『出雲国風土記』には、さまざまな神に関連した山が書かれています。

 

島根県雲南市の高麻山(たかさやま)もその一つです。

 

 

青幡佐草日古命が麻を蒔いた高麻山

 

高麻山

 

 

『出雲国風土記』(733年)には、大原郡の山野の一つにこう書かれています。

 

高麻山(たかさやま)。

 

郡家の正北一十里二百歩の所にある。高さは一百丈、周りは五里ある。

 

北方に樫(かし)・椿(つばき)などの類があり、東と南と西の三方はみな野である。古老が伝えて言うには、神須佐能袁命(かんすさのおのみこと)の御子(みこ)の青幡佐草日古命(あおはたさくさひこのみこと)がこの山の上に麻(あさ)をお蒔きになった。

 

だから、高麻山という。この山の岑に鎮座していらっしゃるのは、その神の魂である。(島根県古代文化センター編 『解説 出雲国風土記』 今井出版)

 

青幡佐草日古命(あおはたさくさひこのみこと)が麻を蒔いたので、高麻山になったと云います。

 

神名の中の「幡」は、麻で機(はた)を織るから、幡(はた)になっていると思われます。

 

青幡佐草日古命とは?

 

須佐之男命と奇稲田姫命の子であり、『出雲国風土記』では、意宇郡の大草郷の起源にも登場する神です。

 

出雲大社の社家の佐草氏や八重垣神社の宮司家の先祖とされています。

 

青幡佐草日古命を祀る社はどこに?

 

神が鎮座している山(かんなびやま)の麓には、通常その神が祀られている神社があります。

 

しかし、見渡す限り、青幡佐草日古命を祀る神社がありません。

 

『大原郡案内』という大正5年の本に書いてありました。

 

山嶺に石造像を安置し高麻権現と尊称す古来年々祭祀を怠らす其の傍に小祠あり

 

祭神は青幡佐草日古命にして維新前迄は該山の北麓なる加茂村大字加茂中の地にありしを明治の聖代に至り此處に移せり

 

古来口碑の伝ふる所によれは此社は元と山嶺にありしを故ありて麓に移し勧請したるものなりと (『大原郡案内』 島根県大原郡 編)

 

登山者のブログを見るに、石像はあるようですが、祠は無くなった様子です。

 

寂しい限りです。

 

ところが、少し離れた加茂町の三代にある御代神社の境内で発見しました。

 

御代神社の高麻神社

 

御代神社境内社  高麻神社  島根県雲南市加茂町三代485番地

 

 

しかし、江戸時代中期の『雲陽誌』を読むと、先に述べた大東の高麻山ではなくて、加茂町三代の高塚山を高麻山としていることがわかります。高塚山は、通称三代大山だそうです。

 

ここにも、青幡佐草日古命を祀った神社がありました。それがこの高麻神社とのことです。

 

高麻山明神 里民高塚山といふ、【風土記】に高麻山あり古老伝曰神須佐能表命御子青幡佐草日古命此山に麻を蒔たまふ、故に高麻山といふ、

 

則佐草昭命をまつる槇の古木あり、是を社壇といふ、祭礼五月五日なり、山下に小川あり屋代川と号す、北になかれて簸川に入、(『雲陽誌』 大原郡三代)

 

あちこちに、麻を栽培した山があったのでしょうか。

 

幡屋神社(はたやじんじゃ)と忌部氏(いんべし)

 

高麻山のすぐ麓というわけではないですが、東北方向に幡屋神社があります。

 

幡屋神社元宮の大磐座 島根県雲南市大東町幡屋 

 

 

『神国島根』の由緒を見ると、中臣氏と並んで朝廷祭祀を担った古代豪族 忌部氏(いんべし)とのつながりが書かれています。

 

創立年代は不詳であるが、神代において、天孫瓊々藝尊の降臨の際、五伴緒の神の内、太玉命の率いられた後裔忌部氏の一族がこの幡屋(機殿とか幡箭とか書いた時がある。

出雲風土記には幡箭山と記されている)に止まって織布を職としていた。
(近くに高麻山があるー植麻した山)これが瓊々藝尊を斎い奉ったのがはじめであり、今日に至っている。

 

(社の近くに古機、御機谷、神機谷、広機、長機等の地名がいまもなお残っており、この神機谷に前記五伴緒の神を奉斎した五人若宮神社がある。)(『神国島根』 島根県神社庁 発行)

 

祭神は、青幡佐草日古命ではなく、瓊々藝尊(ににぎのみこと)ですが、随伴した忌部氏からの由来で書かれています。

 

そういえば、①麻を蒔く ②機を織る 二つの事柄から、忌部氏でも阿波忌部が想起されます。

 

『出雲国風土記』にみられる阿波忌部の影

 

阿波忌部とは

 

阿波忌部は、四国の徳島県の北部を中心とする粟国を開拓し、麻(あさ)や木綿(ゆう)を朝廷に納める役目を担っていました。

 

阿波忌部氏は、天日鷲神(あめのひわしのかみ)を祖神とした氏族です。

 

天日鷲神は「麻植(おえ)の神」とも呼ばれ、紡績業・製紙業の神となったので、その産業がある地域では神社の祭神になっている場合も多いと思います。

 

「安房国忌部家系」によると天日鷲神には三柱いるようです。

 

1)大麻比古命(亦の名を、津咋見命・津杭耳命)

 

2)天白羽鳥命(亦の名を、長白羽命)

 

3)天羽雷雄命(亦の名を、武羽槌命)

 

とりわけ、大麻比古命(おおあさひこのみこと)が、天日鷲神と共に阿波忌部氏の祖と言われています。

 

船岡山と船林神社

 

『出雲国風土記』に阿波から来た神様が書かれた個所が2か所あります。

 

船岡山 雲南市大東町北村
まるで古墳のようにも見える整った山です。

 

 

船岡山(ふなおかやま)。

 

郡家の東北一十六里の所にある。阿波枳閇委奈佐比古命(あわきへわなさひこのみこと)が曳いてきて据えられた船が、この山である。

 

だから、船岡という。(島根県古代文化センター編 『解説 出雲国風土記』 今井出版)

 

阿波枳閇委奈佐比古命(あわきへわなさひこのみこと)とは

 

阿波から来て和名佐(松江市宍道町上来待和名佐)に鎮座した神と考えられています。

 

船林神社   島根県雲南市大東町北村18番地

 

船岡山の一番奥に鎮座しています。祭神は、阿波枳閇委奈佐比古命

 

 

来待川の上流であり、『出雲国風土記』にも山の名前の記述があります。

 

来待(きまち)川。

 

源は郡家の正西二十八里の和奈佐山(わなさやま)から出て、西に流れて山田村(やまだむら)に至り、さらに折れて北に流れて入海に入る。(年魚がいる。)(島根県古代文化センター編 『解説 出雲国風土記』 今井出版)

 

玉造の大谷の近接地域です。玉造忌部とも何か関係があるのでしょうか。

 

徳島県の和奈佐意富曾神社(わなさおうそじんじゃ)との関連性が言われています。

 

祭神は諸説ありますが、大麻比古神の説も有力です。もしかすると、阿波忌部がいたのかもしれません。

 

海部氏との関連も云われていますので、船で来たという意味は、そこを表現しているのかもしれません。

 

青(あを)と阿波(あは)は、通じる?

 

『出雲国風土記』にも、阿波忌部が関係するような記事があることがわかりました。

 

そうなってくると、青幡佐草日古命の神名と阿波忌部になにか関係があるのではと思いました。

 

青幡佐草日古命の「青」ですが、単純に麻や草は、青いからと考えてしまいます。

 

(奈良時代には、緑色がなかったそうです。黒と白の中間色を総じて、青と言ったそうです。)

 

しかしながら、奈良時代は漢字そのものが当て字だったわけです。

 

だから、青の漢字の意味から考えるのは妥当ではありません。

 

民俗学者 谷川健一氏は、『列島縦断 地名逍遥』のなかで、三重県の青峯山の記事で、「青」は、「粟島(あはしま)神戸」から、転化したのではないかと考察しています。

 

以上を考察すれば、記録の上では青という地名より粟島のほうが先行することは明らかである。だが、粟から青へと変わったとは単純には考えられない。地元の漁民が青と呼んでいたのを文書には粟島と記したかも知れないということもある。

 

青と粟は通音である。(谷川健一 著 『列島縦断 地名逍遥』 青の峯─全国漁民信仰の山 より)

 

島根県にも、そういう例はあります。

 

奈良時代は「粟島」(島根県松江市美保関町雲津)であった地名が、現代は「青島」となっているように、そういうことは確かにあります。

 

現代の青島と呼ばれている所16例のうち、過去 淡島または粟島と呼んでいたのは3か所もあるそうです。(筒井 功 『縄文語への道} 河出書房新社)

 

なぜに、粟あるいは淡が青に転化したのでしょうか。

 

阿波は、粟

 

なお、「阿波国」の以前の表記は「粟国」でした。

 

阿波忌部の「阿波」と「粟」・「淡」も同じ読みで、古語辞典で調べると、「あは」です。「あわ」で調べると、「泡」しか出てきません。

 

阿波(あは)から青(あを)へ

 

筒井 功氏によると、(2段階に踏まえないとわかりにくいです。)

いま、青はふつうアオと表記している。これが歴史的仮名遣い(古文献を基準にした仮名表記)ではアヲであった。現代人は、もうア行のオとワ行のヲを区別しなくなった、というよりできなくなっている。

 

しかし、平安時代ごろまでは明確に使い分けていて、ヲは「ウォ」といった感じの音であった。そうして、その前にはアヲはアフォと発音していた。アフォがアヲに変化したのである。

 

このファ行(現今のハ行)の音をワ行の音で発音するようになった現象を「ファ(行)転呼」と称している。今日で、「わたしは近く北海道へ行く予定です」の「は」をワ、「へ」をエと発音しているのは、その名残りである。

 

アフォは奈良時以前には、アポであった可能性が高いとされている。(筒井 功 『縄文語への道}

 

アポ⇒アフォ⇒アヲ⇒アオと発声が変化してきたということらしいです。

 

古くはアオはアフォ、アワはアファであり、第二音節の母音が交替しているにすぎない。既述のように、母音の交替は日本語に広く見られる音韻通則の一つである。(筒井 功 『縄文語への道}

 

アファ⇒アフォ、あるいは、アフォ⇒アファと転化するのは自然であるということです。

 

以上踏まえると、青幡佐草日古命の呼び名も、以前は、「粟」「阿波」と呼ばれていた可能性も全くないわけでもなさそうです。

 

また粟は、少名彦根命が、常世の世界に消えて行ったという話に登場してきますので、粟=阿波が地名以前に古代祭祀に関係した言葉だった可能性もあると思います。

 

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