身逃げの神事の概要

出雲大社には、「身逃げの神事(亦の名はみみげの神事)」という不思議な祭祀がある。

 

「しまね観光ナビ」の説明をお借りすると、下記の通りである。

 

8月14日深夜(午前1時)境内の門はすべて開放され、禰宜(ねぎ)は本殿に参拝し、大国主命の御神幸(ごしんこう)にお供する。湊(みなと)社、赤人(あかひと)社に詣で、稲佐の浜の塩掻島(しおかきしま)で祭事を行い、国造館から本殿へ帰着する。この神事の途中、人に逢うと出直しをしなければならないため、町内の人々は早くから門戸を閉ざし、外出も避けている。=iしまね観光ナビ 出雲大社の祭りより)

 

湊社 島根県出雲市大社町中荒木

 

 

身逃げの神事,別火氏,櫛八玉命

 

 

この祭事中、出雲国造は国造館を出て、留守にする。(昔は一族の家に泊まったそうである。)つまりは、国造の留守の間に、大国主命の神霊が、本殿より出でて、禰宜をお共に湊社、赤人社などに神幸するということである。

 

現在は禰宜が、お供をするが、もともとは、大社社家の上官の別火(べっか)氏であった。なぜに、湊社、赤人社の二社なのだろうと思う。

 

「この社の祭神は櫛八玉命で大社社家上官の別火氏の祖先神であり、この身逃げ神事を奉仕するのが本来別火氏であったのだから、この神事はもともと別火氏の祭りであったと思われる。湊社の次には赤人社を詣でるが、この祭神も別火氏の祖である。」(千家 尊統著 『出雲大社』 学生社発行より)※太字は私。

 

出雲大社 社家別火家

火切り臼と火切り杵で起こした火を別火といい、その別火食を管理したのが別火職であったが、別火氏の役割はそれだけではなかった。『懐橘談』(黒沢石斎著 江戸時代初期の地誌)にはこのように記述されていた。

 

七月四日は国造及神官等身退(みひく)の館に参籠して祭あり、 
 別火といふ祠官是は財氏なりと申す、
 物部十千根大連が後胤にや、
 今に至るまで守鑰の役なり、
 彼別火今宵神を負うて社の内外ありくと言ふ、
 信じがたき事なり、
 故に人恐れて門戸を閉ぢて今宵外に出でず、
 若し出て神に逢へば忽ち死すと云ひならはせり

 

「今に至るまで守鑰の役なり」、出雲大社の本殿の鍵を守る役である。「別火氏という祠官これは財氏なり」 別火というのは職名であると思われ、財氏である。「物部十千根大連が後胤だろうか」ということだが、出雲大社の本殿の鍵を管理して、なぜ物部十千根大連の末裔なのか間違いではないか?と最初は思ったが、『出雲風土記』の多久国に登場する、大国主命の御子でワカフツヌシ命といういかにも物部氏の名前の御子が浮かび、これはもしや、大国主命の末裔であり、かつ物部十千根命の末裔ということではなかろうかと思った。同族化の原理で、親戚筋になったということなんだと理解した。

 

あくまで「出雲VS大和」、「出雲族VS物部氏」の構図だけで、歴史や神社を説明する人が多いが、それは歴史の一断面で、むしろ同族化した歴史の方が長いのではないか。そのせいで祖変が起こったり、系図が複雑怪奇なものになっているように思う。

 

次になぜに物部十千根命が、膳(かしわで)の神、火切りの神である櫛八玉命と結びつくかの謎であるが、『日本書紀』をよくよく読むと膳氏には物部系があり、『高橋氏文』(逸文)を見ると、むしろ、火切りの仕事は物部氏の専売特許のように思える。

 

「若桜部」の由来の『日本書紀』履中天皇の条には、
膳臣の余磯(あれし)→稚桜部臣
物部長真胆連(もののべのながまいのむらじ)→稚桜部造になったことがワンセットで述べられている。

 

『高橋氏文』(逸文)は、宮内省内膳司に仕えた膳氏の末裔である高橋氏が安曇氏と勢力争いした際、古来の伝承を朝廷に奏上した家記である。
景行天皇に高橋氏の遠祖・磐鹿六?命(いわかむつかりのみこと)が、膳の姓を賜った話と同時に、若湯坐連らの始祖・物部意富売布連の子の豊日連に火を鑚らせた話、そして、斎火を鑚っている大伴造は、物部豊日連の後裔であるということが述べられている。

 

 

『姓氏録』にも、膳氏の末裔 若桜部造に物部 十千根命の子孫が存在する。

 

和泉国  神別 天神 若桜部造  造  饒速日命七世孫止智尼大連之後也  
止智尼大連は、物部 十千根命のこと