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出雲四大神とは?

出雲地方には、四つの「大神」の称号のついた神様が登場します。

出雲四大神はどういう神か?

その出雲四大神は、

①野城大神(のぎのおおかみ)

②熊野大神(くまののおおかみ)

③佐太大神(さだのおおかみ)

④所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)

『出雲国風土記』(733年)に登場する4柱の神様を言います。

記紀神話に登場する『猿田彦大神』、『加毛大神』という神様ではないのです。

①出雲四大神の野城大神

野城大神の呼び名

奈良時以降、野城大神を「のぎのおおかみ」と呼んでいたとの説が一般的ですが、『出雲国風土記』(733年)に「野代の海」(のしろのうみ)、「野代神社」(のしろのかみのやしろ)も書かれていることを考えると、「のしろのおおかみ」とも呼ばれていた可能性もあります。

漢字が中国から移入されて、漢字で表記するようになって「野城」から「のぎ」「のしろ」が発生したとも考えられます。

野城大神が祀られている神社

能義神社 本殿

神社名     能義神社(のぎじんじゃ)
現在の祭神   天穂日命
場所      島根県安来市能義町366

能義神社 拝殿

能義神社は、安来市の飯梨川流域の丘の上に鎮座しています。『出雲国風土記』(733年)の「野城社」だったとされています。

周りは田園地帯で、白鳥が飛来する風景がよく見られます。

なお、深堀りしたい方は、こちらの記事をどうぞ。 ☞ 蘇える出雲王朝 野城大神

野城大神の概要

『出雲国風土記』(733年)には、意宇郡(おうぐん)の9番目に載っている神社です。

『出雲国風土記』は社格(ランキング)順に載っていると考えられるので、神社としては、大神を祀っていながら奈良時代にはすでに、ランクが低くなっていたのです。

しかしながら、同名の野城社がもう一社あり、野代社という神社も記載されており、これが松江市浜乃木の野代神社、松江市乃白の野白神社に比定されています。

つまり、こちらの神社も古(いにしえ)は野城大神を祀っていたと考えられるので、安来市から松江市の嫁が島の辺りまでで、かなり信仰圏は広かったと考えられます。

野代神社 松江市浜乃木2丁目10−30
現在の祭神 大己貴命、 事代主命、 建御名方命

野白神社(のしらじんじゃ)松江市乃白町779
現在の祭神 猿田彦命、天宇受売命

天宇受売命のお面が見えます。かつては田和山に鎮座していました。

嫁ヶ島

宍道湖の嫁が島ですが、現在は竹生島神社(ちくぶしまじんじゃ)があり市杵島姫命を祀っています。

江戸時代中期の『雲陽誌』によると、かつては「野木の神」を祀っていたそうです。

②出雲四大神の熊野大神

熊野大神の呼び名

「くまのおおかみ」と呼びます。全国的にも「熊野」という地名があります。これは熊野という言葉が、固有名詞では無く、一般的なことばとして、奥まった所(隈々しい)をさしたものと言われています。

あるいは、「久万之禰(くましね)」という「神に供える稲という意味をもつので、熊というのは、一般的に神や稲に関係した名称だという説もあります。

古代の田は、山深い谷間に誕生したので、奥まった場所に田が作られ、そこが神にささげる米(こめ)との関係で、熊野と呼ばれていったのかもしれません。

深堀したい方はこちらの記事をどうぞ。☞ 熊野大神の謎(1)~ 熊野 ~

熊野大神が祀られている神社

熊野大社本殿

神社名     熊野大社(くまのたいしゃ)
現在の祭神   熊野大神櫛御気野命(現代では素戔嗚尊とされている)
場所      島根県松江市八雲町熊野2451番

本殿を囲むように、向かって右手に稲田神社、左手に伊邪那美神社が鎮座しています。

中世には、熊野大社は上ノ宮・下の宮の二つで成り立っていました。現在の熊野大社のある場所が下ノ宮のあった場所であり、上ノ宮を現在の伊邪那美神社であり、現在は一つにまとまった形になっています。

上の宮跡

熊野大神の概要

古代では出雲国で最も位の高い神

『出雲国風土記』(733年)では、出雲国筆頭の大社として、出雲大社(杵築大社)と並び称されていました。

そして、貞観9年(867年)の段階の神階(いわゆる神様のランキング)では、出雲大社の祭神の杵築神よりも上位でした。熊野神が正二位勲七等、杵築神が正二位勲八等でした。

「神階」とは、神道の神に授けられた位階であり、正六位から正一位までの15階の位階と、勲十二等から勲一等までの12等までの勲位があります。「従」(じゅ)より「正」(しょう)が、位が高く、数字が小さい程位が高いのです。

熊野大社拝殿

古代祭祀

熊野山(現在の天狗山)

現在の天狗山(標高610メートル)の頂上近くには、古代から続いていると思われる磐座(いわくら)のある祭場があります。

この斎場が熊野大社の元宮だったと言われています。

③出雲四大神の佐太大神

佐太大神の呼び名

「佐太」と書いて、「さた」ではなく、「さだ」と読みます。『出雲国風土記』(733年)には、「佐太大神の社」、一方で、「佐太御子の社」という名、つまり息子である御子の神社が書かれています。

「御子神」であり、かつ「大神」であるというなんとも悩ましい神です。

『延喜式』神名帳では、「佐陀神社」と書かれており、ずっと「さだ」と呼ばれていた神です。

佐太大神=岬神説

民俗学者・柳田国男氏によると、「サダ=岬」であり、伊予の佐田岬、大隅半島の佐多岬、さらに土佐の足摺崎の別名が、蹉跎岬とよばれていることから、さだ大神=岬神であるとのことです。

詳しくは ☞佐太大神の誕生した潜戸(6) 柳田国男 岬神説

佐太大神=猿田彦命説

江戸時代の国学者 平田篤胤は、「サダ=猿田」であると『古史伝』で述べました。詳しくは☞ 佐太大神の誕生した潜戸(5) 平田篤胤説

佐太大神が祀られている神社

佐太神社 
珍しい三殿並立の美しい神社です。右から北殿、正殿、南殿です。

神社名     佐太神社(さだじんじゃ)
現在の祭神   猿田彦命
正殿  佐太御子大神、伊弉諾尊、伊弉冉尊、速玉男命、事解男命の五柱。北殿  天照大神及び瓊々杵尊の二柱。南殿  素盞嗚尊及び秘説四柱の計五柱。

場所  島根県松江市鹿島町佐陀宮内73 

佐太大神の概要

『出雲国風土記』(733年)では、秋鹿郡の筆頭の神社として、「佐太御子社」が記載されています。

さらには島根郡の加賀神崎(かかのかんざき)では佐太大神の誕生神話が書かれており、信仰圏の広さが窺えます。

佐太大神が生まれたという伝承の加賀の潜戸(くけど)

風土記の記事によると、佐太大神の母は、神魂(かみむすひ)命の娘である枳佐加比売(きさかひめ)命であり、父は麻須羅神(ますらかみ)ということになっています。

しかし、中世になると、母が伊邪那美神になり、生まれた子供が天照大御神というように神話が変容してきます。

中世において佐太神社は、神有月に全国から神様が集まってくる「神在の社」として有名になりました。

母儀人基社(はぎのひともとしゃ)

佐太神社の南殿の横から、背後の山(三笠山)に登ると、伊邪那美神のお墓である比婆山の神陵を遷しまつったとされる母儀人基社があります。

佐太大神は御子神

奈良時代は、「佐太大神社」でもあり、「佐太御子社」でもありますが、いったいどういうことなのかと言う問題があります。

しかし、猿田彦命は、実は「御子神」とも呼ばれ祀られることがあります。

例えば鳥取県河原町の霊石山には、「御子岩」という猿田彦命を祀った磐座があります。

ちなみに出雲大社・社家であった富家伝承本(大元出版 富士林雅樹著『出雲王国とヤマト政権』など)によると、猿田彦命は、クナト大神と幸姫命(さいひめのみこと)の間の息子神だそうです。

④出雲四大神の所造天下大神 (大穴持命)

所造天下大神の呼び名

所造天下大神と書き、「あめのしたつくらししおおかみ」と呼びます。意味は、天の下の地上世界を作った大神ということです。

言うなれば、国つ神の代表であり、大穴持命(大国主命の別名)を褒めたたえた名前です。

所造天下大神が祀られている神社

出雲大社 奥から 本殿、御向社、天前社。

神社名     出雲大社(いずものおおやしろ)あるいは(いずもたいしゃ))
現在の祭神   大国主命
場所      島根県出雲市大社町杵築東195

所造天下大神の概要

他の3大神と違い、『古事記』『日本書紀』に「国造り神話」や「国譲り神話」の物語が描かれた唯一の大神です。

さらに『日本書紀』には鎮座の神社(出雲大社)の創建神話や祭祀する氏族の祖(天穂日命)まで記述されるという特例の扱いです。

神社は本来氏族の祖を祀るものですが、国つ神である大国主命の子孫が奉祭するのではなく、天つ神の天穂日命が奉祭するという特殊な形になっています。

所造天下大神を祀る日本一の高層神殿

「葦原の中つ国」(つまり、日本の地上世界)を天孫に譲ることの代わりに天にも届くような神殿を建ててもらう話が、『古事記』『日本書紀』に書かれています。

また、平安時代中期の天禄元年(970年)に書かれた『口遊』(くちずさみ)には、「雲太、和二、京三」という言葉が載っています。

建物の大きさを表わす数え歌で、出雲が太郎、大和が二郎、京都が三郎という意味です。

これは、出雲は出雲大社の本殿、大和は東大寺大仏殿、京都は大極殿であり、その頃は、出雲大社が日本一の大きな建築物だったようです。

東大寺の大仏殿が当時は十五丈だったのでそれより高かったということになります。

出雲大社境内にある宇豆柱の模型

現在の出雲大社本殿は、八丈(約24メートル)ですが、社伝では「上古三十二丈、中古十六丈、その後は八丈」となっています。

この中古十六丈(約48メートル)ですが、それを裏付けるごとく、2000年に鎌倉時代の初期の宇豆柱が発見されました。(発掘されたものは、古代出雲歴史博物館ロビーに展示されています。)

上古の三十二丈(約96メートル)は実際どうだったのか、証明するものがありませんが、記紀神話に書かれるぐらい、かなりの高さの神社であったと思われます。

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