鳥取県の西部にある手間要害山の麓の南側にある「倭」から、大国主命が「出雲国だけは守る。」と言った伝承地─安来市伯太町の青垣山が、すこぶる近いということがわかります。
伯耆国と出雲国の道は、手間關のある官道しか『出雲国風土記』には記載がないけれども、実際にはいくつかの伯耆国とつながる道があり、その境界が青垣山や長江山であったのでしょう。
もしや、伯耆国との境界が激戦場であった証ではないか、そう思うようになりました。
『古事記』に出て来る手間山の赤猪石の話は、伯耆の国との境界でなにか戦乱があったことを表現しているのではないかということです。
『出雲国風土記』の記載
まずは、『出雲国風土記』を見てみましょう。
〝母理郷(もりごう)。
郡家(ぐうけ)の東南三十九里一百九十歩(東南39里190歩)の所にある。
所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)の大穴持(おおなむち)命が、高志(こし)の八口(やぐち)を平定なさってお帰りになる時、
長江(ながえ)山においでになっておっしゃられたことには、「私が国作りをして治めている国は、皇御孫(すめみま)命が平和に世をお治めになるようお任せ申し上げる、
ただ八雲立つ出雲国は、わたしが鎮座する国として、青く木の茂った山を垣の如く取り廻らし、玉の如く愛でに愛で正して守りましょう【原文…守(も)りまさむ】。」とおっしゃられた。だから、文理という。
〔神亀三年(726)に字を母理と改めた。〕〟( 『解説 出雲国風土記』 島根県古代文化センター [編] 今井出版)
ここでの記載を見ると「出雲国の国譲り」と狭い解釈をしている歴史家の間違いに改めて気づかされます。葦原の中津国は、天孫に譲るけれども、出雲国だけは自分が鎮座する国として、守ると・・・。
この守るということが、ここの地名 母理(もり)郷の地名起源として書かれています。
そして、ここの青垣山が伯耆の国との境に位置し、まるで、天然の要塞としての青垣が、伯耆の方から攻めてくるのを阻止するようにも思えてなりません。
伯耆国側の与一谷が、前は大国村という村名に属す地域でしたが、『出雲国風土記』の大国主命伝承も関係していたのかもしれません。
「青垣山」というのは大原郡木次郷の「八十神は青垣山の裏に置かじ」にも登場し、八十神が攻め入らないような要塞の山の形容に思えます。
大国主命のここでの設定は、高志(こし)の八口の平定から帰って来たということですが、ニニギノミコトに国譲りが決まっているのに、北陸(越の国)に行っているとは少し不自然な展開です。
伯耆国との接点に、諸外国に国造りに出かけていた、それも「平定」という軍事的な感じのする話を隠喩として使ったのではないかなあと、想像します。
また、あるいは長江山が水晶の玉の産地であったことと、同じく勾玉の産地 拝志郷(はやしごう)でも、高志(こし)の八口の平定神話が語られるところを考えあわせると、ヒスイの産地である高志と玉つながりで結びつけた話だったのかもしれません。
青垣神社
ここ青垣山の北側の麓に青垣神社が鎮座しています。
ここに入る道がたいへんわかりにくかったです。正確な参道がわからず、ここの小屋の手前の細い道を入っていきました。
青垣神社の創始年代がわかりませんが、江戸中期の地誌である『雲陽誌』の筆頭に書かれてある由緒ある神社です。
東母里
青垣大明神
天下を造所の大神 大穴持命なり。本社 三尺五寸。
※三尺五寸は、約133センチ。
しかし、悲運なことに明治時代初期の神社再編で明治4年東八幡宮に合祀されることになりました。
ところで現在の社殿は、その後、再興されたということです。
〝『出雲国風土記』所載の旧跡。古く守留布神社と称し、地元の人は守護神として、この地にまつり、山を「青垣山」と称し、社を青垣神社と称し尊崇した。
明治4年東の八幡宮に合祀、社地は祈願所とされたが、村人の請願により旧社地に復座された。〟(『伯太町史 下』 発行 平成13年3月 伯太町 )
昭和37年11月3日発行の『伯太町史』には、青垣神社のことが書かれてなかったことを考えると、その頃は、祈願所扱いだったのかもしれません。
しかしながら、平成16年9月発行の『郷土 母里』(母里公民館発行)には、別のことが書かれてありました。
〝青垣神社
創建不詳。明治期まで集落南方の丘に鎮座、その後集落の氏神として集落の中心で全域を一望できる高所山腹の現在地に遷座。
社殿は旧社殿をそのまま移したという。〟『郷土 母里』(母里公民館発行)
明治4年には東八幡宮に合祀され、江戸時代の今の社地より南方にあった青垣神社の社殿を現在地に移し、祈願所として出発したけれども、後に祈願所ではなく神社として再興されたということなのでしょうか。
長江山
『出雲国風土記』の長江山の記事です。
〝長江山。郡家(ぐうけ)の東南五十里の所にある。(水晶がある。)〟( 『解説 出雲国風土記』 島根県古代文化センター [編] 今井出版)
母理郷の記載で、「玉」がキーワードとして登場しますが、この母理郷の長江山には、水晶があることが記載されています。
長江山は、現在の永江山(標高570メートル)とされており、これまた伯耆国との境に位置します。
母里の町から永江山に向かう途中に玉神社があります。
玉神社 島根県安来市伯太町下小竹242
ここの神社の説明板には、長江山の稚児岩(ちごいわ)に鎮座していた社が玉神社の前身であると、書かれていました。
そこからまた鳥取県側の日南町の峠をめざしていくと、稚児岩に到着しました。
稚児岩
稚児岩の語源は、
「情け深い出雲の国の父と慕われた大穴持命から「父の岩」と言われたのが、後に訛って「乳児岩」「稚児岩」となった伝承」(玉神社 説明板)だそうです。
途中道路工事をしていてう回路を通りました。車1台やっと通れるくねくねした道路を走ることになりました。
後から、鳥取県側から帰りましたが、鳥取県側から広い道路を通って稚児岩まで行った方が安全だと思いました。
私が行ったときには、稚児岩の入り口の看板が見えませんでした。県境の手前すぐの舗装してない道を左に曲がったところです。
舗装してない道を歩いて、約20分です。車1台通れそうですが、万一車に出くわすと、にっちもさっちもいかないので、県境付近に車を停めて歩いて行きました。
稚児の岩のてっぺんに休憩所が建ててあり、そこから、右手に降りる道を降りていくと、岩を仰ぎ見ることができます。
稚児岩 高さ約20メートルの巨岩
「玉の如く愛でに愛で正して守りましょう」という意訳とは別に、「宝玉を置いて守ろう」(中村啓信 監修・訳注『風土記 上』 角川ソフィア文庫)という現代語訳があります。
大国主命が水晶の玉をこの稚児岩の上に置いて、「この出雲の国は私が治める」と宣言したという説明がされることも多いようです。
古代においては、宝石という装飾品というような意味合いよりも、邪気を祓う力や生命力を増進するという「玉の呪力」という意味合いが強かったと思われます。
伯耆国につながる街道
稚児岩の近くには、古代から出雲国と伯耆国を結ぶ街道があり、たたら製鉄が盛んであった時代には、「鉄の道」として多数の荷車が往来したそうです。
稚児岩に向かう道と逆方向に鳥取県側に行く古道がありました。
ちょうど境のところにお地蔵さんが祀られていました。道の峠には塞ノ神さんであったり、お地蔵さんだったりします。塞ノ神さんが習合したものかもしれません。
峠の先は草がぼうぼうで行けませんでした。
鳥取県側(伯耆国)は、どんな場所かと思ったら、日南町の印賀でした。
孝霊天皇の鬼退治伝承の樂樂福(ささふく)神社が多い日南町です。
印賀の樂樂福(ささふく)神社の背後の山林には、孝霊天皇の皇女である媛姫命のご陵墓と伝わる地があります。
まとめ
○出雲国母理郷は、伯耆の国との境界に接した場所でした。『出雲国風土記』の青垣山の話は、天然の要塞で、伯耆の国から敵が侵入できないようする話に聞こえます。
○現在の伯太町母里からは、赤猪岩伝説の手間山や倭の場所が近いです。
○永江山を越えた先は、孝霊天皇の鬼退治の伝承地です。大和から鬼退治に出張って来たのです。当然戦乱があったと思われます。
○大国主命と倭国大乱時代とは、時代が合いません。しかし、何代目かの大穴持(出雲の首長)が倭国大乱時代に大和の勢力と戦ったことが、『古事記』や『出雲国風土記』の創作神話に反映されているのではないかと感じます。