大国主命と大石見神社 ここも賀茂族の末裔

『古事記』には、大国主命の2度目の受難伝説が書かれていました。

大国主命は、八十神(異母兄弟たち)に手間山で殺されるものの、カムムスヒの神に救われ、生き返りました。

 

しかし、それを知った八十神は怒って、今度は大きな木を切り倒すと、木に縦に切れ目を入れて、くさびを打ち込みました。

 

すると、木にできた隙間に大国主命を押し込み、くさびをはずして圧迫死させてしまいました。

 

八十神のねたみは執拗で恐ろしい。

 

ここでもまた、母神が現われ、木を真っ二つに裂いて大国主命を救いました。

 

ここでは、カムムスヒの神は登場することなく、大国主命は復活します。

 

手間山の赤猪岩の話からあとの舞台の場所は、『古事記』には書かれていません。

 

しかし、広島県との県境である鳥取県日野郡日南町に鎮座する大石見神社には、その後の伝承がありました。

 

大石見神社 拝殿       鳥取県日野郡日南町上石見819

 

 

 

大石見神社の由緒

 

『日南町史』( 昭和59年3月30日 日南町発行)より由緒の抜粋です。内容により、3つに分けました。

 

 

〝 当社大国主大明神祭神大巳貴命神代和州(大和国)三輪山に入らせ後、遊行まします時、

 

袋を負ひ奴僕の姿となり因幡の八上姫をめとらんと思われ、その時兄八十神、弟大巳貴と共に伯耆国手向の山に赤き猪住むよし、

 

吾追い下さば汝待ちとらえるべしと狩人を集め、謀たまい彼の山にいたり、猪に似たる石を焼き、ころがし落とし弟神はこの石にあたり、神去りたまはんとき、

 

蛤貝姫乳汁をぬりたもうと、元のごとく治りたもう。

 

八十神おそいきたりたもうことを恐れ、八上姫と共に山奥にわけいり、ここに忍び住せたもうと〟

 

 

〝 崇神天皇の御宇大巳貴命の旧跡をたずねたもう。このとき田々彦命の孫彦伊良津子蒙宣命この国にきたりたもう。

 

このとき大蔵山雍の戸と申すところに化生住み、民をなやます故に彦太郎弟彦次郎、彦三郎臣志農田を召しつれ以上四人下向ありて化生を退治たもう。

 

このとき大巳貴命の旧跡によりて大和国三輪大明神を勧請したてまつる由申し伝う、今大蔵山雍の戸というを世人いい誤りて戸の内という。〟

 

※ 化生(けしょう) ばけること。妖怪。 

 

※ 雍(よう・ゆ)  ①やわらぐ。なごむ。 ②ふさぐ。さえぎる。 ③いだく。保つ。

 

〝この山の頂き上み下もに化生住みいた岩あり、この岩見ゆる所にて村名を上石見下石見と号すという、遷座ありてその後、伊良津子郡家村土居屋敷に住居あり。

 

八ヶ所廿四軒の頭座を定め、八年に一度の当番にもちいてつとめ、年毎の祭礼怠りなし。〟 (『日南町史』昭和59年3月30日発行 発行 日南町)

 

ここの文章から察しますと、猪に似た焼いた石を転がらされ、その石に当たって亡くなった大国主命は、蘇えり八上姫と共に山奥に入り、大蔵山周辺に隠れていたという話です。

 

その後、木に挟まれて殺されたという話ではないのです。

 

ここの神社の起こりは、大国主命が八上姫と隠れていた神跡地なのです。

 

①「田々彦命の孫彦伊良津子蒙宣命」が三輪大明神を勧請したという話

 

②大蔵山(現 大倉山)に住む化生(けしょう)─いわゆる妖怪や鬼の類が民を悩ますので、彦太郎以下4人を召しあげ、化生を退治したという。

 

 

北の方から見える大倉山(標高約1112m)

 

 

また、化生が住みついた岩があり、この岩を見るから、村名を「上石見下石見」になったという地名起源の話です。大蔵山には古い昔磐座信仰があった名残りなのかなと想像しました。

 

また、どうしても考えてしまうのが、周辺の孝霊天皇の鬼退治の話です。

 

大倉山は、別名 「手鬼山」または「牛鬼山」とも云われており、

 

北西山麓には下石見村がありましたが、孝霊天皇が鬼退治の時に、「下の岩を見よ」と言ったとする地名起源話もあります。

 

 

田々彦命の孫とは?

 

田々彦命の孫である「彦伊良津子蒙宣命」が誰かを、様々な系図で探してみましたが、わかりませんでした。

 

しかし、、田々彦命の系譜は、兵庫県朝来市の粟鹿神社の祭主が朝廷に上申したとされる祭神粟鹿大明神の系図にありました。

 

下記は、かなり前後をかなり省略して作成した系図です。

 

『粟鹿大明神元記』 系図抜粋 ※ 名前の後の「命」は省略。

 

 

 

「彦伊良津子蒙宣命」の名前はありませんが、孫の代はちょうど「武押雲命」の代の所です。

 

田々彦命は、『先代旧事本紀』に「田田彦命。此の命に同朝(崇神)の御世、神部直、大神部直の姓を賜ふ」とあり、「神部直」(みわべあたい)の祖と云われる人物です。

 

大和の三輪氏(大国主命を祖とする)の系統が、崇神朝以降(垂仁、景行天皇の頃か)、天皇の各地の平定に協力して、祭祀を担っていったことを反映した伝承だったのかもしれません。

 

神戸郷の存在

 

平安時代の『和名類聚抄』という辞典のような書物には、日野郡には6つの郷がありました。

 

伯耆国日野郡

 

葉侶郷  野上郷  神戸郷  阿太郷  武庫郷  日野郷

 

大倉山の東麓には、福成神社の辺りに神戸上(かどのかみ)という地名があり、昔の神戸郷(かんべごう)の名残りと思われます。どこの神社の神戸があったのでしょう。

 

江戸時代末期の『伯耆誌』(第四巻)には、「当郡樂樂福大明神の神戸なりし由なり」とあり、おそらく宮内の樂樂福神社のことを指すと思います。

 

けれど、福成神社附近にも大国主命に関係する伝説や遺跡があるとされ、断定してしまうのは腑に落ちない感じがします。

 

『新抄格勅符抄』大同元年牒(806年)には、「鴨神 伯耆十八戸」とありますが、大和の鴨神という可能性はないでしょうか。

 

鴨神 八十四戸 大和国卅八戸 伯耆十八戸 出雲廿八戸

 

私には、大和の出雲族(賀茂族)の足跡のように思えてなりません。

 

 

境内には樹齢約600年の「オハツキタイコイチョウ」(鳥取県指定天然記念物)の巨木が2本そびえ立っています。(写真は神社から石段の方向)

 

秋には、黄色い葉っぱが境内一面に敷き詰められ見頃のようです。

 

オハツキタイコイチョウの巨木

 

 

 

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