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孝霊天皇の鬼退治(7) 孝霊天皇の末裔

今まで孝霊天皇の鬼退治の伝承を書いてきましたが、それは孝霊天皇に随行してきたという紀氏や物部氏の伝承でした。

孝霊天皇が、直接来たのなら、孝霊天皇の末裔の伝承があっても不思議はありません。

 

孝霊天皇は海からやってきた。

海から見える大山と孝霊山
古代は、灯台ではなく大きな山が船の目印だったのではないでしょうか。

 

『伯州日野郡楽々福大明神記録事』(『日野郡史』所収)によれば、孝霊天皇は隠岐島から日吉津に着かれたということになっています。

古代人は陸地よりも、船に乗って移動する方が多かったのではないでしょうか。

吉備の国から陸地を歩いて、攻めてきたというよりも、その方が理にかなった伝承だと思います。

江戸時代までの伝承が、明治時代になると日本書紀の四道将軍─吉備津彦命の物語にねじまっがったようにも感じます。

『伯耆誌』(江戸末期の地誌)にも見られるように、記紀に書かれていな話は信ぴょう性にないものと判断されてしまったと思います。

吉備津彦命となると、吉備国から陸地を北進してきたイメージになってしまいます。

しかし、孝霊天皇の鬼退治伝承は、日本海からやってきて日野川流域を南下していった話です。

日吉津(ひえづ)に着いたということですが、その前に夜見島(よみしま)に立ち寄ったのかもしれません。

夜見島(よみしま)

妻木晩田遺跡から見える弓浜半島

現在は、山陰の有数の港町となり、鬼太郎ロードが観光の名所として有名な境港市のある弓浜半島ですが、古代は夜見島と呼ばれた島でした。

弓ヶ浜半島は、全長約17 km、幅約4 kmの半島で、日野川が運搬してきた土砂が堆積してできたと言われています。

半島の南部は、近世になって田畑として開拓された場所で、人が住むようになったのは新しいと言われています。

しかし、北部は古く、戦国時代には水軍の拠点として、争奪戦が行なわれた重要な寄港地でした。

『出雲国風土記』(733年)には「伯耆の国郡内の夜見の嶋」と記載されました。

 

『伯耆国風土記の逸文』では、相見郡家の西北部に『余戸里』が存在していたと書かれていますので、人は住んでいたけれど、里(郷)を成すほどの人口ではなかったと思われます。

余戸里(あまりべのさと)とは?

律令体制の村落組織の一つ。1里は 50戸で構成し、余りの戸 が生じたとき,これを余戸といい、それが 10戸以上の場合は余戸里を構成するとされる。あるいは、50戸よりも少ない集落とする解釈もあり。

さて、その夜見島の北部に、かなり昔から餘子(あまりこ)神社が鎮座していたようです。

餘子(あまりこ)神社の変遷

餘子(あまりこ)神社  鳥取県境港市竹内町1645

 インターネットや書物には、餘子(あまりこ)神社の鎮座地が、「栄町」(境町)と書いてあるものと「竹内町」と書いてあるものがあります。

又、祭神も「稲田姫命、脚摩乳命、手摩乳命」と書いてあるものと、「奥津日彦命、奥津比売命」と書いてあるものがあります。

どちらの情報が正しいのでしょうか。

栄町の元のは焼失

餘子(あまりこ)神社は、栄町にありました。しかし、昭和20年(1945年)4月、つまり戦時中です、玉栄丸(たまえまる)爆発事件(攻撃されたわけではなく事故)によって、焼失してしまいました。

つまり、境港に隣接した場所に鎮座していたということです。市街地の3分の1が焼失したほどの大火災でした。

現在の鎮座地(竹内町)は、餘子神社の摂社であった「垣内神社」の場所です。垣内神社は、荒神宮が発展して神社に発展したものなので、祭神がかまどの神である「奥津日彦命、奥津比売命」を祭っています。

ですから、神社名は餘子神社ですが、現在は垣内神社の祭神を祭っています。

「稲田姫命、脚摩乳命、手摩乳命」の祭神は、前の栄町の祭神です。

『伯耆誌』によれば、八幡宮(現 大港神社)の西側に連なって、餘子神社が鎮座していたようです。

大港神社 境港市栄町161

餘子(あまりこ)神社とは?

栄町にあった元の餘子(あまりこ)神社についてです。

概略

『鳥取県神社誌』(昭和9年)からの抜粋です。

郷社 餘子神社

祭神 稲田姫命、脚摩乳命、手摩乳命、大日靈貴命、素盞鳴命、倉稲魂命。

由緒 創立年月日不詳、明応九庚申年十一月再建の棟札によれば当社は境、上道、中野、福定、竹内、高松の六村の大産土神として崇敬せしが特に旧藩主より厚く崇敬せられ、幕提灯等寄付せらる。・・・・以下 中略・・・

境内坪数 七百八十坪

氏子戸数 二千百戸

『鳥取県神社誌』(昭和9年)

※ 明応九年は、西暦1500年で 室町時代

「六村の大産土神」ということは、室町時代は、弓浜半島の北部では一番の神社であったと思われます。

創始年代は

棟札では、再建されたことが書かれているので、元々の神社はそれよりも前ということになります。戦国武将 尼子経久が再建したということです。

明応九庚申年十一月十二日尼子伊豫守経久を再建す。代官宍戸右兵衛、奉行柳生千三郎、辻品平、神主宮脇喜代丸、導師吉祥院恭雄

『境港要覧』(面谷友太郎編 大正6年)に書かれていることを見ると、鎌倉幕府の成立前の建久元年(1190年)には、存在していることになります。

いつ創建された神社かわかりませんが、平安時代以上前の古社であることがわかります。

伯耆誌 建久元年五月頼朝梶原景朝をして隠岐国に使ひせしめし際当社に宿して弓矢を奉献せりと

後醍醐帝隠岐へ遷幸の節鳳車を此社に駐めさせ給ひ逆賊降伏の勅願あり後勅書及御製を納め賜ふ  

面谷友太郎編『境港要覧』大正6年

祭神は

餘子神社だけではなく、多くの神社が、時代によって祭神が変わり、古(いにしえ)の祭神と違っている場合は多いです。

江戸時代も(『伯耆誌』の記述から)明治時代も祭神は、「稲田姫命、脚摩乳命、手摩乳命」であったのですが、『因伯大年表』(楢柴竹造著 大正6年 )には 「伯州餘子神社正神ハ孝霊天皇ヲ祀ル」(46ページ)とあります。

つまり、「稲田姫命、脚摩乳命、手摩乳命」は表向きということでしょうか。

『境港沿革史』(小泉憲貞 著 大正4年)にも、このような記述があります。

古文書云、正仙神、無社伯耆国会見郡境村鎮座 餘子大明神合殿尊號人皇七代孝霊天皇大倭日子賦爾尊正仙神尊號 (以下 略)

小泉憲貞『境港沿革史』(大正4年)

古くは正仙神とも呼ばれ、表向きの祭神と共に孝霊天皇(=大倭根子日子賦斗邇命 おおやまとねこひこふとにのみこと )を祀っているということなのでしょう。

孝霊天皇の末裔

『境港独案内』(小泉憲貞 著 明治33年6月)には、餘子神社の社家である森家の出自が書かれてあります。

● 当所二十九旧家

西小路、森家ハ人皇七代孝霊天皇ノ皇子正武彦命四十五代ノ苗裔 餘見島宿禰守明ノ末孫

明応年中喜代丸代ノ頃ハ宮脇ト称ス

爾(その)後森ト改氏伝ヘテ今代清人二至ル

中興宮脇喜代丸明応九年ヨリ明治二十八年マデノ年数三百九十六年ナリ

〇明応九年以前康和五癸未年 餘見島宿禰守明 出雲ノ国主対馬守源義親ト婚ヲ結ビシ歳に遡レハ三百九拾八年 (以下 略)  

小泉憲貞 著『境港独案内』

森家は、境旧家29家の一つと言われ、その家系図によると孝霊天皇の皇子 正武彦命の末裔で45代餘見島宿禰守明の時、源義親と婚姻関係があったそうです。

また明応時代の頃は、宮脇姓で、その後、森姓に変わったとのことです。

神社名の餘子(あまりこ)の意味

さまざまな説があります。

餘子神社に限らず、古い神社名ほど、現代ではほとんど解明されていません。

1)『余戸里』(あまりべのさと)

一郷を構成するほど、戸数が少なく、夜見島には、余戸里(あまりべのさと)があったとされます。この「あまりべ」の社から、「あまりこ」の社になったとするものです。(『弓浜民談抄』)

もっともらしい説ですが、この説ですと、全国に多数の餘子神社という神社が発生してもおかしくはありません。

余戸里は夜見島だけではなく、隣の出雲国意宇郡には、4つも余戸里があります。

全国規模で多数の余戸里があるわけですので、たくさんの餘子神社があるのが当然ですが、ほとんどありません。

2)八岐大蛇に食べられずに一人残った稲田姫命

『伯耆誌』の載っていた説のひとつですが、ここの祭神 稲田姫命が、八岐大蛇に食べられずに一人残った⇒余った子から、「あまりこ」となった説。

出雲国でなく、伯耆国でなぜ八岐大蛇伝説が語られるか不思議に思いますが、伯耆国風土記逸文にもその話が書かれています。

或書に引る風土記には、手摩乳(てなづち)、足摩乳(あしなづち)が娘、稻田姫、八頭(やまた)の蛇(をろち)の呑まむとする故に、山中に遁(に)げ入りき。

時に、母遲く來ければ、姫、「母來ませ、母來ませ」と曰ひき。

故、母來の國と號(なづ)く。後に改めて伯耆の國と為す。云々。

『諸国名義考』(1809)

伯耆(ははき)国の起源は、は母が来る(ははき)に由来するという話です。

孝霊天皇が鬼退治したという日野川(ひのかわ)流域ですが、出雲国の斐伊川(樋川)も同様に「ひのかわ」と呼ばれます。

孝霊天皇が鬼退治から八岐大蛇伝説が創作されたという説もあります。

3)戦国武将 尼子氏(あまごし)

これも『伯耆誌』に載っていたひとつの説ですが、尼子経久は、餘子神社を再建し、社領も与えました。特にここの神社を敬っていたので、それらから、「尼子大明神」と称していたけれど、この文字を嫌って、余子大明神になったという説です。

4)余子(よし)

音読みすると、「よし」ですが、小学館の「精選版 日本国語大辞典」で調べると、

① 嫡子以外の子。次子以下の子。〔春秋左伝‐宣公二年〕

② その人以外の人。ほかの人。

と、あります。宣公二年(紀元前607年)の記事に書かれているのだと思いますが、余子にはそういう意味があるのです。

孝霊天皇の 嫡子は、孝元天皇ですから、孝霊天皇の皇子 正武彦命は、余子(よし)になります。

もしかすると、余子(よし)から余子(あまりこ)になったかもしれないという一つの想像です。

まとめ

確かに孝霊天皇の末裔の伝承はありました。

ありましたが、孝霊天皇の鬼退治伝承そのものが、江戸末期の歴史家より、信じ難しとされて、吉備の四道将軍としての出雲攻めの話ではないかと解釈されています。

また余子神社の古文書に見える事跡は、「多くの歴史家より史実に疑わしいとされ、虚構とされているものである。」(『夜見村誌その一・弓浜における夜見村の歴史とその周辺』)ようです。

しかし、真実であるという証明もできませんが、虚構であるという証明も同時にできません。

【参考文献】

森 納/森 敏秋 著 『夜見村誌その一・弓浜における夜見村の歴史とその周辺』

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