【三屋(みとや)神社の謎】大国主命の政庁?御陵?出雲大社の元宮?

 

三屋神社 島根県雲南市三刀屋町給下865

 

『出雲国風土記』 (733年)飯石郡三屋郷の記事に、「所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)の御門(みと)がある。だから、三刀矢という。」と書かれています。

 

※所造天下大神は、出雲大社の祭神、大国主命の別名。

 

この御門(みと)をどのように解釈するか、さまざまな説があります。

 

『出雲国風土記』は、この記載で何を伝えていたのでしょうか。

 

古墳時代前期の前方後方墳がある松本古墳群が、三屋神社の元の鎮座地だったとの伝承もあります。

 

斐伊川と三刀屋川に肥沃な平野がまたがり、古代栄えていた場所であったことには間違いありません。

 

 

三屋神社は、出雲大社の元宮である伝承

 

富家伝承

 

富家伝承本には、出雲大社(杵築大社)は、三屋神社の神霊を遷して建てられたものであるとの記載があり、びっくりします。

 

七一六(霊亀2)年に建てられた杵築大社は、三屋神社から大国主の御神霊が遷座された。

 

三屋神社の神紋は「竜鱗枠に剣花菱」である。それで杵築大社の神紋も同じ紋となった。(斎木雲州 著 『─大社と向家文書─出雲と蘇我王国』 大元出版)

 

つまりは、『古事記』では「宇迦山の麓に大国主命の宮を造れ」と書かれているけれど、そうではなく伊我山(現在の峯寺弥山)の麓だったというわけです。

 

三屋神社 延喜2年の棟札

 

延喜2年(902年)の再建の棟札の表書きには、
(※棟札とは神社を建てたときや造り替えの時のことを記録に残すため木の板に書いたもの。)

 

奉再建一宮大明神社殿一宇

 

とあり、裏書には、下記のように書かれているそうです。

 

誠忝当社者素戔嗚尊之御子大己貴命天下惣廟神明也云々

 

大己貴命天下惣廟」をどう解するかは難しいところですが、総本宮(惣=総)と、いった意味合いでしょうか。

 

総本宮とは、神霊を他に分けて祭った、大元の神社という意味です。

 

飯石郡誌に書かれた三屋神社の説

 

大正7年(1918年)の『飯石郡誌』には、大国主命の御殿説が展開されています。

 

素戔嗚尊によりて拓殖せられたる熊谷郷は素戔嗚尊の遺業を大国主尊によりて紹がれたるのみならず大国主尊は其隣郷なる三屋郷を重要なる地点として領有せし者の如し

 

三屋郷は肥の川と三刀屋川との間一体の平地を包合する重要地なれば大国主命は此処に宮殿をさへ置かれたるより見ても知らるべし ( 『飯石郡誌』 飯石郡役所発行 )

 

 

三屋神社の拝殿と本殿

 

三屋神社の鎮座する三屋郷のみならず、近接の地域にもまた大国主命伝承が、『出雲国風土記』(733年)に書かれています。

 

三屋神社の周りは大国主命にゆかりのある地域

 

熊谷郷(くまたにごう)

 

三屋神社の鎮座する三屋郷(奈良時代の村)の隣には、『出雲国風土記』に稲田姫命の出産の地と書かれた熊谷郷があります。

 

誕生する御子の名前は書かれていませんが、『日本書紀』本文では、大己貴神(おおなむちのかみ)が生まれたと書かれています。

 

※大己貴神は、大名持命や大国主命とも書かれています。『日本書紀』の別の説では、五世孫、あるいは六代目の孫とも。

 

 

熊谷郷 熊谷郷は、斐伊川(右手の山の麓)と三刀屋川(左手の山の麓)にはさまれた谷間の平野である。

 

熊谷郷(くまたにごう)。

 

郡家の東北二十六里の所にある。古老が伝えて言うには、久志伊奈太美等与麻奴良比売命(くしいなだみとよまぬらひめ)が、妊娠して出産しようとなさるときに、生む所をお求めになった。

 

そのときに此処に来ておっしゃられたことには、「とても奥深い【原文…久々麻々志枳(くまくましき)】谷である。」とおっしゃられた。だから、熊谷という。(島根県古代文化センター編『解説 出雲国風土記』今井出版)

 

城名樋山(きなびやま)

 

 

大国主命(大穴持命)が、城を築いて八十神を討ったという城名樋山 熊谷郷の写真の右側のすぐ手前に位置する。

 

城名樋山(きなびやま)。

 

郡家の正北一里一百歩の所にある。所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)、大穴持命(おおなむちのみこと)が、八十神(やそがみ)を討とうとして、城を造った。

 

だから、城名樋という。(島根県古代文化センター編『解説 出雲国風土記』今井出版)

 

伊我山と神門臣

 

東から見た伊我山(現在の峯寺弥山)

 

 

三屋神社は、出雲国風土記時代に伊我山(いがやま)と呼ばれていた峯寺弥山(299.1m)の麓にあります。

 

一番上の頂上がふたつ見える山が、三屋神社から見える峯寺弥山(みねじみせん)です。

 

神社の伝承によれば、この伊我山は、大国主命が降臨される厳(いか)しき山から、名づけられているようで、これまた出雲国風土記に登場する神門臣(かむどおみ)の祖先 伊加會然(いかそね)の名前も、伊我山にちなんだものらしいです。

 

神門臣が祭祀を行う時に心身を清める場所を伊我屋と呼び、そこに井草社(いがやしゃ)という神社があるとのことです。

 

当社の背後の現在峯寺山と呼んで居る山が、風土記の伊我山であって伊我といふのは厳しいといふ意味を有し大神の御魂が御降りになるいかしき山として伊我山と号けられ、神門臣伊加會然の名前も伊我山の會根に因んだものである。

 

彼等が大神の御祭りを行ふ時に契斎をした場所を伊我屋と呼び其処には風土記所載の井草社が在る。

 

またこの伊我屋の在る場所を与會紀村と呼んで居たことも風土記に記されているが、この村の名は神門臣等が祓ひを行なう際に身を濯ぐ村という意味で号けられたものである。

 

この伊我山は峯寺が創建されるまでは高丸と呼ばれていたがそれは大神の御魂を御迎えする御室山といふ意味であって今も毎月24日には付近の住民が参拝し近年までは厳寒の候でも裸参りが行なわれていた程の神名火山である。(全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年より由緒抜粋)

 

「厳しい」というのは、古語辞典で調べると、厳(きび)しいというよりは、厳(おごそ)かな、厳粛なという意味に近く、神山いわゆるかんなび山を表現した形容詞なのかもしれません。

 

いか・し【厳し・重し・茂し】《イカは内部の力が充実していてその力が外形に角ばって現れている状態。イカメシ・イカラシ・イカリなどの語根。奈良時代にはシク活用。平安時代以後ク活用》

 

①勢いが盛んである。②立派でおごそかである。③鋭く強い。④はなはだしくて大変である。 (大野晋・佐竹昭広・前田金五郎 編 『岩波古語辞典』 より抜粋)

 

“彼等が大神の御祭りを行ふ時に契斎をした場所を伊我屋と呼び其処には風土記所載の井草社が在る。”ということですが、現在の地名「伊萱(いがや)」には、『出雲国風土記』(733年)記載比定神社である、井草神社があります。

 

井草神社  島根県雲南市三刀屋町伊萱1096

 

 

御門の主な説

 

①鳥居説

 

現在の半ば通説になっている説です。「御門」を漢字の意味通り「門」として、

 

出雲大社を遠地から遥拝するための鳥居があったとする考えです。

 

御門は神門郡名の条にあった神門と同じく、今の鳥居にあたると思われ、ここに神門を建てて出雲大社を遥拝したのであろう。そして御門屋はそこに建てた拝殿であろうか。

 

御門と三刀、屋と矢は古音が相通じていたので、それぞれ仮字として用いたのである。

 

今の三屋神社は、この御門の屋を宮としたのに由来する神社であろう。(加藤 義成著『修訂 出雲国風土記参究』 今井書店発行)

 

内山眞龍『出雲風土記解』1787)の説を踏襲しています。

 

江戸時代には、紀伊熊野神社からの二里離れた場所に、鳥居があったなどが根拠のようです。

 

『雲陽誌』(江戸中期の出雲国の地誌)には、松寄下村に鳥居田という田の輪あり、大社の鳥居があった跡と書かれており、離れた場所に杵築大社を遥拝するための鳥居があちこちにあったという伝承からの説です。

 

同様に、三刀屋町給下村にも、鳥井田という田の輪の名前あり、鳥居の跡であったといいます。(千家尊福著『出雲大神 訂再版』 大社教本院発行)

 

しかし、鳥居そのものが奈良時代にすでに一般化していたのかが定かではありません。

 

峯寺弥山頂上の 出雲大社遥拝地 現在は鳥居がありません。

 

 

②神領の入口、境界説

 

三屋郷は、大原郡・出雲郡・神門郡の3郡の境界に位置しており、つまりは、杵築大社のある出雲郡との境(入口)を御門(みと)と表現したとする説です。

 

また、同じく「神の御門あり」と記された仁多郡御坂山は、吉備国(後に備後国に分かれた)との国境に位置します。

 

広く考えると、大国主命の神域との境という入り口を示しているという説です。

 

その入口の具体物が鳥居であったりすると①の鳥居説になります。

 

しかし、境というならば、出雲郡との境である神門郡や大原郡、国境である伯耆国との境界にも、御門という表現があってしかるべきですが、

 

『出雲国風土記』では三屋郷と仁多郡の御坂山の2か所しかないので、そこに説得性がないようにも思えます。

 

③神社、祭祀施設説

 

三屋神社、つまり大国主命を祭った神社そのものを御門という説です。

 

杵築大社自体は、『出雲国風土記』では、「宮」あるいは「社」と表現されています。だとしたら、なぜ「御門」という別の表現をしたのかという疑問が出てきます。

 

神社とは別の祭祀施設として、御門という祭祀施設があったとすれば、それも成り立つと思われます。

 

たとえば、吉備国や伯耆国との境に、イザナミ御陵という伝承地がいくつもありますが、そういう大国主命の御陵のようなものであったのかもしれません。

 

三屋神社の由緒を読むと、大国主命の宮居(御殿)であり、それが御陵でもあり、それが最終的に神社になったという三位一体の話のようにとれます。

 

由緒略記

 

当社は島根県飯石郡三刀屋町大宮給下宮谷に御鎮座の式内社であり、出雲風土記に御門屋社として神祇官に在りと記された古社である。

 

古来から郡内の筆頭に置かれ上下の崇敬を受け、累代の祀官は常に幣頭を勤めてきた家柄である。

 

社号の由来は所造天下大神大穴持命が八十神を出雲の青垣の内に置かじと詔うて追い払い給うてから此処に宮居を定め国土御経営の端緒を御開きになったので、その御魂が高天層に神留りましてから後出雲国造の祖先の出雲臣や神門臣等がこの地に大神の御陵を営み、また神社を創建してその御神地を定め神戸を置いて大神の宮の御料を調達することになったので、社号を大神の宮垣の御門としてその神戸とに因んで御門屋神社と号けたものである。

 

出雲国内に置いて大神の神地と神戸が風土記撰上当時に置かれた場所はこの地のみで他に一カ所もないのみならず神の御門と神戸とを社号とした神社が全国に他には一社もない事は特記に値することであり、この地が出雲文化の発祥の地である事は明らかである。

 

『出雲国風土記』で他に似たような箇所はないかと調べますと、神門郡朝山郷があります。

 

宇比多伎山。郡家の東南五里五十六歩の所にある。(大神の御屋である。

 

ここでの御屋(みや)=宮であり、朝山神社のある宇比多伎山そのものが神の宮だと、島根県古代文化センターの『解説出雲国風土記』の解説に書いてありました。

 

④出雲王朝の政庁説

 

「御門」を「ミト」と呼ばず、「ミカド」と呼び、朝廷のことと解釈し、御門を出雲王朝の政庁があったところと考えます。

 

地元出身の古代史研究家 樋口喜徳氏や安達巌氏がその説です。

 

たとえば『精選版 日本国語大辞典』で「神の御門」を調べると

 

かみ【神】 の 御門(みかど)

 

① 神殿の門。また、神殿。神のおいでになる所。

 

※古事記(712)中「伊勢の大御神の宮に参入りて、神朝廷(かみのみかど)を拝みて」

 

② 皇居。朝廷

 

※万葉(8C後)三・四四三「もののふと 言はるる人は すめろきの 神之御門(かみのみかど)に 外の重(へ)に 立ち候(さもら)ひ」 ( 『精選版 日本国語大辞典』 小学館)

 

確かに、神がいる神殿という意味と、朝廷の意味も出てきます。

 

松本古墳群 もとは三屋神社の鎮座地

 

三屋神社の裏手の高丸山への坂道を登っていくと、雲南地方では最大で、古墳時代初期の前方後方墳を含む『松本古墳群』の丘があります。

 

三屋神社の伝承によると、延喜以前は、松本1号墳の上に社殿があったといいます。

 

松本3号墳

 

 

坂を登ったところの最初に最大(全長52m)の松本3号墳があります。写真ではわかりづらいですが、道路に面したところに後方部があり、左手に前方部が伸びています。

 

バチ型の形状

 

この古墳は、前方部が三味線の撥(ばち)の形をしており、その形状から、島根県では最古の古墳とされています。発掘されてはいません。

 

前期古墳のバチ型の比較図(松江市鹿島町の名分丸山古墳群の説明版より)

 

 

松本1号墳

 

 

整備されて、形がよくわかる前方後方墳です。

 

全長約50m、後方部の幅25m、長さ28m、前方部の長さ22m、高さは後方部約6.5m、前方部約2.5m。

 

昭和37年(1962)に島根県教育委員会と三刀屋町教育委員会によって発掘調査されています。

 

墳丘には葺石は認められず、埋蔵施設は後方部に長さ約5.2mの箱形木棺、同4.7mの割竹形木棺各1基が、いずれも粘土で密閉された状態で発見されている。

 

箱形木棺から斜縁獣帯鏡1枚、刀子3本・小型剣形鉄製品1本・針7本・ガラス小玉54個が、割竹形木棺から鉄剣1本・碧玉製管玉1個が出土しています。

 

四隅に柱穴らしいものが認められ、喪屋用の建物跡ではないかと推察されています。

 

仮にここが神社跡であったとすると、御陵の喪屋から神社に発展したという話にも想像ができます。

 

松本2号墳

 

 

径15m、高さ3mの円墳です。墳丘の北側と東側の周囲には、現状で幅2.5m、深さ0.5mの周溝があります。

 

発掘調査は行われていません。墳丘の形や立地から、1、3号墳の後に作られたものと考えられています。

 

石碑があります。三屋神社跡というわけではないようです。

文政□年銘大仙智明権現 

と彫られています。

 

「智明権現」は、大山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神です。神仏分離・廃仏毀釈が行われる前は、大山寺から勧請されて全国的に祭られていたようです。

 

 

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