インターネットや書籍において、アラハバキ神は、出雲系の地主神や出雲と東北をつなぐ原初的な蝦夷の神だとかの説が見られますが、本当にそうなのでしょうか。
いろいろと考察してみました。
アラハバキ神の出雲国の分布
古代史研究家の斎藤隆一氏が作成したアラハバキ神社所在地一覧表(『季刊 邪馬台国 54号』「荒覇吐神の幻想ー『東日流誌』についての総合的批判・そのⅢ─」)に、島根県は2社載っていました。
ちなみにその全国のアラハバキ神社の分布表から数をまとめると、
北海道 1、岩手県 1、青森県 1、秋田県 1、宮城県 2、福島県 1,埼玉県 21、東京都 1、神奈川県 1、愛知県 1、静岡県 1、島根県 2、山梨県 1
圧倒的に、埼玉県が多いです。
これを、埼玉県の、古代の武蔵国造が、出雲国造系だからと考える節もあるようです。
しかし、、出雲系というならば、伯耆国(鳥取県西部)や関東一円の国造(相模国、上海上国造、下海上国造、伊自牟国造など)、も出雲国造系なわけなので、埼玉県だけでなく、アラハバキ神社がもっとたくさんあっても不思議はないと思います。
さて、一覧表に載っている島根県のアラハバキ神社は次の2社です。
阿羅波比神社 島根県松江市外中原町 出雲国風土記にも記載
尓佐神社 島根県八束郡千酌 別名アラハバキサン
阿羅波比神社(あらわいじんじゃ)
一つ目の阿羅波比神社ですが、神社名が、「アラワイ」ですが、漢字の読みから考えると、「アラハヒ」だったと思います。
伊勢神宮の摂社「屋乃波比伎神」が「矢乃波波木神」と呼ばれていた例からも、「アラハヒ」は「アラハハ」だったかもしれません。ただ「キ」の音が欠けています。
社伝には、アラハバキと関連には何も述べられていないので、神社名が「キ」がぬけた「アラハハ」という事以外はわかりません。
阿羅波比神社の元の社地
阿羅波比神社の元の社地は、松江温泉の東側の小山である「洗合山」(あらわいやま)でした。現在は、南平台という住宅地になっています。
戦国武将である毛利氏が、尼子氏の攻め城を作るために、阿羅波比神社は遷されました。
洗合山 手前の方の小山です。
『雲陽誌』の記載
江戸時代中期の地誌である『雲陽誌』(1717年)に阿羅波比神社は、「照床明神」(てるとこみょうじん)と書かれています。
照床明神 當社は風土記に載する阿羅波比社なり、少彦名命、大己貴命、天照大神、高皇霊尊、素盞嗚尊を合せ祭るゆえに五社明神と云なり、
此の所を末次中原といふは大己貴命此國に到て、興言曰、葦原の中国本自荒亡とのたまふ、葦原の中国の上下の二字を反覆して中原といへり、
・・・中略・・・ 濱を荒隈といふも荒亡草木と宣う草木の二字を去て荒芒といふなり、後に荒隈、洗合とも書なり、
社を照床と云は昔年荒芒より光を放湖を照して浮くるものあり、即ち少彦名命なり、此故に照床の社ともいふなり (『雲陽誌』)
阿羅波比神社 島根県松江市外中原町54
葦原の中国の国造りが関係した話で、荒芒草木から、「荒隈」になったということです。
『日本書紀』一書第六の文面からの話のようで、『日本書紀』には、荒芒はありますが、「荒芒草木」ではなくて「磐石草木」です。
大己貴命が葦原の中津国の国造りを行うまでは、荒れ放題で、石や草木までも反抗して大変だったようすを述べたということです。
少彦名命が荒れた海より、一筋の光を放ち登場し、海面を照らした様を照床と言った解釈だと思います。
海を照らしながら登場する話は、ホムチワケ伝承の肥長姫を思い出します。少彦名命もまた海蛇の神だったのでしょうか。
照床神社 島根県松江市黒田町64
外中原の阿羅波比神社の元の社地なのかわかりませんが、阿羅波比神社の比定社です。
もしや荒神の源流は、蛇神の雌雄2体の祭祀
『雲陽誌』には、外中原の阿羅波比神社のそばにあった荒神の森の話が書かれています。
荒神森 社の側にあり、霊は一尺はかりなる蛇なり、尋常の蛇にはちかひて其色白黄にして二所に頸たまあり、大凶年には出ることありといふ、
元禄十五年大風洪水にて森木の根かたむきたり、氏人多あつまり此木をおこさむとする時彼小蛇古木の下地中より出て棹のことくに立暫して又元の木の根に入たり、 『雲陽誌』
荒神の御神体は、約30㎝(長さなのか太さなのかわかりませんが、後半に小蛇とあるので長さかもしれません。)があり、2か所に首と頭がある白色と黄色の蛇だそうです。
大凶の年には、登場するということです。元禄15年に大風と洪水で森の木が傾いた時、それを皆でその木を起こそうとしたとき、その荒神の御神体である蛇がさおのように立ち、しばらくして、元の木の根に入ったそうです。
2つの頭を持つ蛇ということかもしれませんが、考えようによっては雌雄2体の蛇の合体とも考えれます。
そして、さおのように立ったということは、神木に巻いた藁蛇は、もしかすると雌雄合体の形を示しているのではないかと思ったりもします。(竜が天空目指して木を登る姿とも言われます。)
ヤマタノオロチ神話で、手なづち・足なづちの神と稲田姫命が登場しますが、退治されるのがヤマタノオロチという蛇ならば、退治を頼む側の夫婦神も手もなく足もない同じく蛇であると考えると、2つ頭の蛇体というのも手なづち、足なづちの神を模した話なのかなとも思いました。
須佐之男命が足なづちの神を、稲田の宮主に命じて、須賀の八耳になる話がありますが、あの話は神社の創始を物語っているのではないかとも思います。
神の住居としての宮の話ではありますが、須佐之男命と稲田姫命の宮に随身する2つの蛇神としての宮主ということです。
荒神・客神・アラハバキ神は同一か?
千酌の爾佐神社
さて、島根県のもう一つのアラハバキ神社と書かれた「尓佐神社」(にさじんじゃ「爾佐」とも書く)ですが、民俗学者吉野裕子氏の聞き取った尓佐神社の宮司さんの話を書いた本に依ることからの記載だと思われます。
正確に言うと、「尓佐神社」そのものではなく、境外摂社の荒神社のことです。
本社から数百メートル東寄りの森のなかに祀られる荒神の社であるが、同時に客人社でもあって、その通称は「オキャクサン」あるいは「マロトサン」である。
・・・中略・・・「いまはまったく忘れられているが、この荒神社は昔は、アラハバキサンと呼ばれていた。島根半島にはこうした例が少なくない」と教示されたことがある。
つまりアラハバキ・マロト・荒神の三者はひとつなのである。(吉野裕子 著 『山の神─易・五行と日本の原始蛇信仰』 人文書院)
『雲陽誌』における客神と荒神
江戸時代の出雲国の地誌である『雲陽誌』(1717年)には、68ケ所の客神・客明神・客大明神・客神の森(以下客神と略す)が載っています。
しかし、それとは別に莫大な荒神が記載されているのです。
だから、客神と荒神は区別して考えられていました。
例えば 現在の松江市西川津町ですが
西川津 荒神 17ヶ所
客神
道祖神
水神 15ヶ所
最も客神が多い島根郡ですが、(主に島根半島の地域)客神は、多い所でも2つですので、荒神ほど数は多くありません。
そして、神木や森を祀る形態がほとんどで、建築物である社の記載がありません。
荒神の莫大な数から、いわゆる屋内荒神、同族荒神などイエの祖霊を祀る血縁的な祭祀の盛んな時代であったと思われます。詳しくは⇒ 荒神とは?
現在のような集落を単位とした荒神だけではないと思われます。
祭祀の内容が詳しく書かれてないので、荒神とどこが違うのでしょうか。
想像するに、このような違いがあるのではないかと想像しました。
①古くから続いている荒神を客神と言うのか(屋内荒神、同族荒神よりも遥か古の祖霊を祀る)
②血縁の祖先を荒神として祀るが、血縁でない来訪神を客神というのか
③渡来の神を祀るので、客神というのか
客神の祭神
荒神の祭神については『雲陽誌』にほとんど記載がありませんが、一般的には素戔嗚命と言われています。
客人については祭神がたくさん書いてありますので、一覧表にまとめてみました。
『雲陽誌』における客神の祭神名の分類 ※ 門客人は除く
祭 神 名 | 数 |
---|---|
建御名方命 | 12(島根郡)2(秋鹿郡)2(意宇郡)1(大原郡) |
伊邪那美尊 | 1(島根郡)3(能義郡)2(楯縫郡) |
倉稲魂命 | 6(島根郡)2(秋鹿郡) |
少名彦名命 | 1(神門郡) |
天𤭖津日女命 |
1(秋鹿郡) |
稲背脛命 |
1(楯縫郡) |
記載なし |
6(島根郡)6(秋鹿郡)4(意宇郡)5(能義郡)9(大原郡)1(楯縫郡)1(仁多郡)1(出雲郡)1(神門郡) |
たとえば『播磨国風土記』の揖保郡粒丘の韓国から渡って来た天日槍命(アメノヒボコのミコト)を「客神」と書いています。
よそから来た神と仮定すると、最も多い建御名方命は、「諏訪の神」でよその神です。
伊邪那美尊は、黄泉の国の神なので、よその国の神かもしれません。(「黄泉の客」という言葉もあります。)
しかし、倉稲魂命はどうなのでしょう。勧請した神が、客神ではないかと頭に浮かびますが、稲荷神は別個に記載あります。
また、諏訪明神も別個に書かれていますので、勧請神とも思えません。
いわゆる荒神と同じものならば、素戔嗚尊(スサノオのミコト)を祭神に祀っていても不思議はないのに一つもありません。
客神の祭祀
『雲陽誌』(1717年)には、祭祀の日や少数ではありますが、神事についても書かれています。
祭日は、9月・10月・2月が多いです。日としては、午の日、丑の日、亥の日というのが多いようです。
島根半島の「北浦」と「野波浦」では百手神事(いわゆる的当て)を行うと書かれていました。
隠岐島の五箇村での客神祭りでも的当ての神事をする所が多いです。隠岐島は、祭神が素戔嗚尊あるいは牛頭天王のところがほとんどです。
現在の客神 なぜ客神と言うのか
江戸時代には、社が無く神木を祀るだけの祭祀であったものが、発展して、現在では社殿を構えた立派な神社になったところもあります。
石塚尊俊『出雲の客神と客神祭り』(『山陰民俗 第29号』1977.10 所収 )に、なぜ客神というのか、3例書かれています。
表立っては憚(はばか)られるので客分
大原郡幡屋村前原(現 雲南市前原)の客神社の話。
祭神は武御名方神で、これはあの国土奉献の折、高天原からの使いに反対せられた神なので、表に出してまつることは憚りあるというので客分としてまつり、そのため客神というようになったと伝えている。(石塚尊俊『出雲の客神と客神祭り』)
流れ着いた祠の神なので客神
八束郡宍道町(現在は松江市宍道町)の客神社(現在氷川神社に合祀)の話。
あるとき洪水でどこからともなく小祠が流れついたので、とりあえず倉の中へ納めておいたところ、その後大火の折、ふしぎとその小祠のみ焼けなかった。そこでこれは畏き神であるというので社殿を建て、自分の客分としてまつり出したのがもとだという。(石塚尊俊『出雲の客神と客神祭り』)
神有月の来訪した神のお宿
簸川郡大社町大土地(現 出雲市大社町)の客神社の話。お客さんとも客荒神とも言われます。『雲陽誌』には、「荒神」とは書かれているが、客神は記載ありません。
出雲大社のいわゆるお忌さんの期間と同じであって、その期間中全国の神々が集まってきてここへ宿泊される。あるいは十七日のカラサデのとき帰りそこねられた神がお泊りになる。そのためここをお客さんというようになったという伝承もある。(石塚尊俊『出雲の客神と客神祭り』)
客神の御神体は白蛇
客神の祭りは、各地区によって全然違うようです。
祭神も違いますが、島根県松江市美保関町北浦地区では、客神の御神体は角のある白蛇だそうです。
客神は地区の者や神職によって荒神的な神格として考えられている。
その神体は角のある白蛇といわれ、実際にそれを見た者もいるとのことである。
気の弱い者がこの白蛇を見ると病気になるといわれる。
一方で白蛇を見ることは、「おかげ」がある、「マン」が良いともされている。(島根県古代文化センター編『島根半島の祭礼と祭祀組織』)