手間要害山の周りの地名や神社を見て回るとたいへん面白いことに気づきます。
南には手間要害山を取り囲むように、賀茂神社が3つあります。
それから、西南に「倭」の地名、倭姫命を祭神とする高野女神社に由来する「高姫」の地名、そして南西の下側に「鴨部」の地名があります。
それから想像することは、大和の賀茂族です。ひとつひとつを見ていきます。
奈良時代の鴨部郷
賀茂神社というと、全部京都の賀茂神社から勧請したことになっているので、そんなに古くないと見立てがあるのでしょう。
しかし、いろいろ歩いて回っていると、奈良の賀茂神社に、後から、京都の賀茂神社が上書きされているようなそんな気がしてなりません。
どうしてそう思うのかというと、一つは鴨部郷の存在です。
伯耆の国にも、大和の賀茂神戸が存在していました。
伯耆のどこに賀茂神戸があったのか不明ですが、鴨部郷があるわけですから、ここの周辺に存在した可能性があります。
あるいは大石見神社の周辺だったのかもしれません。
『新抄格勅符抄』大同元年牒(806年)によると、
鴨神 八十四戸 大和卅八戸 伯耆十八戸 出雲廿八戸
となっています。
これは、京都の賀茂神社ではなく、奈良のおそらく鴨都波神社(かもつばじんじゃ)だと思います。(高鴨神社の説もあり。)
また奈良の東大寺に、神護景雲四年(770年)に伯耆国賀茂郷の20歳の秋麿という人がお坊さんになったという文書があります。
以下『伯耆誌』(景山粛 著 1858年)からの引用です。
和名抄に鴨部と見へたる地なり
讃岐國阿野郡伊豫國越智郡土佐國土佐郡に同名あり
姓氏録に鴨部祝ありて大國主神之後也と見ゆ(未定の部にも同姓あり)
此氏族の采地なりしなるべし汗入郡松波氏か京都穂井田忠友の所蔵と寫せる東大寺古文書の中に左(下記の)の一書あり
優婆塞舎人事
伯耆國會見郡賀茂卿戸口賀馬戸口
貢 賀茂部秋麿年廿
神護景雲四年六月廿五日
持經位法師 惠 雲 少 鎭 實 志
七月九日
奈良の賀茂族の由縁のある人たちが、ここに奈良時代以前には住みついていたということは言えると思います。
高姫は大和の高照姫命ではないか
ここの「倭」(やまと)という地名は、地名辞典を調べると、「明治10年~22年の村名。会見郡。」ぐらいしかわかりません。
なんだ新しい地名じゃないかとがっかりされる人も多いと思いますが、なんの縁のないところから、なぜ「倭」という村名をつけたのか謎です。
それと昔この辺りは、「大国村」であった時代もあります。
「与一谷」というところに大国主命が腰掛けた石があるためだそうです。
地図を見ると、安来市伯太町につながっており、大国主命の伝承地である青垣山がすぐ近い場所です。
さて、「倭姫」を祀った高野女神社があります。
大正五年に宮前の賀茂神社に合祀されてしまいますが、今はまた高野女神社として再興されています。
高野女神社のすぐ近くから見える大山
『伯耆誌』(1858年)にも記載あります。
産土神加茂大明神 在宮前村 摂社 高野目大明神 社方四尺
村中に在り又高賣高女に作てコノメと称す。三代実録に見えたる當國天照高比賣命にてこれを誤り傳ふるかと思わるれともコの下にノを呼ふを思えば然るべからず。
社傳に倭姫命とするは由なし。何れとも古名と聞ゆれと傳なし。天照高比賣命のことは尾高及ひ日吉津村の下に記す。(『伯耆誌』)
三代実録に見えたる當國天照高比賣命うんぬんとは、日吉津村の蚊屋島(かやしま)神社の祭神のことであり、別のところで述べています。
今按ずるに三代実録に元慶七年十二月二十八日庚申伯耆国正六位上天照高丹治女神云々授従五位下とある神にはあらざるか。
此神は古事記伝に大己貴命の御子高比売(一名下照比売命)にやとあり。
若し然らば天照の文字より誤り伝へて後世伊勢大神宮と称するにや、此他考ふる所無し。(『伯耆誌』)
現在の蚊屋島(かやしま)神社は、一時期天照大御神を祀っていたけれども、本来は高姫命ではないかと述べています。(現在は両方祭っています。)
『古事記』では、タカヒメは下照姫命の別名となっていますが、私は、丹後国一宮の籠神社(京都府宮津市大垣)の祭神「彦火明命」(天火明命)の妻神 高照姫(別名 天道日女命)だと思っています。
「天照高丹治女神」で「丹治」がついています。丹波を治めるということからきているんじゃないかと推測します。
葛木御歳神社 奈良県御所市東持田269
高照姫命は、記紀神話には登場しないけれども、『先代旧事本紀』に登場する事代主命の妹です。大和の葛木御歳(かつらぎみとし)神社(中鴨社)の祭神でもあります。
つまり、高照姫命は大和の賀茂族の神でもあります。
高照姫命は大和の賀茂族の祭神だから、いつしか倭姫命にすり替わったのではないかと想像します。
宮前の賀茂神社
賀茂神社 鳥取県西伯郡南部町宮前
宮前の賀茂神社の由緒です。『鳥取県神社誌』(鳥取県神職会 編 昭和10年)の抜粋です。
祭神 阿遅鉏高彦根神、大己貴命、少彦名命、別雷神、倭姫命、玉依姫命、天照荒魂命、素盞鳴尊、倉稲魂命、誉田別命、大津見命、栲幡千々姫命、天児屋根命
創立年代不詳、三代実録に貞観九年四月庚午八日伯耆国正六位上賀茂神従五位下とあるは則ち当社にして、棟札にも此年号のもありたり、
当社に阿遅鉏高彦根神を奉祀せるは、古事記の故此大国主神、娶坐胸形奥津宮神、多紀理毘売命、生子阿遅鉏高彦根神とありて、西伯郡成実村大字宗像と近きを以てなり、
賀茂註進雑記の賀茂別雷社御領荘園の内に伯耆国星河庄、稲積庄とあり当社社帳記する處によれば星河庄十一ヶ村の総社とありて…後略・・・(『鳥取県神社誌』)
三代実録に「貞観九年四月庚午八日伯耆国正六位上賀茂神従五位下」とあるから、たいへん由緒ある神社です。
京都の賀茂別雷神社の祭神 別雷神を三つの賀茂神社は祀っているけれども、宮前の賀茂神社は、大和の賀茂族の神々の阿遅鉏高彦根神、大己貴命、少彦名命を同様に祀っています。
近くに宗像神社が近いからという理由と書かれています。この違和感は、『伯耆誌』にも書いてありました。
「賀茂註進雑記の賀茂別雷社御領荘園の内に伯耆国星河庄」とあり、賀茂別雷神社の荘園なのは明らかです。
一説では別雷神=阿遅鉏高彦根神があるそうです。しかし、京都の下賀茂社の祭神 賀茂建角身命(糺社)を共に祀ることはあっても、大和の賀茂神を祀るのは珍しいです。
これも想像ですが、京都の賀茂別雷神社の荘園になる前は、奈良の賀茂神を祀っていたんではないでしょうか。そんな気がしてなりません。