アジスキタカヒコネが登場する仁多郡三澤郷

 

阿遅須伎高日子命(あじすきたかひこのみこと)の伝承地である仁多郡三澤郷、現在の仁多郡奥出雲町に訪ねました。

 

まずは、その伝承が書かれた『出雲国風土記』(733年)の記事です。

 

三澤郷(みざわごう)。

 

郡家の西南二十五里の所にある。大神大穴持命の御子、阿遅須伎高日子命(あじすきたかひこのみこと)が、御須髭(みひげ)が八握(やつは)に生えるまで、まだ昼も夜も泣いておられるばかりで言葉が通じなかった。

 

そのとき、御祖命(みおやのみこと)が御子を船に乗せて八十島(やそしま)を率いて巡って、心を楽しませようとなさったが、それでも泣き止まれなかった。

 

大神が夢で祈願なさって「御子が泣くわけをお教えください。」と夢に祈願なさったところ、その夜の夢に、御子が言葉が通じるようになったとご覧になった。そこで目覚めて問いかけなさった。

 

そのとき「御澤。」と申された。そのとき、大神が「どこをそう言うのか。」とお尋ねになると、御子は御祖の前から立ち去って行かれ、石川を渡り、板の上に至って留まり、「ここです。」と申された。そのとき、その澤の水沼が出て、沐浴なさった。

 

だから、国造(こくそう)が神吉事(かんよごと)を奏上するために朝廷に参向するときに、その水沼の水を初めに用いるのである。

 

これによって今も産婦はその村の稲を食べない。もし食べると、生まれながらにして子はものを言う。だから、三澤という。この郷には正倉(しょうそう)がある。(島根県古代文化センター[編] 『解説 出雲国風土記』 今井出版)

 

アジスキタカヒコネが呼んだのは、御澤(みさわ)か?御津(みつ)か?

 

『出雲国風土記』に書かれた阿遅須伎高日子命が言葉を話す場所の水沼(泉)の伝承地の一つである三澤池に行ってみました。

 

伝承地は奥出雲町に二つあります。

 

伝承地の一つ  三澤池

 

 

戦国武将の三澤氏の城山にあります。(なお、一番上の画像は城山跡の画像です。)

 

そこの説明版に、伝承地である説明が書かれています。

 

 

 

『出雲国風土記』の三澤郷の記事ですが、前に掲げた記事と違い、ここには、三澤ではなく三津(みつ)と書いてあります。おや?

 

それと、 『解説 出雲国風土記』(今井出版)には載っていない、「神亀三年(七二六 御津の字を三沢と改めた。」と加えられています。

 

これは、調べてみました。この書き加えられた文章は『出雲風土記抄』(岸崎時照 1683年)等にあることがわかりました。

 

それと、『出雲国風土記』には様々な写本があり、多数が、「御澤」ではなく、「御津」「三津」となっています。

 

御津とは?

 

さて、古語辞典で「津」を調べてみます。

 

【 津 】《ト(戸)の母音交替形》①船の着く所。船着場。港。②渡し場。わたり。 (『岩波古語辞典』 大野 晋・佐竹 昭広・前田金五郎 編)

 

他の風土記も調べてみました。『播磨国風土記』の揖保の郡(いぼのこおり)に「御津」がありました。

 

御津。神功皇后が御船を停泊された泊りである。だから、御津と名づけた。(中村啓信 監修・訳注 『風土記 上』 角川ソフィア文庫)

 

御子を船に乗せて八十島(やそしま)を率いて巡ったこと、石川を渡ったとあるから、

 

話の筋から、「船着き場」あるいは「渡し場」のことをしゃべったというのは、おかしくありません。

 

ここは、「御津」でも良いのかもしれません。

 

『和名類聚抄』(平安中期の辞書)には、「三澤郷」と載っており、「三津郷」は、写し間違いとの説も強いのですが、三津→三澤に改めたとするならば、三津郷でも良いと思います。

 

もう一つの伝承地 「三津池」にも行ってみました。

 

三津池の案内板

 

国道314号線沿いにあります。

 

 

ここからの谷を登っていきますと三津池にたどりつきます。

 

 

もう一つの伝承地 三津池

 

すでに水は溜まっていません。奈良時代は、もっと広く清水に満ち溢れていたのかもしれません。

 

 

三津池の下の国道からは、石の多い斐伊川が見えます。

 

ここに船着き場があったのでしょうか。

 

 

アジスキタカヒコネと、ホムチワケ伝承のどこが似ているか。

 

ホムチワケ伝承の概略

 

『日本書紀』では、大人になっても言葉をしゃべらない垂仁天皇の皇子 誉津別命(ホムチワケのみこと)は、出雲の鵠(くぐい、白鳥)が飛ぶ様子を見て、しゃべりました。

 

鳥取部・鳥飼部・誉津部の起源神話として書かれています。

 

ところで、誉津別命は、『古事記』では、白鳥をとらえてもしゃべらない。白鳥を追い続け、紀国から始まり、播磨、因幡、丹波、但馬・・・と結局、高志国の和奈美の水門(みなと)でつかまえた白鳥を見てもしゃべりません。

 

天皇が見た夢で出雲大神の祟りということがわかります。

 

ここでの出雲大神は、葦原色許男神(大国主命の別名)となっています。

 

出雲国造の祖・岐比佐都美が大神の祭祀を行うところを見て、誉津別命は、しゃべりだします。

 

そしてその後、誉津別命は、肥長姫と一夜をともにしますが、 姫が蛇とわかり、恐れおののいて逃げ上って行きました。

 

しかし、『尾張国風土記』(逸文)では、祟るのは、大国主命ではなく、阿麻乃弥加都比女 (天甕津日女命)です。

 

同じ出雲のようですが、多具(たく)の国となっています。

 

ホムチワケ伝承との比較

 

幼童神

 

ホムチワケ皇子も髭ぼうぼうになる大人になっても、言葉がしゃべらないだけではなく、子供のままでした。

 

言葉をしゃべらそうと、舟遊びをさせるのはアジスキタカヒコネとホムチワケ皇子は同じです。

 

松前 健氏によれば、幼童神の信仰は古代エーゲ海や小アジアにもあり、「穀霊を生まれたばかりの新生児として扱い、

 

いろいろと世話をやいて成長させるという呪術的意味であり、これによって穀物の成育を実際に促進・保証させることができる信仰」だそうである。(『出雲神話』 講談社現代新書)

 

ホムチワケ伝承との違い

 

ホムチワケ皇子と違い、『出雲国風土記』には、アジスキタカヒコネがなぜ大人になっても言葉がしゃべれないのか、原因と思われることが何一つ書かれていません。

 

父が大国主命張本人なので、出雲大神の祟りなどありえません。

 

ホムチワケ皇子にとっては、出雲の白鳥(『日本書紀』)や出雲大神あるいは多具国の女神が呪術的な意味を持っています。

 

ただ一つ、阿麻乃弥加都比女が何か関係している可能性はあります。

 

『出雲国風土記』に阿麻乃弥加都比女と同神と思われる天甕津日女命(あまのみつひめ)が登場します。

 

意美豆努命(おみづぬのみこと)の御子の赤衾伊農意保須美比古佐和気能命の后神なので、大国主命の母神の可能性すらあります。

 

そして、紛らわしいのが、アジスキタカヒコネの后神がまた天御梶日女命(あまのみかじひめ)という似た名前です。

 

さて、天甕津日女命は、水戸神(湊神)とも言われています。(「東国諸国造 伊勢津彦之裔」という系図)

 

 詳しくは、出雲大社別火氏の謎(3) 天甕津日女命(あめのみかつひめ)

 

神  名 しゃべらない原因 しゃべり始める原因
誉津別命 火中出産? 
大国主命の祟り
阿麻乃弥加都比女の祟り
白鳥 
大国主命や阿麻乃弥加都比女の祭祀
阿遅須伎高日子命 不明

御津(船着き場)
あるいは御澤(水沼)

 

禊祓いと湊神

 

アジスキタカヒコネの系譜

 

 

アジスキタカヒコネ(阿遅須伎高日子命)は、『出雲国風土記』には書いてはないけれど、

 

『古事記』には、母が、宗像三女神の一神である多紀理毘売命(タキリヒメ、タギヒメ)と書かれています。

 

妹神に市寸島比売命(イチキシマヒメ、イツキシマヒメ)、多岐津姫命(タギツヒメ、タキツヒメ)が、二神に「タキ」が書かれており、
孫のタキツヒコのミコトにも、継承されています。

 

タキツヒコのミコトは、『出雲国風土記』では、雨ごいをすると雨を降らせてくれる石神と書かれています。

 

神名から、「滝を神格化した神」と思われています。

 

しかし、そもそも、古語の「たぎつ」に由来していると思われます。

 

たぎ・つ 【滾つ・激つ】

 

水がわき立ち、激しく流れる。心が激することをたとえていうことも多い。   『学研全訳古語辞典』

 

 

滝は水が激しく流れる所で、そこから現代の「タキ」になったわけで、「タキ」は海にも当然関係します。

 

宗像三女神は、川というよりは海の神のイメージが強いですが、おかしなことではありません。

 

奈良時代には、滝は「たるみ(垂水)」と云ったようです。

 

トウトウの滝 島根県仁多郡奥出雲町三沢原田581

 

 

吉野裕子 禊(みそぎ)起源説

 

禊(みそぎ)は、吉野裕子氏の言葉を借りれば、`'神話成文化、つまり『古事記』成立期においてはすでに穢れの観念が確立し、祭式も整えられて、「みそぎ」は御禊の字が宛てられ、身濯ぎの転化とされて、「みそぎ」は清浄にすること`'ですが、

 

吉野裕子氏は、「みそぎ」は、元々「蛇の脱皮─新生」の呪術として仮説を立てています。

 

諏訪古伝承における御衣着(みそぎ)

 

諏訪神社における現人神ともいうべき祭祀者、諏訪大祝(おおはふり)の出自は桓武天皇の皇子、有員(ありかず)と伝えられるが、八歳の童子有員が明神から神格を授けられた状況を「諏訪大明神絵詞」は次のように叙している。

 

「祝(諏訪大祝のこと)は、明神垂迹をはじめ、御衣を八歳の童男に脱ぎ着せたまひて、大祝と称して、「我に於て体なし、祝を以て体とす」と神勅ありけり。是則ち御衣着(みそぎ)。祝有員、神(みわ)氏の始祖なり。」

 

 諏訪明神が蛇体であること、および因幡白兎伝承でも動物の表皮が着物として捉えられていることを考え合わせれば、明神がその着物を脱いで、それを間髪を入れず有員に着せたといい、それを「御衣着」と呼んでいるのは脱皮を暗示していると思われる。

 

この「御衣着」は要するに「身殺(みそ)ぎ」であって、ミソギの原意が後代の御禊祓いではないことを示す。中央政府から遠い諏訪は、後代の潤色をまぬがれた古儀がよく伝承されたのである。

 

この「絵詞」には御幣(みてぐら)も「御手倉の榊(さかき)と記され、これもまた拙著『扇』において推理したミテクラの原意に一致する。

 

 古代日本人の清浄観は、蛇における脱皮新生にあり、「身殺ぎ」こそ、生まれ清まる証であった。

 

前述のように、脱皮はその生物一代の間における出産、出産は世代を単位とする脱皮と私は考えるが、古代日本人はこの二つの現象を本質的に同質のものとして捉えていたと考える。

 

そこで生命更新の呪術として、疑似母胎としての仮屋をつくっての出産の擬き、あるいは水辺で身につけているものを脱ぎ、

 

これを水辺に捨てることなどが脱皮の擬きとして考えられ、それが新生への有効手段とされていたのではなかろうか。(吉野裕子著 『蛇 日本の蛇信仰』 講談社学術文庫)

 

アジスキタカヒコネは、蛇神─水神であり、「スキ」は「鋤」とも解され、農業神とされ、かつ雷神ともされています。

 

といいますか、アジスキタカヒコネだけでなく、奈良の三輪山の大物主命も同じ神格をもっていることが、『日本書紀』雄略天皇の項や『日本霊異記』の小子部栖軽(ちいさこべのすがる)伝承に書かれています。

 

アジスキタカヒコネの沐浴─禊払いが、蛇神の脱皮─迦毛大御神(かものおおみかみ)の誕生への神話とも解することができるのかなと思いました。

 

祓戸の二女神 :瀬織津比売、速開都比売

 

祓戸大神という言葉があります。祓戸は、祓を行う場所であり、そこで祭られる神のことを祓戸大神といいます。

 

その場所によって、神々の役割分担がが違うのです。

 

①瀬織津比売神(せおりつひめ)─ 様々な禍事・罪・穢れを川から海へ流す。

 

②速開都比売神(はやあきつひめ)─河口や海の底で様々な禍事・罪・穢れを飲み込む。

 

③気吹戸主神(いぶきどぬし) ─ 速開都比売神が様々な禍事・罪・穢れを飲み込んだのを確認し根の国・底の国に息吹を放つ。

 

④速佐須良比売神(はやさすらひめ)─ 根の国・底の国に持ち込まれた様々な禍事・罪・穢れを失わせる。

 

その中で、「津」の付いた女神が2神がいます。川の神、河口の女神ですが、この2神は湊神としてもよく祭られています。

 

「津」は、上代語の格助詞「の」であって、湊や水門を指すものではないという説もありますが、

 

ここでは、やっぱり船着き場や河口付近の港を指したものではないかと思ってしまいます。

 

それは、いわゆる「御津」の場所が、実際の沐浴や禊祓いの場所でもあったからだと思います。

 

 

※祭神として、宗像三女神の多岐津姫命(タギツヒメ)だけが、瀬織津比売神に置き換えられている場合がたまにあります。

 

同神だとは思いませんが、「大祓詞」(おおはらえことば)に「多岐つ」という言葉がある理由かもしれません。

 

遺る罪は在らじと 祓へ給ひ清め給ふ事を 高山の末低山の末より 佐久那太理に落ち多岐つ 早川の瀬に坐す瀬織津比売と伝ふ神 大海原に持出でなむ

 

 このエントリーをはてなブックマークに追加 

Copyright © 2024 古代出雲への道All Rights Reserved.