから赤磐権現があったのか不明です。
明和五年十月(1768)の『会見郡神社御改帳』抜粋より
冨田庄内寺内村
一 八将大明神 祭日九月廿八日 社 三尺四方 大板葺 ・・・略・・・
一 荒神 無社宮地 ・・・略・・・
一 荒神 無社宮地 ・・・略・・・
一 荒神 無社宮地 ・・・略・・・
一 荒神 無社宮地 ・・・略・・・
一 荒神 無社宮地 ・・・略・・・
一 荒神 無社宮地 ・・・略・・・
一 山神 無社宮地 ・・・略・・・
一 幸神 無社宮地 ・・・略・・・
一 赤岩権現 無社宮地・・・以下略・・・
1768年には八将大明神以外は、社は無かったようです。※八将大明神は、陰陽道の神で、牛頭天皇の八人の子ども。
磐座(いわくら)があったのか、祠(ほこら)があったのかはわかりません。
文政元年(1818)の『因伯古城跡図志』には、
天満村の要害で杉原播磨守(盛重)の居城と申し伝える。
大山高山であり会見(郡)のこらず日野郡、江尾谷筋、八郷辺のこらず相見える。後のとおり法勝寺谷を請け、険阻にして林有り。
近村に竹木有り。山上に赤岩権現の小社有り。
山上に水有り、夏は渇水して乏し。山の高さ凡そ百五十間。麓より二百間ばかりなり。(『因伯古城跡図志』)
「山上に赤岩権現の小社有り。」と、書かれているので、後から社が建てられたのでしょう。
時代が下って嘉永三年十二月(1851)の『会見郡神社御改帳』を見ると、
字岩坪山
摂社 祭日三月廿四日
一 赤磐権現 社 弐尺四方 柿葺
祭神 大己貴命 以下略
荒神様はあいかわらず無社のままですが、山上の赤磐権現だけは、社があり石灯籠や石手水鉢が文化五年(1808年)や文化十二年(1815年)に奉納されています。
赤猪神社の跡
手間要害山に登ってみました。登山コースは、手間要害山の東側と、膳棚山の麓からの2コースあります。
40分ぐらいかかりました。広い境内だなあと思いましたが、お城の本丸があったところです。
壊れた鳥居や手水鉢が見れました。
鳥居の奉納された年号を見ると、明治十五年と掘ってありました。