赤猪岩神社の伝承

 

赤猪岩とは、八十神が赤い猪だと言って大国主命をだました、赤く焼けた岩です。

 

江戸時代の末期の安政5年の『伯耆志』(1858年)には、赤猪岩(文章中では赤猪石なので以後「赤猪石」の語句を使う。)の様々な伝承が書かれています。

 

赤猪石と思われる石は、一つではなくさまざまな場所にあったようです。

 

まずは、赤猪岩神社(あかいいわじんじゃ)の背後の山である膳棚山のことが書かれています。

 

赤猪岩神社 拝殿 鳥取県西伯郡南部町寺内232

 

 

膳棚山の赤猪石

 

村の西四丁許の山麓に在り此山は上の要害の北に連りて膳棚山又宍道山と呼ぶ。往古宍道玄蕃と云ふ武士当村に居りし故なりと云へし。

 

民諺記に吉川氏に属せる伯耆の将に宍道某あるは同人歟其裔及び屋敷跡あり。

 

山の高要害山の半許にして上は松樹繁茂し麓は雑木の林なり。(『伯耆誌』)

 

ここで悩ましい記述があります。

 

宍道という名字のお武家さんが居り、宍道山(しんじやま)とも呼ばれたと。

 

なぜならば、『出雲国風土記』(733年)に「宍道郷」(ししぢごう)の起原に「天の下造らしし大神の命の追ひ給ひし猪の像、南の山に二つあり

 

・・・中略・・・其の形、石と為りて猪・犬に異なることなし。」などとあり、大国主命が犬を連れて猪狩りをして、犬や猪が石になったということが書かれているからです。

 

『伯耆誌』にも、『出雲国風土記』と『古事記』の猪の話は全く別の話であるということを注意喚起するように書かれています。

 

なにやら、猪と石が山の名前に関連付けられた話になったのではないかと、疑いたくなります。

 

さて、膳棚山(宍道山)の赤猪石のことがまず書かれています。

 

此石山の東南平地より五六間許上る処の林間に在て、今は九分は土中に埋みて一分を顕はせり。故に其を見る形事能はず。

 

上に平石を置けり。田蓑日記に寺内村に大なる石あり。出雲俊信翁云々なりと云れとあるい即此平石なり。

 

土人相伝て曰、某神山より転ばし給ひし石にて、何れの頃か土人これに上る事ありしに、惣祟を蒙る。村民議してこれに土を覆ひ、上に今の石を標す。爾来児女に至る迄これを畏敬する事甚だし。(『伯耆誌』)

 

ここに書かれている石は、赤猪岩神社で祀られているアカイシサンのように感じます。

 

本殿左のアカイシサン

 

 

埋められている石と蓋(ふた)の平石の間違いの話も書かれてました。

 

上の平たい石は赤猪石ではなくて、封印している蓋(ふた)であり、その下に埋められているのが、赤猪石(アカイシサン)なのです。

 

近隣の場所にあるさまざまな赤猪石

 

『田蓑日記』(たみののにっき)には別の赤猪石たちのことが書かれています。  

 

※ 『田蓑日記』は、鳥取藩の国学者 衣川長秋の著。文政5年(1822年)発行。

 

同記にこなたの山に膳棚山と田を隔て東南に在りシオレ峠と呼ぶ赤児岩と云ふ石。麓の路より二丁許上に在り人の手の形所々につきたり。

 

猪の形には似ずと云へる。實に然り。又曰手間山に大なる奇石ありしを享保の頃半は切取り残れる處をば又八年許前に社の鳥居に切取りしよし云へり。 (『田蓑日記』)

 

その他にも、三崎村の石や伐株村の火亂(くわらん)ノ社にも赤猪石の伝承があったように書かれていました。

 

手間山の赤猪石

 

赤猪岩神社の左手のため池に沿った道に行くと、清水井に行く古道があります。
古道を歩いていくと、猪が侵入しないような柵があります。現代でも猪が生息する山なのです。

 

またしばらく歩いていくと、手間要害山の登山道の入り口があります。そこを入り、登っていくと、坂に面します。
そこにもまた赤猪石が祀ってありました。

 

手間要害山の登山道の赤猪石 しめ縄が上にかけてあります。

 

 

こういう坂道に石がありますと、たいへんリアリテイがあります。

 

赤く焼かなくても、こんな大きな石を転がされたら、ひとたまりもありません。

 

< 戻る     > 次へ

 

 このエントリーをはてなブックマークに追加 

Copyright © 2024 古代出雲への道All Rights Reserved.