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【出雲口伝】ホムチワケ伝承と沙穂彦一族をかくまった神門臣

多数のYOUTUBEでは、「富家伝承」のことを「出雲口伝」と言っていますので、出雲口伝と書くことにします。
『古事記』や『日本書紀』に書かれる話とは、登場人物が同じながら、出雲口伝では全く違うストーリーがあって驚きます。垂仁天皇の物言わぬ皇子ホムチワケ伝承の話もそのうちのひとつです。

『古事記』のホムチワケ伝承をおおざっぱに書きますと、

垂仁天皇による沙本毘古王さほびこのおう(沙穂彦王)の討伐 ─ 沙本毘売命(狭穂姫命)のホムチワケ皇子を火中出産 ─ 出雲大神の祟りでホムチワケ皇子がしゃべれない ─ 垂仁天皇は、山辺之大鶙やまのべ の おおたかに命じて白鳥を様々な国をめぐり追いかけ捕まえさせた ─ 曙立王と菟上王をお供にホムチワケ皇子は出雲の國へ ─ ホムチワケ皇子は、「もしかすると出雲の石硐(いわくま)の曽宮にいらっしゃる、葦原色許男大神を奉斎する祭場だろうか。」と初めて言われる ─ ホムチワケ皇子は、出雲の肥長比売と一夜をともにしたが、蛇の化身であったため、驚いて大和に逃げ帰る ─ 垂仁天皇は、菟上王を再び出雲に派遣して神の宮を建てた という流れです。

八束水臣津命の御子 赤衾伊農意保須美比古佐和気能命を祀る朝村権現の石灯籠
鼻高山に連なる山々や麓には神門臣系の神々の神社が多い。

ホムチワケ皇子一族はワニ系皇族で、垂仁天皇とは敵対関係 

本題に入る前に、出雲口伝による垂仁天皇と前王朝とのつながりを述べます。
記紀では、孝霊天皇─孝元天皇─開化天皇─崇神天皇─垂仁天皇となっていますが、開化天皇までは、もともと大和を拠点とした磯城王朝であり、崇神天皇は物部系の九州の王朝、垂仁天皇は、物部王国と豊王国(宇佐家)の連合軍で九州から東遷し大和に攻めてきた王朝となっています。つまり、孝霊天皇以後に始まる九州からの東遷の話を初代神武天皇の時代にすり替えたという話です。

沙穂彦王と妹の狭穂姫命は、開化天皇の皇子の彦坐王ひこいますのおうの子です。曙立王あけたつのおう菟上王うなかみのおうも彦坐王の孫です。
垂仁天皇以外、開化天皇の皇子 彦坐王の関係者であり、攻められる側の王朝の関係者というわけです。それゆえ、逃避行の旅にでなければならないのです。

また、『日本書紀』開化天皇紀には、第9代開化天皇と、和珥臣(和珥氏)遠祖の姥津命の妹の姥津媛との間に生まれた皇子です。つまりは、母族 和珥氏一族の皇子と言っても過言ではないのでしょう。

沙穂彦王は死んではいなかった

古事記には、サホ彦王が死んだと書かれたが、実際は丹後から先祖の血縁を頼って、出雲国の神門家に行き、ナガホ(長穂)ノ宮に住んだという。そこは、園のナガハマ(出雲市)にあり、以前から大国主ノ命とオミツヌノ命(六代目・大穴持)とをまつる建物があった。今は、長浜神社になっている。

斎木雲州著 『お伽話とモデル-変貌する史話-』 大元出版

長浜神社 本殿  島根県出雲市西園町上長浜4258

サホ彦王は先に九州に移り、日向国の西都原を中心にして、王国を造ったと伝えられる。

斎木雲州著 『お伽話とモデル-変貌する史話-』 大元出版

宮崎県の「西都原さいとばる古墳群」の中に、男狭穂塚おさほづか古墳女狭穂塚めさほづか古墳がありますが、「サホ」つながりで何か関係があるのでしょうか。

※ 出雲口伝の別の本には、これとは違ったことが書かれています。

三輪山の霊留女貴(太陽の女神)を奉じてサホ姫は、サホ彦軍とともに近江に逃げたが、尾張国の丹羽郡に隠れたという。
サホ彦はさらに東に移り、甲斐国に行き日下部連と苗字を変えた。

勝 友彦 著 『魏志和国の都 -伝承の日本史-』 大元出版 

ホムチワケ皇子は、曙立王との間の子!

「二股杉の木で、二股舟を作り御子を乗せて」という語句は、ホムツワケが大㑨王の子孫であることを暗示している。大㑨王の子が明立王だ。サホ姫は明立王と結婚し、ホムツワケを生んだとの言い伝えがある。

斎木雲州著 『お伽話とモデル-変貌する史話-』 大元出版

なんと、ホムチワケ皇子は、垂仁天皇と狭穂姫命との子ではなくて、出雲にホムチワケと随伴した曙立王(明立王)との子だと書かれています。

『古事記』では、曙立王が「うけい」をした後、垂仁天皇は彼に「倭者師木登美豊朝倉曙立王」(やまとはしきとみとよあさくらの あけたつのおお)の名を授けたと書かれています。

大和磯城家と和仁家は、登美家の分家だった。始めの言葉は、明立王が登美家と和仁家を受けていることとを示す。次の語句は、「豊」の国の宇佐家を頼って、そこに住んだこと、その後で筑後の「朝倉」に住んだことを示している。弟の菟上王は豊国の菟狭王と血縁を結んだらしい。

斎木雲州著 『お伽話とモデル-変貌する史話-』 大元出版

白鳥を探して回った国々の話

宍道湖のくぐい(白鳥)

『お伽話とモデル-変貌する史話-』では、「ホムチワケが出雲に住んでいた理由をもっともらしくするために白鳥の話が作られたらしい」としています。

『古事記』では、山辺大鶙やまのべ の おおたかを遣して、紀伊国・播磨国・因幡国・丹波国・但馬国・近江国・美濃国・尾張国・信濃国まで鵠を追跡させ、越国の和那美之水門わなみのみなとに罠の網を張って捕獲させたことになっています。(『日本書紀』では、天湯河板挙が、出雲国(或る人が言うには但馬国)で捕獲した。)

いわゆる大鷹が白鳥を探して回った国々は、和仁一族が分布していた所と一致する。この大鷹は架空の名前で、実際はツノコリノ(角擬)命の孫で「天湯川田名」という人だった。

斎木雲州著 『お伽話とモデル-変貌する史話-』 大元出版

沙穂彦王に随伴した日下部氏

鼻高はなたか山に連なる朝村あさむら山や高鍔たかつば山の麓には、日下部氏系の神社が二つ鎮座しています。

島根県出雲市日下町付近の地図
鍛冶屋谷下の神社が、「久佐加神社」神門谷の上の神社が「来阪くるさか神社」左下が「高濱八幡宮(宇佐八幡を勧請)

久佐加神社 島根県出雲市日下町731
御祭神:大穴持命 日子坐王命 大穴持海代比古命 大穴持海代比女命 出雲国風土記 記載社
式内社

出雲口伝は、日下町の地名についてこう語っています。

和仁家の分家が日下部家だったが、このとき日下部家の人々も一緒に来て、出雲に住んだ。神門家の一部が住む神門谷の隣(出雲市平田町)に、日下部家が住んだので、「日下」の地名が今も残っている。

※出雲市平田町となっているが、出雲市日下町の書き間違いだと思われます。

斎木雲州著 『お伽話とモデル-変貌する史話-』 大元出版

日下部については、仁徳天皇の子である「大日下王」(大草香皇子)および「若日下王」(草香幡梭姫皇女)のために設置された名代という説もありますが、日下部氏には彦坐王や狭穂彦王に始まる系譜もあります。

〇開化天皇の皇子日子坐王の後裔。因幡国で朝臣姓「草香部」を名乗った。
〇開化天皇の孫・山代之大筒木真若王(彦坐王の子)に始まる、但遅麻国造族の日下部君。
〇開化天皇の孫・狭穂彦王(彦坐王の子)に始まる、甲斐国造族の日下部直、河内の日下部連。
                                  Wikipedia 日下部氏より

来阪くるなり神社 島根県出雲市矢尾町787
御祭神:素盞鳴尊、稲田姫尊、大己貴尊、少彦名尊
  


出雲国風土記には来坂神社があります。もとは、来坂(くさか)神社だったと思われます。久佐加神社の同じ祭神の式内社「同社大穴持海代日古神社」および「式内社同社大穴持海代日女神社」を合祀していると伝えています。

来坂神社とは別に京都の八坂神社の分霊を祀るが、来成天王社がありました。来坂神社は、天文年間(1532~54)に焼失し、一町余西方の来成天王社に合祀されました。
それで、一般には今でも広く「天王さん」と呼ばれています。

菟上王が建てた神の宮は、出雲大社ではなくて智伊神社!?

菟上王が建てたのは、一般的には、杵築大社だと思われています。『古事記』の筋書きから言えば、出雲大神の祟りで、ホムチワケ皇子がしゃべれないわけなので、出雲大神を祀る杵築大社を建てたということになります。

しかし、出雲口伝では、菟上王が建てたのは、智伊神社ということになっています。

智伊神社 島根県出雲市知井宮町1245

斎木雲州著 『お伽話とモデル-変貌する史話-』 では、次のように書かれています。

明立王の弟の菟上王が続いて出雲に来て、Aの話の「神の宮」を築いた。そこに明立王と、ホムチワケを連れたサホ姫らの一族が、共に住んだ。サホ姫は稲積の中で死んだのでは、なかった。この時の宮は、後の知ノ宮(今の智伊神社・出雲市神門町)だと伝承されている。

智伊神社は、神戸川の中流にある。当時は斐伊川下流は、西へ曲がって海に出ていた。神戸川は斐伊川下流と平行して流れていたから、古事記に斐伊川とあやまって書かれたもの、と思われる。

斎木雲州著 『お伽話とモデル-変貌する史話-』 大元出版

その後のホムチワケ一族ですが、

この一族も後にサホ彦王を追って、東九州に移住したと言う。そしてホムツワケの子孫が宇佐家と血縁を結び、ナカツ彦大王になったと伝えられる。

※ナカツ彦大王・・・仲哀天皇

斎木雲州著 『お伽話とモデル-変貌する史話-』 大元出版

神門臣が、和仁家と宇佐家(ウサギ─月神を奉斎する家)に導く仲介をした事が、『古事記』のウサギとワニが登場する因幡の素兎のたとえ話が作られたという話です。

しかし、出雲口伝の別の話では全く逆の話が書かれています。

物部豊東征軍の将軍である菟上王が、神門臣の王国を滅ぼした

出雲口伝では、出雲王朝最後の大名持・山崎帯やまさきたらしの時に、物部豊連合軍が侵攻し西出雲王国は征服されたのでした。

西出雲の王宮は、真幸ヶ丘の北方(出雲市神門町)にあった。

斎木雲州著『─大社と向家文書─ 出雲と蘇我王国』大元出版

神門臣家の振根は北の王宮跡に残って奮戦したが、丘の付近で戦死した。王宮は東征軍に占領された。

斎木雲州著『─大社と向家文書─ 出雲と蘇我王国』大元出版

真幸ヶ丘公園(まさきがおかこうえん) 出雲市知井宮町1327-1
昔は、「山崎ヶ丘」であった。明治40年5月29日、時の皇太子様(後の大正天皇)行啓の折に、この公園に立ち寄られ、それを機に「真幸ヶ丘」(まことにさいわいなおか)と改名された。

そして、ホムチワケ伝承に登場する菟上王と同じ人物かわかりませんが、同名の菟上王が登場します。

東征軍の将軍の一人である宇佐家出身の菟上王は、焼けた神門臣家宮殿跡に九州式の建物を建てて、占領軍として滞在した。その建物は後に、知伊宮になった。

斎木雲州著『─大社と向家文書─ 出雲と蘇我王国』大元出版

こうなりますと、菟上王が智伊神社(大元の)が建てた意味合いが全く変わってきます。
ホムチワケ皇子一家が住むために建てたのか、西出雲の王宮を攻めて駐留軍の居場所として建てたのか、伝承が不確かだったのでしょうか。確認する術はありません。

なお私が、島根県東部のホムチワケ伝承地を訪問した記事が、姉妹サイトにあります。

富能加神社 ~ ホムチワケノミコト 出雲大神の祟り ~ 

出雲臣の謎 斐川平野 (3) ホムチワケ伝承と斐川 求院

出雲臣の謎 斐川平野 (4) 日下部氏とホムチワケ伝承

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