
写真は、鳥取県と島根県との県境である大菅峠
鳥取県と島根県との境に位置する御墓山(758m)は、イザナミノミコトの御陵である比婆山の候補地のひとつです。
孝霊天皇の行幸
第7代天皇がお墓山をたずねた伝承もあるようです。
御墓山の道路標示

ここから自動車ですぐのところに、砥波(となみ)の「楽々福神 足洗池」の伝承地に着きます。

説明版はありますが、もう池ではありません。
砥波の大塚家に立ち寄られて、その時、ここで足を洗われたということです。
ここから、5.6キロ行くと、御墓山の登山口につきます。
登山口からは、島根県の横田町につながる一番上の写真の大菅峠(おおすがだわ)が目と鼻の先です。
比婆山の比定地 御墓山
御墓山の登山口にある石碑

『古事記』でいうところのイザナミノミコトの御陵である比婆山の比定地は、安来市の比婆山や鳥取県の母塚山など多々ありますが、
『日野郡史』(【1926年】編 日野郡自治協会 名著出版)には、お墓山こそが比婆山である根拠が書かれていました。
原本は、国立国会デジタルコレクションで公開されています。該当の箇所は47コマ目からです。
阿毘縁の御墓山
阿毘縁村の大菅字大墓山は、出雲国能義郡と伯耆国日野郡との境に聳(そび)ゆる名山なり。上古伊邪那美尊を葬り奉りし由云ひ伝ふ。
其の事跡と古事記にある所と照合して考ふる時は、信憑すべき点少なからず。依て左に之を併記して尚後世探求の参考に資せんとす。
伊邪那美尊次に生ませる神の御名は鳥之石楠船神亦の御名は天之鳥船と謂す。 古事記
米山曰此神は日野郡と仁多郡との境に聳(そび)える船通山及び仁多郡鳥上瀧に縁故あるべし。尚能義郡西比田(編者曰御墓山裏に当る。)に石船神社あり。
歌に「雲はれて大はた山の木のもとに岩の御船の神の瑞籬」
『日野郡史』
※米山(べいざん)曰く・・・・米山は、『日野郡野史』著者 坪倉鹿太郎(ろくたろう)の雅号。 つまりは坪倉氏の言説ということ。
※瑞籬(ずいり)・・・神聖な場所の周囲にめぐらした垣。
御墓山頂上の祠頂上に太古古墳があったのでしょうか?
熊野神社の口碑伝承では、「山内に千引岩ト称スル大石アリ伝へ云フ冊尊ノ御陵ナリト」ともあります。

次に云々吐気に生りませる神の御名は金山比古次に金山比売神 古事記
米山曰此御神は今能義郡西比田に鎮ります金屋子神なるべし。
故伊邪那美神は火神を生みませるに因り遂に神避(サ)りましぬ 古事記
米山曰伊邪那美尊は日野郡と能義郡との境に在る御墓山の東に方り、同じ山脈の続きて聳(そび)ゆる高山にて神避り給ひ、夫より此山を避(サ)り隠れ山と称へしを、中古より土俗訛りて、今猿隠山といふ。云々。
『日野郡史』
確かに『古事記』に書かれている展開に近辺の神社の祭神や山々の名前が照合しています。
熊野神社
熊野神社 鳥取県日野郡日南町下阿毘縁2489

故其祟避りまして伊邪那美の神は、出雲国と伯耆国との境比婆の山に葬(カク)しまつりき。 古事記
米山曰出雲国能義郡と伯耆国日野郡阿毘縁村の内大菅との間に聳(そび)ゆる字御墓山に伊邪那美尊を葬し奉れる由昔より云ひ伝ふ。
同地内の井垣が塔(サコ)に其神霊を奉祀せしも、深雪の地にて里人冬期参拝に因しみ、中古より同村地内字宮の下に移し奉り、熊野神社と称へ、伊邪那美命に事解(サカ)男命速玉男命を合祭し、古来産婦主護び御神とて遠近の祟敬甚だ厚し。
此御墓山及近地を日向(ひな)山と総称す。比婆山の轉訛(てんか)なるべし。云々。
『日野郡史』
島根県側の御神門山も含めて、ひなやま、(熊野神社の来歴の所には「比那山」と記載あり)と云ったのだと思われます。
『出雲国風土記』には、伯耆国との間に常に剗(古代の関所)があると書かれており、また「堺の阿志毘縁山(あしびえやま)に行く道」とありますが、阿志毘縁山はここの日向(ひな)山あるいは御墓山だったのでしょうか?
八石谷
於是伊邪那岐命御佩せる十握剣を抜きて其郷子迦具土神の御頭を斬り給ひし時 石柝(イハサク)神砂筒之神外六神並せて八神は御刀に因りて生りませる神なり 古事記
米山曰前にいふ御墓山の近地日野郡阿毘縁村地内に字八石谷といふ所あり。此地にて彼八神生(ナ)りませしといひ伝ふ。
『日野郡史』
『古事記』における火の神カグヅチを十握剣(とつかのつるぎ)で切って、八神が生まれる話は、刀剣の生成過程(刀鍛冶)を示したものだと言われています。
この周辺はたたら製鉄が盛んな地域だったようで、また下阿毘縁大原に鍛冶屋敷という地名があり、平安時代の日本刀の刀工の始祖とも言われる大原安綱の伝承地でもあり、そういうことまで彷彿させてしまう話です。
御墓山の石碑がある登山道とは別に、御墓山の表示板に、「八石谷ルート」なる登山道があると知りました。
しかし、通常の登山道がわからなくなっていて迷いました。
日を出直し本格的な登山の準備をして、1メートルぐらいの岩が集まっている谷になんとかたどりつきました。
ここが、本当の八石谷かわかりませんが、11個の大石がありました。(八は吉数なので、必ずしも八個の石があるとは限らないと思っています。)


黄泉平坂
於是伊邪那岐尊見畏みて避け返ます時に其妹伊邪那美尊「吾れに恥見せ給ひつ」と言し給ひて卽治津醜女を遣はして追はしめき。 古事記
米山曰前にいふ御墓山より三十町計り西北の方、能義郡西比田に追神といふ所あり。(昔はみ鬘《カツラ》が谷といひしを今はみの敬字を省きて斬なむ呼べり。)
此地を始め避り隠れ山邊此鬘多く自生せり。云々。又御墓山地内井垣が塔に往古は竹ありしも享保十七年の自燃粇(ジ子ンゴ)にて全减せり。
(編者曰古事記中に蒲萄(えびかづら)の子(み)及び筍(たかむな)の故事あり。)
『日野郡史』
自燃粇・・じねんこ か?竹の実は食用になるそうで、粉にしてだんごなどにして食べるそうだ。享保17年の飢饉で、米の代わりに食べられて、竹がなくなってしまったのか。
『島根県口碑伝説集』(島根県教育会 編 昭和2年)では、「加津良谷」あるいは「加津羅谷」との記載あります。御墓山の北にある谷で、伊邪那岐尊が黒鬘を投げ捨てたからとの由来が書いてあります。
その下に、「高比奈山」があり、そこが伊邪那岐尊が投げた櫛から、筍(たけのこ)が生えたという故事から、筍(たかむな)山が訛って高比奈山になったと述べられていました。
また、伊邪那岐尊が追われた場所が、当時の地名として、西比田字追神區(區は区)とあります。
故(カ)其の所謂黄泉比良阪は今出雲国の伊賦夜となも謂ふ。 古事記
米山曰云々比良坂は比田坂の謂にして今の能義郡西比田の近地ならん。云々。編者曰、出雲風土署記、東南道は、御墓山麓を通過せり。(交通史参照)
是を以て云々筑紫の日向の橘の小門(ヲド)の阿波岐原に到りまして禊(ミソ)き祓ひ給ひき。 古事記
米山曰 云々予は御墓山の近地日野郡阿毘縁村字日向悪道なりしと思ふ。これ日向の小門(ヲド)と日向の悪道(オド)と同音なればなり。云々。
『日野郡史』
『島根県口碑伝説集』(島根県教育会 編) には、御墓山の「南面中腹、日向悪道と称する所に、比婆神社の舊社地がある。
維新の際、日野郡阿毘縁村熊野神社に合祀」と書いてあります。「日向悪道」は御墓山の中腹にあった祠があった旧社地だと思われますが、その近辺に禊場(みそぎば)になるような泉があったのでしょうか?
伊邪那岐命御身に著ける物を脱ぎ棄て給ひしに因りて生りませる神の奥津甲斐辯羅神邊津甲斐辯羅神といふあり。 古事記
米山曰前に云へる御墓山の西の方、能義郡地内に奥かぢ或はかぢ奥といふ所あり。之奥津甲斐辯羅神の生りませし處又此處より少し南の方によりかぐら塔といふ所あり。これ邊津甲斐辯羅神の生りませし所ならむ。云々
『島根県口碑伝説集』(島根県教育会 編)には、「神楽松山」という記載があり、スサノオノミコトがこの地の賊を平け、母神伊邪那美命の御陵地を参拝し、神楽山で「神楽を舞はせられた。」とあります。
明治維新までは、「一の宮の神官登山」して、お祭りをする斎場であったようです。
一の宮の神官というのは、出雲国一の宮 出雲大社や熊野大社ではなく、広瀬町西比田の比太神社だと思われます。別名 一宮明神と云われます。
於是上瀬は速し下瀬は弱しと詔り給ひて初めて中瀬に降り潜(かづ)きて滌き給ふ云々。 古事記
米山曰前にいへる御墓山の西南の方能義郡地内に行水谷といふ所あり。之れ禊の語の語を中古より行水に變ししものか云々。
編者曰、野史子の説、又付会のあとなれども、参考とするに足る。
『日野郡史』
『古事記』ができてからの後世の付会なのかもしれませんが、地名の謂われがこれほど、そろっている場所はないと思います。
出雲国側の伝承
島根県側の山々の名前がわかりませんでしたが、おおよそ下記の作図のようです。『伊弉冉尊御陵墓考』(1916年)の地図を参考に山の名前を書き加えてみました。
大墓山の北側が、高比奈山、牛首山の北西の山が御神門山というようです。神楽松山の位置は、上記の書物には高比奈山の上方に書かれてあったので、岩船神社の東側に位置する山かもしれません。

御神門山
『島根県口碑伝説集』(島根県教育会 編)からの抜粋です。
御墓山の北方に御神門山がある。此山の中腹に、殿内と云ふ四十歩ばかりの地がある、其入口に殿騰戸岩とて、高さ三十五六尺、幅約二十尺、厚さ二十尺の岩門が両方に立って居る。
此岩より奥なる殿内へは古来伊弉冉命の祟ありとて一切這入らない事になって居る。
『島根県口碑伝説集』(島根県教育会 編)
これを読むと、『出雲国風土記』仁多郡の御坂山の記事を思い出します。
御坂山(みさかやま)。
郡家の西南五十三里の所にある。この山に神御門(かみのみと)がある。だから御坂という。[備後と出雲の堺にある。塩味葛がある。]
『島根県口碑伝説集』(島根県教育会 編)
おそらく、御坂山(現在の猿政山が比定されている。)にも、ここと同じような門のような女神岩があって、国境を厳として守ってたのでしょう。
ここは伯耆国との境界なので、御坂山ではありません。
しかし、奈良時代は同じ仁多郡だったので同様な信仰があったと思います。
金屋子神社から見える比那山
向こうに見えるとんがった山は牛首山でしょうか?とすると右側の山が御神門山でしょうか?

追神の待神社
待神
前記追神部落内に、待神社と云ふのがあって、地名も待神と云って居る。今は金屋子神社へ合祀せられたけれども、祭神は岐神で、これは前記の如く、黄泉軍が敗れて帰った時、伊弉冉神は今は是迄と自ら比良坂に出向はれた。
すると阪の中央に、千人引の大磐石が立塞って、もう如何ともすることが出来無い。磐石を隔てて、御夫婦絶縁の誓をせられた。
則ち男の命は、千人岩を立塞けて待たれたに依って、待神と呼び、そしてまた祭るに、大磐石即ち岐神を以てすることになったのである。
『島根県口碑伝説集』(島根県教育会 編)
地名である「追神」の謂われは、伊邪那岐命が八雷神に追われた所だそうです。
現在も待神社は、追神地区に鎮座していました。合祀されたものが、また再建されたのでしょう。
待神社

江戸中期の『雲陽誌』にはどう書かれているでしょう。
待神社
勝手社 社家の云此両神は、當郷最初出現なり、祭日十月十八日
『雲陽誌』
「當郷最初出現なり」というから、かなり古い神社のようです。でも伊邪那岐神、伊邪那美神に由来するから、最初の出現と言っているのかもしれません。
勝手社と対(つい)で書かれています。現在勝手神社は、見当たりませんが、同名の勝手神社(かつてじんじゃ)というのが、奈良県吉野郡吉野町にもあります。『和漢三才図会』に「勝手社 祭神一座 愛鬘命(うけりのみこと/うけのりのみこと)」とあります。
受鬘命の「鬘」は「かつら」です。おそらく、伊邪那岐尊が黒鬘を投げ捨てたという由来から、勝手社が創建されたのではないでしょうか。
磐船神社 母陵を訪ねる須佐之男命
磐船神社 島根県安来市広瀬町西比田市原

伊邪那美命の母陵墓山と云われる大墓山にすこぶる近いということを改めて感じました。なぜ須佐之男命を祀る神社がここにあるのかは、『古事記』に書かれていることに由来するようです。
『古事記』「には、「僕は母の国根の堅州国に罷らむと思う」と須佐之男命が言ったと書かれています。
磐船神社が鎮座する山は、大幡山(おおはたやま)と言い、その山とは別に「神楽松山」があるようなことが『島根県口碑伝説集』(島根県教育会 編)に書かれています。
神楽松山 素尊、仁多郡横田の郷で八岐大蛇を退治せられた後、比田村西比田の、磐船山に籠らせられ此地の賊(当地方に天神とは全く別人種の巣窟があった)を平け御母伊邪那美命の御陵地に参拝せられ、其の西北二十丁の處なる、神楽山で神楽を舞はせられたと伝へられる。
維新の際までは、一の宮の神官登山しカメガラの木に青柴を挿み、之を供御し、祝詞を奏し、神楽を舞うたが、今は廃せられた。此山頂の岩石、古代文字があったと伝ふるが、今は見えない。
『島根県口碑伝説集』(島根県教育会 編)
比太神社 祭神 吉備津彦命
考えようによっては、ここの神社が最も古いということができます。
少なくとも、『出雲国風土記』(733年)の仁多郡の神社に記載された比太社(ひだしゃ)に比定される神社です。
比太神社(ひだじんじゃ) 島根県安来市広瀬町西比田2452

祭神は、 孝霊天皇の皇子 吉備津彦命を祭っています。
祭神というものは、明治維新の際に、変わってしまうものもありますが、ここの神社は300年ぐらい前から、変わっていないようです。
江戸中期の『雲陽誌』では、「一宮明神」と書かれています。
一宮明神 吉備津彦命 吉備津姫命なり、
九月廿九日を祭日とす、土人 社地を 亀居山と號す、
『雲陽誌』
御墓山を囲む伯耆国側では、孝霊天皇の鬼退治伝承地が多いです。
出雲国側には、孝霊天皇の皇子・吉備津彦命を祭る神社があるということは、
イザナミのミコト御陵伝承は、孝霊天皇─吉備一族の出雲国侵入と深いかかわりがあるのではないか?と思ってしまいます。