吉備津神社 岡山県岡山市北区吉備津931
主祭神 大吉備津彦大神

温羅は出雲族と書くと、「温羅は百済の鬼で出雲族じゃないわ!」という批判の声が聞こえてきそうですが、温羅の鬼退治神話は、後世に創られた物語であり、史実というには疑わしいです。
さて、一般に「出雲王国」といえば、島根県東部――出雲市や松江市・安来市あたりの地域を思い浮かべる人が多いでしょう。またある人は、四隅突出型墳丘墓の分布をもって、出雲王国は日本海沿岸部をイメージするのでしょう。
しかし、『古事記』や『日本書紀』に描かれる「出雲王国」つまりは「葦原の中津国」は、それほど狭い範囲を指してはいません。
大国主命(大穴牟遅神)が統治したとされる「葦原の中つ国」は、日本列島の広い範囲に及び、山陰から山陽や近畿地方、さらには九州地方にまで出雲族の影響が広がっていた可能性があります。
つまり、「出雲族」とは、島根県東部だけに住んだ血族ではなく、弥生時代から古墳時代の初期にかけて日本各地に分布した宗教的な共同体だったとも考えられます。
だから、吉備の国(現在の岡山県や広島県東部)に出雲族がいるのは当然のことと言えるでしょう。
吉備王国の起源 「倭国大乱」時代
『古事記』の記載 吉備国の平定
『古事記』に記述される7代天皇 孝霊天皇の御子たちの系図

※この系図には入れてはいませんが、孝霊天皇の兄に「大吉備諸進命」(おおきびもろずみのみこと)がいます。
また、吉備とは直接関係ありませんが、「日子寤間命(ひこさめまのみこと)」(『日本書紀』では彦狭島命)は、伯耆国の鬼退治で、孝霊天皇とともに活躍します。)
まず吉備国の起源を考えてみましょう。
『古事記』には第7代の天皇である孝霊天皇の御子の「彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)」(大吉備津彦命)と「若(日子)建吉備日子命(わかひこたけきびつひこのみこと)」(若建吉備津日子)が吉備地方に派遣され平定したと書かれています。
大吉備津彦の命と若建吉備津日子とは、二柱相副ひて、※針間の氷川の前に※忌瓮を居ゑて、※針間を道の口として、吉備国を言向け和したまひき。
『古事記』倉野憲司 校注
※針間…播磨の国(兵庫県) ※忌瓮を居ゑて…正常な瓶を置いて神を祭り行旅の無事を祈って。
※針間を道の口として、吉備国を言向け和したひき…播磨の国を道の入り口として吉備の国を平定された。
その「忌瓮を居ゑて」いた場所は、兵庫県加古川駅前にある播州信用金庫のあるところだといわれてきました。(そこには昭和46年6月まで居屋河原神社、通称大鳥居神社がありましたが、現在は日岡神社に境内に移されています。)
しかし、「吉備国の平定」とありますが、吉備の兄弟が来る前は、だれが治めていたのでしょうか?古事記にはそのことは全く描かれていません。入口の播磨国の風土記には、出雲の葦原志許乎命(大己貴神の別称)の神話や天日槍命と出雲神の争いが描かれている所を見ると、出雲族が治めていたと考えられます。
『日本書紀』の記載 【四道将軍の派遣と出雲神宝問題】
『日本書紀』にも、孝霊天皇の御子が名前の表現が微妙に違うものの、ほぼ『古事記』と同じように書かれています。
しかし、吉備津兄弟(彦五十狭芹彦命・稚武彦命)の吉備地方の派遣のことは書かれていません。(稚武彦命=若(日子)建吉備日子命とされる。)
吉備津彦命はだれか
吉備津彦神社 岡山県岡山市北区一宮1043
主祭神 大吉備津彦大神

『日本書紀』に書かれているのは、第10代目の崇神天皇の項で、四道将軍のひとりで「吉備津彦」が登場します。
四道将軍
九月九日、大彦命を北陸に、武淳河別を東海に、吉備津彦を西海に、丹波道主命を丹波に遣わされた。詔して「もし教えに従わない者があれば兵を以て討て」といわれた。それぞれ印綬を授かって将軍となった。
全現代語訳『日本書紀(上)』 宇治谷 孟 講談社学術文庫
『古事記』では、武淳河別も吉備津彦も皇族として描かれているのに、なぜだか「命」(みこと)の称号がはずされています。
吉備津彦はいったいだれかということですが、兄の「大吉備津彦」なのか、異母兄弟の弟の「稚武彦命」なのか、歴史や神社伝承の世界でも、はっきりしません。また二人を合せて、吉備津彦命なのか、あるいは、子も含めて言った象徴の名前なのかもしれません。
吉備の出雲攻めとして解釈される出雲神宝事件
神宝
六十年七月十四日、群臣に詔して「武日照命の、天から持って来られた神宝を、出雲大神の宮に収めてあるのだがこれを見たい」といわれた。矢田部造の先祖の武諸隅を遣わして奉らせた。この時出雲臣の先祖の出雲振根が神宝を管理していた。・・・中略・・・ここに甘美韓日狭・鸕濡淳は朝廷に参って、詳しくその様子を報告した。
全現代語訳『日本書紀(上)』 宇治谷 孟 講談社学術文庫
そこで吉備津彦と武淳河別とを遣わして、出雲振根を殺させた。
ここに登場する出雲大神の宮は、よく出雲大社(杵築大社)として解釈され、吉備国の出雲への侵攻と解釈されることが多いです。しかし、出雲地方の伝承地は、出雲大社というよりは、雲南市三刀屋町や加茂町が舞台地です。「出雲大神の宮」とは出雲大社ではなく、三屋神社か神原神社の辺りだったのかもしれません。
詳しくは → 出雲振根命と神宝事件
鬼神「百済の温羅」の前は、新羅の国王だった
鬼退治伝承で残っている最も古い文書は、『備中国吉備津宮勧進帳』(1583年)だそうで、それによると鬼神の名前は、温羅ではなくて「冠者」であり、最初の方では「異国の国王」とされ、中ほどでお釜殿の釜主は、「古代新羅国の国王」となっているそうです。
「冠者」は、お釜の下に埋められるのではなくて、改心して一宮彦命(吉備津彦命)に自分の名前を譲り、御釜殿の精霊となって吉備統治に協力したことになったのです。
「新羅」と聞けば、『日本書紀』に書かれた新羅国の皇子 天日槍命(アメノヒボコ)が思い浮かびます。(時代から考えると「新羅」ではなく「辰韓」だと思います。)
天日槍命を祀る 出石神社 兵庫県豊岡市出石町宮内99−99

渡来した天日槍命は、『播磨国風土記』では、播磨の国を治めていた葦原志許乎命(大国主命)との戦争の事が書かれています。
鬼神は、天日槍命だったのでは?と、考えてしまいがちですが、『日本書紀』垂仁天皇の項に書かれた天日槍命の縁のある場所から推察すると、拠点は但馬~播磨国であり、吉備国と最も近いのは淡路島ぐらいで、吉備国とは縁がなそそうです。
そこで天皇は播磨国宍粟邑と淡路島出浅邑の2邑に天日槍の居住を許したが、天日槍は諸国を遍歴し適地を探すことを願ったので、これを許した。そこで天日槍は、菟道河(宇治川)を遡って近江国吾名邑にしばらくいたのち、近江から若狭国を経て但馬国に至って居住した。
『日本書紀』垂仁天皇の項
『吉備国風土記』は現存しないので、だれが国を治めていたかわかりませんが、葦原の中津国を大国主命が治めていたので、出雲族がもともとは住んでいたのでしょう。
初代の吉備王はだれか? もともと吉備族は出雲族の親戚
吉備王の墓とされる楯築墳丘墓(2世紀後半)の墳頂 岡山県倉敷市矢部

出雲VSヤマト王権みたいに考える歴史家が多いですが、『古事記』や『日本書紀』をよく読むと、出雲族が初期ヤマト王権をいっしょに作ったとしか思えません。はあ?と思う方は、こちら→ 初期ヤマト王権と出雲族
この理屈からすると第7代孝霊天皇や吉備津彦命にも出雲族(事代主神の)の血が流れているということになります。
ただ、第8代天皇の時代は、「欠史八代」と言って巨大な前方後円墳もない時代であり、史実ではない、10代崇神天皇の古墳時代の幕開けを持ってヤマト王権というのが古代史界の解釈です。
さて、初代の吉備王がだれなのかということですが、『古事記』や『日本書紀』の文面からすると、孝霊天皇の皇子の「彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)」と「若(日子)建吉備日子命(わかひこたけきびつひこのみこと)」のどちらかということになります。
しかし、伯耆国(鳥取県西部)の神社伝承でも、孝霊天皇自らが、皇子の歯黒王子(彦狭島命)や鶯王と共に戦い鬼退治を果たしたとあります。(詳しくは 孝霊天皇の鬼退治 )
だから、先の吉備津兄弟だけではなく、孝霊天皇も一緒に大和から侵攻したと考えられ、初代の吉備王が孝霊天皇だった可能性もあります。
それを裏づけるように鳥取県西部や広島県府中市には、孝霊天皇のお墓の伝承地があります。
孝霊天皇の陵墓がある樂樂福神社(ささふくじんじゃ) 鳥取県西伯郡伯耆町宮原225

『古事記』や『日本書紀』は、天皇が直接戦場におもむくのを記述するのは、はばかる傾向があるので、実際大和で命令を発していただけではないと思われます。(第12代の景行天皇が九州に征伐にでかけたことを考えると吉備地方や伯耆地方ははるかに近い。)
しかし、楯築墳丘墓を吉備王とすると年代(弥生時代後期)から考えれば、孝霊天皇や吉備津彦兄弟よりもちょっと前の時代にも吉備王がいた可能性も考えられます。吉備の中山の大吉備津彦命の陵墓とされている中山茶臼山古墳(4世紀前半)と楯築墳丘墓(2世紀後半)との時代を比べると100年以上の開きがあります。
吉備王の墓・楯築墳丘墓等と出雲王の墓・西谷墳丘墓
古墳時代の幕開けに影響を与えたと言われる弥生時代の後期の岡山県の楯築墳丘墓と島根県の西谷墳丘墓です。
どこが影響を与えたというのでしょうか。
弥生時代のお墓といいますと、方形周溝墓という平面に溝を掘り、長方形のお墓が圧倒的です。
その大きさは、ほとんど小さい物です。それが突如として、弥生時代の後期になると、島根県東部と岡山県南部に、大型の墳丘墓が出現したのです。(古さで言うと弥生時代中期前半から中頃と言われる、北九州の吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓〈約40m、東西約27m以上の長方形〉があります。)
西谷墳丘墓
西谷3号墓 西谷墳墓群の中で最初の王墓。
弥生時代後期後葉 突出部を含めた大きさは 約55m×40m、高さ4.5m

近畿地方や岡山県の古墳の大きさと比べて「ちっちゃいなあ」という観光客が多いですが、古墳時代の古墳と比べてみても意味がありません。
長方形の四隅が出っ張って舌状になっています。この四隅は、通説では方形周溝墓の陸橋が発展した墓道であり、これが前方後円(方)墳の前方部になったとされています。さて、どうなんでしょう。
なぜならば、山陰の四隅突出墳丘墓には、北陸系のものと違い、周囲に溝はありません。(白いところは溝ではなく、見学者用の歩道です。)
四隅突出墳丘墓は、中国山地(三次・美作)や島根県東部~北陸までの日本海側に分布しますが、この3号墓では、山陽の吉備系の土器も発掘され、吉備地方との交流が伺われます。
この頃は、まだお互いが王として力を認め合っていた時代でしょう。
しかし、戦争の時代に備えて、力を持った王の存在を求めたのかもしれません。
吉備の土器 出雲弥生の森博物館展示物

楯築墳丘墓や鯉喰神社墳丘墓など

楯築墳丘墓は、出雲市の西谷3号墓と同じ時代の墓です。この墳丘墓は、全長は推定83メートル、直径約49メートルの円に方形の突出墓をもつ(双方中円形と呼ばれる)、弥生時代では最大のお墓です。
しかし、なぜに方形周溝墓が畿内も含めて全盛の時代になぜに「円の形」が選択されたのでしょうか。
この形から、古墳時代の前方後円墳の原型とも言われています。この二つの突出部が墳丘につながる通路であったものが、前方後円墳の前方部になったとされています。
また、吉備地方独特の特殊器台(古墳時代の円筒埴輪の原型と言われる)や「亀石」と呼ばれる「弧帯文石」という不思議な石なども出土しています。
楯築墳丘墓の出土した弧帯文石のレプリカ 出雲弥生の森博物館展示物

※ この遺跡のそばの収蔵庫に収められた、楯築神社の代々伝承された弧帯文石と楯築墳丘墓で出土した弧帯文石の2種類ある。
円形墳丘墓が弥生時代の後期になって巨大化ともいえる形ですが、それ以前の円形墳丘墓は、播磨・吉備・讃岐・阿波の瀬戸内沿岸に中心に分布します(鹿児島県の大隅半島にも)が、どういう系譜によりそういう形を選択したのかその氏族系譜に興味があるところです。しかし、それも方形墳丘墓と共存状態です。
中国の後漢の円墳の影響があったかどうかわかりませんが、北部九州ではなくて、なぜ瀬戸内沿岸なのでしょう。
さて、楯築墳丘墓のやや後の時代の鯉喰神社墳丘墓ですが、ここも弧帯文石が出土しています。(今のところ2つの墳丘墓しか出土していない)東西約40m、南北約32mの長方形の墳丘です。
しかし、ここでは円の墳丘墓が採用されず、長方形の墳丘墓が採用されました。土器の統一性はあるもののお墓の形は統一されていなかったのか、さまざまな氏族系譜を反映したのかわかりません。
鯉喰神社墳丘墓 岡山県倉敷市矢部109
墳丘墓の上に鯉喰神社があります。

吉備津彦命の出雲地方の侵入
弥生時代後期には、いまだ交流があった出雲地方と吉備地方ですが、吉備津彦兄弟が、吉備に派遣されてから雲行きが変わります。吉備を平定した後、出雲地方に攻めてきたのです。
吉備系土器の出土分布から、出雲地方への経路は、岡山県の足守川→高梁川→鳥取県の日野川→宍道湖ではないかと言われています。
しかし、神社の祭神分布や伝承からすると、日野川の上流域から西に折れ、奥出雲に入り、旧飯石郡内から南下、斐伊川沿いを下ったと考えられています。
この事柄が、旧島根県史(大正10~15年)にまとまって載っていました。
国立国会図書館デジタルコレクションで読めます。→ 島根県史 3
あくまで吉備津彦命を祭神とする神社の分布と伝承からの推察です。
経路 先ず吉備津彦命の経路と認むべきは備中より伯耆を経て
能義郡に入り比田地方を過ぎて仁多郡を横切り肥ノ川流地を従えて
『島根県史3』 島根県内務部島根県史編纂掛 編 大正10-15
飯石郡田井に出て此処より飯石川上流地方なる多久和を経て飯石川に沿うて下り粟谷に出で
三刀屋川の流域を流に沿うて下り肥ノ川畔に達し求院に出で沖州原鹿の地方を平定し
名島を経て出雲振根征討の事に従ひしものの如し或は以上の順序を逆に出雲地方より‥‥以下略…
地図でまとめるとこのようになります。
伯耆国の日野川流域の樂樂福神社(日南町宮内、印賀)の2社を島根県史の記載場所に加えています。
吉備津彦命を祭神とする神社や伝承地のGoogleマップ

比田地方
まずは、印賀の方から比田の地域に入り、奥出雲方面(西側)に向かったと思われます。
比田地方には、主祭神:吉備津彦命・吉備津姫命の比太神社があります。伊弉冊尊の御墓山がすぐ近くです。
吉備津彦命の侵入と、伊弉冉尊の陵墓とは深い関係があるような気がしてなりません。
比太神社 島根県安来市広瀬町西比田2452番地

吉備津彦命が顕現し、吉備津彦命信仰が濃厚な地域 飯石郡
なお飯石郡は、前の郡名で現在は雲南市に併合されています。
横切った奥出雲地方には残念ながら吉備津彦命の伝承はありません。
しかし、素戔嗚命が降臨伝説のある鳥髪山やイソタケルミコトを祀る鬼神神社もあり、あのヤマタノオロチ退治の神話も吉備津彦命の出雲平定が原型であったかもしれません。
矢入大滝 島根県雲南市吉田町曽木

伝承では、矢入大滝(やにゅうおおたき)に吉備津彦命が顕現し、その神霊を祭った上神社は、出雲地方で吉備津彦命を祀った最初の神社だといいます。
此の地は、吉備津彦命の現出の地と伝えられ、伝記(出雲風土記)及神社棟札によると、
『ふるさと田井の伝承』(吉田村田井公民館 男性講座「男々塾」編集 発行 吉田村田井公民館
吉備津彦命は、備中の国加陽郡より出雲国多位郷に遷座せしとあり、当時祭典は十月十三日、上岡、櫻屋の両家が隔年に当屋となって行われていた。
「上岡」は柄桶氏(現在川角氏)「櫻屋」は糸原氏(現在は草光氏)此の両名は備中国己頼(みより)の人也り、両名御神体を奉じこの地に移住せりと言う。
飯石川の上流に位置する託和神社は、吉備津彦命を祭神としています。中野、六重、神代、深野、上山、曽木、川手七ケ村の惣社だったそうで、明治四十四年十月、飯石神社境内に遷座されたものだそうです。
託和神社 飯石神社境内社 島根県雲南市三刀屋町多久和1065

中野、六重、神代、深野、上山、曽木、川手七ケ村の惣社だったもので、明治四十四年十月、境内に遷座されたものだそうです。飯石郡の中でも、飯石川流域だったと思われます。
吉備津彦命が誅殺した出雲振根命の拠点は、三屋神社だった?
吉備津彦命が出雲振根命をうかがったという天辺

粟谷神社(島根県雲南市三刀屋町粟谷949番地)の由緒によりますと、この天辺という小山から、吉備津彦命は出雲振根命の動向を窺ったようです。
崇神天皇の古代に出雲振根が朝廷の命に背いたので四道将軍吉備津彦命が勅命を奉じ、之を鎮めるために出雲に降られた。備後道から仁多郡を経てこの地にご滞在になり振根の動静をうかがわれたと記されています。
粟谷神社 ご由緒 抜粋
後、この遺跡に人々が命の遺徳を偲び宮を建立したのが、粟谷神社です。
往古の社域は現在地の西方約100米の天辺という丸い小山の上にありましたが、明和年間火難に遭い、文化十二年現在地に移遷されました。
この場所から眺めるとしたら、出雲大社ではなく三屋神社方面となります。
三屋神社は、神門臣の拠点であったらしいと思われます。→ 【三屋(みとや)神社の謎】出雲大社の元宮?大国主命の政庁?御陵?
加茂岩倉遺跡の発見以降、出雲振根が朝廷に献上したのを怒った神宝とは、青銅器だったのではないかという説がありますが、弥生時代から古墳時代にかけての時代からすると、鏡と刀剣の可能性が高いと思われます。それは、西谷3号墳丘墓の時代には、青銅器祭祀はすでに終わっていたからです。
※出雲神宝事件については、こちら → 出雲振根命と神宝事件
前方後方墳は、出雲族の墳形
松本古墳群 三屋神社の伝承では、神社は古墳上にあったそうです。右手の松本3号墳は、墳長52m 左手の松本1号墳は墳長50mで、双方ともバチ型の前方部をもつ古墳時代初期の前方後方墳

三屋神社の伝承では、延喜以前は、松本1号墳の上に三屋神社の社殿があったそうです。
出雲地方では、古墳時代に突入すると、弥生時代の四隅突出墳丘墓は全く作られなくなり、墳丘の大きさは違いますが、ヤマト王権の統一設計の下で前方後方墳や方墳をつくることになりました。
松本1号墳や3号墳以外の前方後方墳には、宍道湖北部の「名分丸山1号墳(松江市鹿島町)」、「平廻古墳(松江市大野町)」があります。
島根県東部(出雲地方)では、古墳時代初期には、方墳や前方後方墳しか造られません。
関東の豪族たちも、前方後方墳ばかり築造したことも考えると、方墳や前方後方墳は、出雲族の系統のものだろうと考えてしまいます。
方形=出雲族 円形=天神という「天神地祇」の末裔の氏族の分類は、持統天皇の頃と考えていましたが、古墳出現期にはすでにあったのだと考えざるを得ません。
この松本1号墳、3号墳を現地の出雲族ではなくて、進駐した吉備津彦命側の墳墓であるという説もありました。その理由は、岡山の湯迫にある備前車塚古墳(銅鏡が13枚も発掘された)に形状が似ていること等です。

吉備地方の影響は多分あったのだろうと思いますが、その説を立てた門脇禎二氏も現在は否定されています。
さらに、松本1号墳の被葬者は、おそらくキビ王国の王が派遣した進駐した勢力の将軍であろう、とも記した。・・・中略・・・しかしながら、現在では、両古墳の近くにはそれぞれに関連すると思われる先行する古墳群の存在も知られてきたという。当然、やはり現地に成長した首長が被葬者とみるべきであろう。
門脇禎二 著 『古代出雲』 講談社学術文庫
しかし、吉備国の中にも、出雲族はいるだろうし、さらには吉備津彦命の家来となって、出雲地方に侵攻した者もいたでしょう。
出雲地方での吉備族の足跡 加夜(かや)
さて、奈良時代の『出雲国大税賑給歴名帳』(天平11年─739年)の氏族分布から見ますと、斐川平野に吉備津彦命を祀る神社が多くあるものの、斐川平野(出雲郡)ではなくて、神門郡(出雲郡よりも西部)の多伎郷を中心に分布しています。(多伎郷には、吉備部臣五戸、日置郷に吉備部臣一戸など)
多伎郷の地名起源は、所造天下大神(大国主命)の子、阿陀加夜努志多伎吉比売命に由来しています。
詳しくは→ 阿陀加夜努志多伎吉比売命は、下照姫命か?
この神名の「阿陀加夜努志」の「加夜」(かや)と吉備津神社の祭祀を最初担ったとされる加夜臣奈留美命(かやおみなるみのみこと)との関連がよく言われています。
加夜臣奈留美命とは?
吉備津神社の伝承では、吉備津神社創建の起源の一つに、吉備津彦命から五代目の孫にあたる加夜臣奈留美命(カヤオミナルミノミコト)が、吉備の中山の麓の茅葦宮という斎殿の跡に社を建立し、祖神である吉備津彦命を祀ったの始まりというものがあります。
また、吉備津神社の社家は、古くから古代豪族 賀陽氏が代々務めてました。賀陽氏は、孝安天皇の皇子大吉備諸道命の後裔にあたる仲彦命が賀夜国造となり、さらにその子孫の高室のとき賀陽臣をたまわり、高室は吉備津神社に奉仕したといいます。しかし、天正2年(1574年)に絶家し現在は、吉備津神社の社家ではありません。
また、神門郡多伎郷の他には、神門郡朝山郷の稗原里、加夜里には、吉備部(吉備国に由来する部民)の人たちが多数住んでいました。
市森神社 島根県出雲市稗原町2571番地
祭神 阿陀加夜努志多伎吉比売命(あだかやぬしたききひめ)

神門郡朝山郷稗原里
吉備部刀良
同 部加和賣
吉備部和和食賣
吉備部依賣
吉備部得賣神門郡朝山郷加夜里
戸主 吉備部宇弖
正倉院文書 天平十一年『出雲国大税賑給歴名帳』
吉備部刀良
賀夜奈流美命と吉備族との関係
さて、吉備津彦命の末裔で吉備津神社を創始した「加夜臣奈留美命」に似た名前で、『出雲国造神賀詞』(いずものくにのみやつこのかんよごと)に登場する、事代主命や味鋤高彦根命と共にヤマトの皇室を守るや出雲神の一柱である賀夜奈流美命(かやなるみのみこと)が登場します。
『出雲国造神賀詞』では「飛鳥の甘奈備に鎮座」とあるように、奈良の飛鳥の神であり、飛鳥坐神社などの祭神です。
当然ながら加夜臣奈留美命=賀夜奈流美命ではありませんし、記紀神話に登場しない神ですので、様々に解釈されますが主に3つの説があります。
当然ながら「かや」つながりで、賀夜奈流美命=阿陀加夜努志多伎吉比売命ということも想起されます。
①高照光姫命 「大神分身類社鈔」(1186年)に書かれている。つまり大神神社では、高照光姫命。
②鳥鳴海神 大国主命と鳥取神の間の御子。(古事記)
③下照姫命 大国主命と多紀理毘売命の間の御子。
仮に①の高照光姫命だとすると、賀夜奈流美命は古代豪族 尾張氏の母祖でもあり、出雲口伝(富家伝承)だとさらに初期ヤマト王権(古墳時代よりも前の)の母祖神になります。
高照光姫命は、大己貴神と多岐津姫命との間の御子(『海部氏勘注系図』)で、記紀神話には登場しません。
詳しくは→ 高照姫命と出雲族
さて、吉備族との関係ですが、吉備津彦命は第7代孝霊天皇の皇子なので、初期ヤマト王権の母祖 賀夜奈流美命を奉斎することになんの矛盾もありません。
また、言葉を変えるならば、吉備族は出雲族と全く血縁関係が無いわけではなく、同一神を奉斎していた親族同士だったということになります。
参考文献
【書名のリンクは、Amazonの書籍に飛びます。】
