宍道湖の最西端

宍道湖の沈む夕日を眺めていると、宍道湖の遥か遠くに、宍道湖に浮かぶ一つの島に夕日が落ちていくように見える。しかしながら、宍道湖の西にそんな島などは無い。

 

宍道湖に沈む夕日

 

 

一つの島に見えるのは、実は出雲国西部の山である。それも、一つの山ではなく、「鼻高山」と「旅伏山」が重なりあって、一つの山に見えている。弥生時代から奈良時代ごろまでには、宍道湖は鼻高山の麓付近まで、宍道湖が広がっており、西部と東部をつなぐ大きな港があったのではないかと思う。

 

この鼻高山の南麓が、「赤衾伊能意保須美比古佐和気能命と天甕津日女命」の鎮座する「伊努郷」と、旅伏山の南麓が、大国主命の御子「和加布都努志命」の「美談郷」であり、旅伏山の東麓が、物部氏の分布する「楯縫郡」(たてぬいぐん)がある。鼻高山と旅伏山の間が、古の神門臣家と物部氏の接合点であったように想像してしまう。詳しくは過去記事 → 出雲大社と国譲り神話(7)出雲御崎山

 

なんで、またそういう話にこだわるかというと、出雲大社本殿の中に、大国主命と御客座五神の席とは別に、下段の扉に近い所に、半畳ほどの和加布都努志命(牛飼神)の席があると知ったからである。これは、もしや、別火氏と関係があるのではないか。別火氏の祖神ではないかと想像してしまったからである。

 

秋鹿郡の和加布都努志命 

 

「赤衾伊能意保須美比古佐和気能命と天甕津日女命」に由来する郷が、出雲郡だけではなく、楯縫郡と秋鹿郡(あきかぐん)の境界の伊農(いぬ)郷にも出てくる。それと同時に、出雲郡美談郷と同じように、お隣の大野(おおの)郷に「和加布都努志命」が登場する。

 

伊努神社 島根県出雲市美野町382 
天甕津日女命を祀る。

 

 

 

伊農(いぬ)郷。郡家の正西一十四里二百歩の所にある。出雲郡伊農(いずもぐんいぬ)郷(ごう)に鎮座していらっしゃる赤衾伊農(あかふすまいぬ)意保須美比古佐和気能(おおすみひこさわけの)命后、天?津日女(あめのみかつひめ)命が国をめぐりなさった時に、ここにいらしておっしゃられたことには、「伊農よ【原文…伊農波いぬは夜や】。」とおっしゃられた。だから、足怒(あしはやる)伊努という。〔神亀三年に字を伊農と改めた。〕=i島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)

 

 

大野(おおの)郷。郡家の正西一十里二十歩の所にある。和加布都努志(わかふつぬし)能命が狩りをなさった時に、郷の西の山に狩人をお立てになって、猪を追って北の方にお上りになったが、阿内谷(くまうちのたに)に至ってその猪の足跡がなくなってしまった。そのときおっしゃられたことには、「自然と猪の足跡が失せてしまった。【原文…亡失うせき】」とおっしゃられた。だから内野という。それが、今の人は誤って大野と呼んでいるだけである。=i島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)

 

『出雲風土記』には、出雲郡と同様に隣接して、「赤衾伊能意保須美比古佐和気能命と天甕津日女命」「和加布都努志命」の記事があるので、これはワンセットな話で血縁関係の話だと想像する。「和加布都努志命」は、大国主命の御子と書かれているので、赤衾伊能意保須美比古佐和気能命の子ではない、となれば、孫ではないかと思う。
富家伝承本によると、神門臣家の系譜は、「臣津野ー佐和気ー八千矛(大国主命)」ということだから、(※臣津野=八束水臣津野命 、佐和気=赤衾伊能意保須美比古佐和気能命)、やはり味鋤高彦根神と同様に孫だったと思われる。ただ、弥生時代は、近代のような単婚ではなく、対偶婚であったはずで、単純ではなくて、大国主命の御子というよりも、「赤衾伊能意保須美比古佐和気能命と天甕津日女命」の間の孫というのが、適した表現なのかもしれない。

 

この祖母にあたると思われる、この天甕津日女命(あめのみかつひめ)が全く謎であるが、美濃国大野郡の「花長上神社」「 花長下神社 」の祭神であり、この神社の由来につながる尾張風土記逸文にも登場する。垂仁天皇ホムチワケ伝承に関係するが、天甕津日女命の時代が遥かに古く、どうつながるかわからないが、鼻高山麓に、若倭部氏や日下部氏が分布し、ホムチワケ皇子の系譜ー開化天皇裔でそういう伝承が作られたのではないかという想像ぐらいしかできない。
「天の」という神名なので、海部氏(尾張氏)の系譜なんだろうかと真っ先に頭に浮かぶが、火明命、饒速日命同神、尾張氏物部氏同祖という話もあるので、この神もまた尾張氏物部氏同祖なのかなどと思ってしまう。

 

 水戸神ー天甕津日女命

 

「東国諸国造 伊勢津彦之裔」という系図がある。武蔵国造などいわゆる関東の国造の系図だ。どこの神社あるいはどこの家から収集されたのかわからないが、国立国会図書館デジタルコレクションで開示されていた。わかりやすくするために、ワープロで打ち込んでみた。(私の目では、全部読み取れないで、読み取れないところは□□□□□とした。)
原本の系図全体が見たい方は、→ 国立国会図書館デジタルコレクション『諸系譜』27ページ

 

関東の国造(伊勢津彦裔)の系図抜粋  中田憲信編『諸系譜』より

 

 

一つ一つ見ると、面白い。記紀とは違って、天穂日命の親が、天照大御神ではなく、「意美豆努命」となっている。
正しいか、正しくないかみたいな見方をするとどうしようもないが、個別に見るといろいろな見方ができる。
まず、又の名つまり、「一、別名」は、同じ神ではないと思われる。天穂日命=赤衾伊能意保須美比古佐和気能命であるはずがない。それは、おそらく、別の神も同じことが言えると思う。また、この別名 熊野大隅命は、一般的には天穂日命とされているが、赤衾伊能意保須美(おおすみ)比古佐和気能命であるわけで、赤衾伊能意保須美比古佐和気能命のことなのかもしれない。

 

また『播磨風土記』では、伊勢津彦命(→ ウィキペディア 伊勢津彦 )は、伊和大神(大国主命)の御子である。それから考えると、天穂日命ー天夷鳥命を、赤衾伊能意保須美比古佐和気能命ー大国主命に置き換えるとつじつまが合う。

 

さて、問題の「天甕津日女命」であるが、天夷鳥命の隣に、「母水戸神 天甕津日女命」とあり、伊佐我命の別名に「一 櫛八玉命」とある。櫛八玉命は、別火氏の祖である。

 

思うにこの系図は、出雲国造家、神門臣家、富家、別火家などの「合体」系図であると考えた方がわかりやすい。
物部氏との接点で考えると、物部氏の系譜で、若桜部氏の祖に「出雲醜大臣」(いずもしこおおおみのみこと)という出雲姓の物部氏がいる。この系図にも見えるように、大祢命が、「(出雲)色多利姫」と婚姻関係で、子どもが出雲姓になったと思われる。(しかし、『天孫本紀』では、饒速日命の三世孫大祢命は、出雲醜大臣の兄で、饒速日命の孫の彦湯支命が、出雲色多利姫と結婚したと書かれている。ともかく、出雲醜大臣の母が、「出雲色多利姫」ということに変わりない。)
出雲「族」と物部氏は、かなり早い段階で婚姻関係が発生していることになる。