今は、寂しく「西楽々福神社」の社号標が道路に残っています。

 

現在、神社は廃絶、東の楽々福神社に合祀されております。

 

少なくとも、江戸時代末までは、「大社」として、立派な神社であったことが想像できます。

 

 

社家 入澤氏は物部氏の末裔

 

旧・溝口町の楽々福神社の神主家芦田氏が、物部氏の原型たる穂積氏の末裔であることを書きましたが、

 

西楽々福神社の神主家の入澤氏もまた穂積氏の末裔であることが『伯耆誌』に書かれています。

 

ただ『伯耆誌』の作者は、伝承や氏族系譜をあまり信じる人ではなく、あちこちに疑惑の言葉がちりばめられています。

 

神主入澤氏

 

宇摩志摩治命の孫 出石心命の子大矢口宿禰の後と云へり。 大矢口宿禰 稚武彦命に陪して当国に淹り其子孫当社に仕ふるものならんか。

 

今伝ふる所、大矢口宿禰の後那澤仁奥といへるを以って始祖とす。

 

然れども大矢口宿禰より仁奥に至る世系詳ならず今考証を加へかたし。然れば大矢口宿禰の後といふことまた全く信じ難し。

 

今末社に稚武彦命相殿に祭る所其の氏神とせる義ならんや。

 

当社奉仕の職、往古は七家ありて足立、赤木、眞(シム)、和田、野村、木山、倉光等ありしが、中代社領を失ひて土民となるといへり。

 

これら太古神征陪従び子孫なりといへども、其系伝更に考ふる處なし(真は会見郡進氏同家なるへし)。

 

さて、那澤(或いは名澤に作る)仁奥の後、玉澄・・・中略・・・利久に至る十七世の家譜また詳ならず。利久男子無し一女子あり是に出雲仁多郡亀山城主三澤七郎為清の二子又三郎為房を養ひて婿とす。

 

是永禄年間なり為房後に若狭守豊次と更め又家号名澤とす。豊次より十代豊前守隆定是当主なり。

 

穂積氏の大矢口宿禰命については、『先代旧事本紀 巻第五・天孫本紀』では以下の通りです。

 

同じく四世の子孫・大水口宿禰命(おおみなくちのすくねのみこと)。

 

穂積臣(ほずみのおみ)、采女臣(うねめのおみ)らの祖で、出石心命(いずしこころのみこと)の子である。

 

弟に、大矢口宿禰命(おおやくちのすくね)。

 

この命は、盧戸宮(いおどみや)で天下を治めた天皇(孝霊天皇)の御世に、共に宿禰となり、大神を祀った。

 

坂戸(さかと)の由良都姫(ゆらつひめ)を妻として、四人の子を生んだ。

 

孝霊天皇の時代に宿禰になったことが述べられています。

 

江戸中期 『伯耆民諺記』の記載

 

寛保2年(1742年)、伯耆国倉吉詰の鳥取藩士といわれる松岡布政(まつおかのぶまさ)が著した『伯耆民諺記』(ほうきみんげんき)の記載です。

 

(なお 『伯耆民談記』と混同されますが、『伯耆民談記』の記載と表現が微妙に異なっています。)

 

 

宮内西邑 楽々福大明神 社領七石四斗七升八合

 

東西合格両社ともに奥日野の大社にして、神宮寺あり、
祭神前に同じく 

 

社の後に山上に岩屋あり

 

天皇の皇女崩御の岩屋なりと傳へて凡人望ㇺ事かなはす

 

此の岩屋の上に、大成ル一本の松あり

 

木風千歳の昔を現しなに様瑞ある古木なりしに 故なくして

 

正徳二辰年中折れして後無程枯果るとなり

 

當社に神領の古記あり 和銅二年酉年の證文なり

 

漸今一千五十四年に至る    (『伯耆民諺記』 巻之十二)

 

当時の西楽々福神社の社領が、「七石四斗七升八合」であり、東楽々福神社の社領が「六石五斗」であり、西楽々福神社の方が少し多かったのです。

 

 

崩御山はだれのお墓を祀っていたのか?

 

江戸中期の『伯耆民諺記』では、「天皇の皇女崩御の岩屋なりと傳へて凡人望ㇺ事かなはす」とあります。

 

この皇女というのが、孝霊天皇と皇后細姫の娘 福姫を指すのか、細姫自身を指すのか、わかりませんが、江戸中期では、天皇の皇女の崩御山だったと思われます。

 

「皇女」という言葉だけから単純に考えると 福姫であろうと思われますが、幕末に書かれた『伯耆誌』の記載から読むと、福姫は、西楽々福神社の社伝には登場せず、皇后 細姫のように思えます。

 

西楽々福神社跡地から見える鬼林山(きりんざん)

 

 

今社説に伝ふる處を見るに彦太瓊命(孝霊天皇)皇后細媛命皇子歯黒命(彦狭嶋命の亦の名とす)

 

共に当国へ行幸有て皇化を恢弘し邪鬼を征討し玉はん為に

 

まつ当郡笹苞山(宮原村に在り説同村の下に出つ)に坐まし山中邪鬼の巣窟を覆し給はんとして河源を遡り南方に進みて

 

上菅生山湯原等の地を歴玉ひ(三村の由縁等各村の下に述)終に鬼林山(今大林山と云ふ東村に在り)より大倉山(下岩見村)の麓に於て

 

邪鬼を斬殺し玉ふ是より河を渡りて西方に進み細屋村に至り玉ひ爰にて皇后に会いし玉ひて

 

是より東北に返り笠置村大宮村を歴て再南方に進み此地に行宮を建玉ふ即ち河水を隔て

 

東村に天皇御坐し西村に皇后(一説に歯黒皇子)御座ます

 

其の頃備中に蟹魁帥と云ふ者有て皇居を襲はむとす歯黒皇子霞郷に関を置て是を待玉ふに魁帥戦はすして降参す

 

後皇后此地に甍去し玉ひければ是を眞禮峰に葬奉る今社の艮位三丁許に靴り是即其御墓なりと云う

 

(以上社殿神宮寺縁起民諺記民談記等の諸説を参取す原書杜撰甚し故に今其の要領を挙ぐ)

 

抑太古事蹟邈として其確実証し難しと云へども(以下 省略)  (『伯耆誌』 巻五)

 

 

幕末までの神社の伝承では、
西楽々福神社は、皇后 細姫と皇子歯黒命が住んでいた宮であり、東楽々福神社に孝霊天皇が住んでいた宮ということになります。

 

伯耆の鬼退治伝説には、吉備一族は登場していません。

 

それゆえ『伯耆誌』は、神社の言い伝えが、誤伝のごとく書いています。

 

『日本書紀』『古事記』に書かれていないことが、その理由です。

 

しかしながら、『鳥取県神社誌』(鳥取県神職会 昭和10年)では、なんと、この崩御山や大吉備津彦命に転じています。

 

是れ蓋し大吉備津彦命の陵墓にして、當社は即ち大吉備津彦命の御廟社なり ( 『鳥取県神社誌』546頁 )

 

明治の神道の再編の中で、社伝そのものが大きく書き替えられているようです。

 

鬼退治の主役が、歯黒皇子・細姫 → 大吉備津彦命に変わっているわけです。

 

『古事記』『日本書紀』との矛盾点

 

『古事記』における孝霊天皇の妃・皇子の系図

 

 

江戸時代の神社の伝承では、皇后 細姫と歯黒皇子(彦狭嶋命が又の名)が一緒に住んでいた話ですが、
『古事記』の系図より見ると、細姫命と、歯黒皇子こと彦狭嶋命は母子関係ではありません。

 

彦狭嶋命(『古事記』の表記は、日子寤間命)の母は、蠅伊呂杼(はえいろど)です。(※『日本書紀』では、絙某弟)

 

もしかしたら、「はえいろど皇子」が、訛化して「はぐろ皇子」になった可能性もあるのではないでしょうか。

 

また、『古事記』では、大吉備津日子命と若建吉備津日子命が、吉備の国を平定したとありますが、彦狭嶋命を派遣したとは書いてありません。

 

 

『予章記』  伊予の河野氏の記述

 

しかし、『予章記』(河野氏の記した中世の書物)にもまた細姫命の皇子となっています。孝霊天皇の第三皇子である彦狭島皇子が伊予の地に来臨し、住みつき、伊予皇子と号したといいます。

 

此孝元天皇御弟伊予皇子申 。【母皇后細姫命、磯城県主大日女 孝霊第三王子、御諱彦狭島尊】

 

此比、南蛮・西戎動令蜂起間、此御子当国下給。仍西南藩屏将軍云印以宣下故、伊予皇子号。

 

物部氏の大新河命の孫の小致命(おちのみこと)が小市国造であり、伊予の越智氏の始まりとされております。

 

河野氏(かわのし)が伊予物部氏の越智氏の末裔であり、かつ彦狭島皇子が先祖ということが書かれています。

 

物部氏と彦狭嶋命

 

記紀の記述とは矛盾しますが、あえて歯黒皇子(又の名 彦狭嶋命)が、鬼退治の中心人物と伝えるのならば、彦狭嶋命が元々の神社祭祀の中心であったのかもしれません。

 

物部氏の末裔が祭祀するということならば、元々物部氏とゆかりの人物である可能性も高いと思われます。

 

つまりは河野氏と同様、彦狭嶋命がご先祖だった可能性もあるのでしょうか。

 

西楽々福神社 境内跡地  いまは随神門が残るのみです。

 

 

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