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御崎神社とミサキ神

江戸時代の出雲国の地誌である『雲陽誌』(1717年)では、かなりの数の御崎神(御崎神社、御崎の森等)が祀られていることがわかります。それは日御碕神社を勧請したものではと思いがちですが、日御碕神社を勧請したものは、「日御碕大神宮」「日御碕神社」というように、別個に載っています。御崎神社は、いったいどういう神を祀っているのか?民俗学のミサキ神の分析を踏まえ考察していきたいと思います。

御崎神社 島根県松江市大庭町 神魂神社の境外社だそうです。

『雲陽誌』の御崎神

『雲陽誌』に載っている御崎神(御崎神社や御崎の森)を列挙しました。
日御碕の名前の付いた社は載せていません。また、「御前」も、「御崎」の転訛とも思えましたが、全部外しました。

『雲陽誌』における御崎神一覧

島根郡

村名名称祭神記事
講武御崎明神小谷松本といふ所に神木あり
生馬御崎森
大井御崎
宇部尾御崎國常立尊なり松を神木とせり
本庄御崎森三ヶ所あり

秋鹿郡

村名名称祭神記事
江角御崎山

意宇郡

村名名称祭神記事
矢田御崎神社三尺四方の小社なり、勧請年歴しれす
佐草御崎社
福留笠御崎神號いまた考す

能義郡

村名名称祭神記事
吉佐御崎山民舎より東の方六町ばかりなり
早田御崎森

仁多郡

村名名称祭神記事
佐白御崎森
横田劔御崎
鉾御崎神系しれす、祠二尺はかり元禄十一年建立棟札あり
石原御崎森由来いまた考す、里人御崎ふろといふ世俗森をふろと號す
石村御崎明神【風土記】に載る石壺社なり、本社五尺四方、元和五年栄作の棟札あり、祭日九月九日比處を山の神谷といふ

ここの記載の石壺社は、現在の石壺神社(雲南市木次町平田)ではなくて、雲南市木次町平田の日御碕神社だと思われます。

大原郡

村名名称祭神記事
小川内御先之社

飯石郡

村名名称祭神記事
朝原御崎森

出雲郡

記載無し。

楯縫郡

村名名称祭神記事
奥宇賀御崎秋不時にまつる
口宇賀御崎森二ヶ所
平田御崎
西代御崎
西林木御崎伊努谷明神の境内なり
川下御崎

神門郡

村名名称祭神記事
大津御崎社なし古松を神とまつる
稗原御崎老樹森々たる所を神の鎮座とす
鷺浦御崎社
三部御先社大田命をまつる三月種祭といふあり、五穀豊稔諸民和楽を祝延す
一窪田御先社猿田彦神をまつる祭日不定

ここの大田命は、猿田彦神と思われます。猿田彦神の別名として、太(大)田命・底度久(ソコトク〕御魂、都夫多都(ツブタツ)御魂、阿和佐久(アワサク)御魂とされています。

『雲陽誌』の御崎神まとめ

〇祭神が不明のところが多い。

〇木や森を祭祀対象とするのが多い。

〇島根郡では、「御前神」とともに祭神を國常立尊としているのが多い。

國常立尊は、『日本書紀』本文では天地開闢の際に出現した最初の神であり、『古事記』では、神世七代の最初の神であり、始原の神(一番先の神)との位置づけなのかもしれません。

〇神門郡では、御先社として、猿田彦命を祭神としているところが二か所あります。これも、岬神として猿田彦命かもしれませんが、御先神という始原の表現であるとも採れます。

〇江戸中期の『雲陽誌』では、日御碕神社との関連は見れませんが、幕末から明治にかけて、御崎神社=日御碕神社として天照大御神を祭神として位置づけられた可能性もあります。

『出雲国風土記』の御崎神

『雲陽誌』の時代から、1000年さかのぼった奈良時代に書かれた『出雲国風土記』(733年)を見てみます。

『出雲国風土記』では、出雲郡のみに御崎神の社が3社記載されています。

神祇官社    美佐伎社 

不在神祇官社  御前社
        同御埼社

この「美佐伎社」は、延喜式では「御崎社」とされていまして、現在の日御碕神社の素盞嶋尊を祀る神の宮(かんのみや)とされています。日御碕神社のもう一社である日沉宮(祭神 天照大御神)は、上記2社ではなく、不在神祇官社の「百枝槐(ももええにす)社」だとされています。

出雲郡は、企豆伎や阿受支社など、同名の神社が多いところであり、不在神祇官社の御前社・御埼社も、美佐伎社と同系の神社だったかもしれませんし、あるいは漢字が違うので、別系であったのかもしれません。

日御碕の地形─岬による神社名だと安直に考えると思いますが、そうであるならば、岬のあるところには、どこでも御崎神社があってしかるべきですが、出雲郡しか見られません。

ただ、日が沈む祭祀場の特別な岬だとはいうことができます。また奈良時代には、西は、出雲大社の後ろの山から、旧平田市の旅伏山までを、出雲御埼山(いづもみさきやま)と呼んでいました。

民俗学のミサキ神

柳田国男氏は、『みさき神考』で、ある地域では、動物をミサキと呼び、またある所では、ミサキ神を祟り神として言うなどのミサキ神の多様性について述べています。

それほど、ミサキ神は地域によって多種多様です。

民俗学でいうミサキ神の主なものをまとめてみました。

①貴人などの先に立って道案内や先導をミサキと呼ぶ場合

『古事記』に「天つ神の御子天降り坐すと聞きつる故に、御前(みさき)に仕へ奉らむとして」とあります。

天孫降臨神話の中で、猿田彦命が、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)を高千穂に道案内した際のことです。道案内や先導ということばを、「御前」(みさき)と表現しています。

柳田国男氏も、古語のミサキ神をこのように述べています。

古語のミサキのもとの意味はほゞわかっている。海に突出する陸地の先端を、ミサキというのもいつの語かと思うが、それだけは暫く別にして、通例使われるのは行列の前に立つこと、漢語で先鋒などと書くのが相当し、無論軍隊の場合だけに限っていない。ミサキのミは多分敬語であろうから、その後に続くのは従者でなく、必ず尊き方々と解せられたことと思う。そういう中でも神々の行動は、肉眼をもって見ることは能わず、且つ又常識によって測定することができぬとしてあったが故に、殊にミサキ神が重要視せられていたのである。

※ 現代仮名遣いに直しました。

柳田国男『みさき神考』

先導する神をミサキ神と呼び、主賓の神そのものではないという話です。神社のお祭りのおみこし渡御でも、、赤面で鼻高の天狗様の面を被る猿田彦命のような、先導をする神のことです。そういう意味では、『雲陽誌』の神門郡の御先神は、この概念には適合しています。

また、猿田彦命を神霊の先導とする考えは、視点を変えれば、人間界と神霊界(あるいは地上世界と天上世界)との境界・橋渡しとも言えます。

②動物をミサキと呼ぶ場合

神の使いとしての動物です。例えばミサキガラスです。単にミサキと言って、祭りの日に飛んで来て供物を咥えて行く鳥を呼ぶ地域もあるようです。

みさき‐がらす【御先烏】

〘 名詞 〙神霊の使わしめとしての烏。山の神の使わしめという。また、墓前の供物に群がるところから邪霊の代表のようにもいわれる。

精選版 日本国語大辞典

神は人間の目には見えないので、神の来臨を動物の姿をもって、兆候を知るということです。

意をもって迎える者に取っては、これを一種の神の啓示としか解せられず、従って又彼らを神慮の伝達者とする信仰が、いとも容易に成長し得たのかと思う形跡がある。

柳田国男『みさき神考』

③変死した霊をミサキと呼ぶ場合

特に、西日本地方(瀬戸内海周辺)で使われるミサキ神です。

主として、人間の非業の死を遂げて、祀り手もないような凶魂を意味する。山ミサキ・川ミサキはおのおのその最後の場所近くをさまようて通行の人を悩まし伊勢・土佐の七人ミサキなどは、一組七人の数を超えないと、故参の一人が成佛することが出来ぬので、いつも新たな仲間入りを狙っているなどと、気味の悪い話ばかり伝わっている。

柳田国男『みさき神考』

事故死などで、あの世に成仏できなくて、あの世とこの世の境を浮遊する霊ということを考えれば、この世に未練をもった霊も境界の霊ともいえるのでしょう。背景に人間の霊をミサキ神として祀ることによって、災いが以後起きない、ミサキ神がたたらないとする信仰があるのかもしれません。

吉備津神社の御崎神社

吉備津神社 岡山県岡山市北区吉備津931

平安末期の後白河天皇の撰になる今様歌謡集『梁塵秘抄』の中に、
 「一品精霊(いっぽんしょうょう)吉備津宮、新宮・本宮・内の宮、隼人崎(はやとさき)、北やの神客人(かみまろうど)、艮(うしとら)みさきは恐ろしや」とあります。

「艮みさき」というのは、吉備津彦征伐された鬼神とされる温羅(うら)の精霊とされています。本殿外陣の東北(艮)隅には「艮御崎神」として温羅と王丹(弟)が祀られています。吉備津神社の釜殿は、征伐された温羅の精霊に由来します。

吉備津神社 本宮社  

御崎社が2社も祀られています。御崎社には犬養健神、眞布留神、宇慈香比古神と共に温羅神が祀られています。

祟り神として、古い時代からミサキの言葉を使用してきたのではないかと思われます。

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