出雲市西林木町の伊努神社が「西の宮」と呼ばれるのに対し、都我利神社は、東林木町のに対し「東の宮」と言われています。この都我利神社は、阿遅鉏高彦根命(あぢすきたかひこね)を祭神としていますが、祭神については様々な説があります。
それでは、都我利神社の祭神のいくつかの説について紹介しましょう。
都我利神社 島根県出雲市東林木町672

都我利つがり神社とはどんな神社?
『出雲国風土記』や『延喜式神名帳』に載っている古社
〇『出雲国風土記』(733年)では、神祇官社7つの伊努いぬ社・伊農いぬ社(字が違っていても意味は同じ)の一つだと考えられている。
〇元々は、赤衾伊努意保須美比古佐和気能命(あかふすまいぬおほすみひこさわけのみこと)をまつっていたのか(この祭神については、赤衾伊努意保須美比古佐和気能命と朝村権現)、それとも地名の伊努郷の神社を表しているものか不明
〇『延喜式神名帳』(927年)においては、都我利神社として記載されている。
出雲国風土記時代のイヌ社(伊努社・伊農社)が、いくつかの式内社を発生したとされている。
イヌ社(伊努社・伊農社)⇒ 【延喜式神名帳】都我利神社・伊佐波神社・伊努神社・同社神魂伊豆乃売神社・同社神魂神社・同社比古佐和気神社・意布伎神社
※「同社」を境内社とする説も強いが、そうではないとする説もある。ちなみに、同社比古佐和気神社の比定社は朝村権現で、山の頂上近くにあり、境内社ではない。
江戸時代には八王子大明神であり、阿遅鉏高彦根命がすでに祭神だった
〇天和3年(1683年)の『出雲風土記鈔』に「八租父大明神」との名前が登場。それがどの式内社かは不明。
〇寛永2年(1705年)の『神社書出帳控』に「楯縫郡東林木村都我利神社、神明帳在出雲郡都我利神社 此社也。一八王子大明神、味耜高彦根尊」と書かれていた。
〇享保2年(1717年)の『雲陽誌』に八王子(大明神)が、式内社 都我神社であることが書かれた。👉後で詳しく述べます。
〇『延喜式神名帳』の伊佐波神社が明治41年に合祀されている。(元の鎮座地は、青木遺跡の所)
〇いつ遷座して、現在のところに都我利神社が建てられたか不明ですが、現在の神社の後ろの山(蜂塚山か)に神社跡があるようです。
都我利神社と背後の山

『雲陽誌』に書かれた都我利神社
八王子 味耜高彦根神をまつる、【延喜式】に都我利神社といふは斯社の事なり、本社八尺に九尺南向、拝殿二間に三間、祭祀四月十四日八月十四日神事あり、西の方に的場あり、此處にて百手の的ありたりといひ傳れとも、慶長の比よりその事たへて今はなし、
當社の縁起なりと傳るをみるに、白雉三年壬子四月朔日此社に勧請したり八王子と称するは五男三女なり、或書には都我利神社とあり、其神二座味耜高彦根神と彦根の神の持たまへる剣をあはせまつるといへり、
【神代巻】に天稚彦己に死したまひたるとき、味耜高彦根の神天に昇て喪を弔彦根の神の容貌天雅彦のいける時に似たるゆえに、天雅彦の親属妻子皆吾君在とて衣帯に攣牽且喜且慟、時に彦根の神忿て曰朋友の道理宣相弔に汚穢を不憚哀て我を亡者に誤といひて其帯ける剣を抜て喪屋を斫仆たまふ剣なり、我里と云又は神戸の剣ともいふ、
【天書】に都我利といふ故に社の号とはなるなり、此神武威あるゆへに大己貴命霊剣を授たふといへり、郡郷山河原野に至るまで悉平治し、春の耕夏の耘り(くさぎり)を教たまう、故に味耜高彦根の神とは申なり。社司の傳に此神は大己貴命の第八の御子なるゆへに、八王子大明神と申たてまつるなり、
『雲陽誌』
現代語にして、ポイントだけ書きます。
八王子大明神は、白雉三年(652)四月の勧請。
かなり古いですが、どこから勧請したのでしょう。
八王子と称するのは、①五男三女だから。②阿遅鉏高彦根命は、大己貴命の8番めの王子のため。
この神社は、「阿遅志貴高彦根命」と「阿遅志貴高彦根命の持つ剣」を合せまつる。
天稚彦が死んだとき、天に昇ってきた味耜高彦根命が弔いに訪れた。その姿が天稚彦に瓜二つだったため、天稚彦の親族に生き返ったと勘違いされた。間違われた味耜高彦根命は怒って、腰の剣で天稚彦の喪屋(もや)を切り伏せた。
この剣が「我里(がり)」または「神戸(かむど)の剣」という。この「我里」が「都我利」の社号となった。
続く