吉備津神社 岡山県岡山市北区吉備津931
主祭神 大吉備津彦大神

温羅は出雲族と書くと、「温羅は百済の鬼で出雲族じゃないわ!」という批判の声が聞こえてきそうですが、温羅の鬼退治神話は、後世に創られた物語であり、史実というのは疑わしいです。
さて、一般に「出雲王国」といえば、島根県東部――出雲市や松江市・安来市あたりの地域を思い浮かべる人が多いでしょう。またある人は、四隅突出型墳丘墓の分布をもって、出雲王国は日本海沿岸部をイメージするのでしょう。
しかし、『古事記』や『日本書紀』に描かれる「出雲王国」つまりは「葦原の中津国」は、それほど狭い範囲を指してはいません。
大国主命(大穴牟遅神)が統治したとされる「葦原の中つ国」は、日本列島の広い範囲に及び、山陰から山陽や近畿地方、さらには九州地方にまで出雲族の影響が広がっていた可能性があります。
つまり、「出雲族」とは、島根県東部だけに住んだ血族ではなく、弥生時代から古墳時代の初期にかけて日本各地に分布した宗教的な共同体だったとも考えられます。
吉備王国の起源 「倭国大乱」時代
『古事記』の記載 吉備国の平定
『古事記』に記述される7代天皇 孝霊天皇の御子たちの系図

この系図には入れてはいませんが、孝霊天皇の兄に「大吉備諸進命」(おおきびもろずみのみこと)がいます。
また、吉備とは直接関係ありませんが、「日子寤間命(ひこさめまのみこと)」(『日本書紀』では彦狭島命)は、伯耆国の鬼退治で、孝霊天皇とともに登場します。)
第7代の天皇である孝霊天皇の御子の「彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)」と「若(日子)建吉備日子命(わかひこたけきびつひこのみこと)」が吉備地方に派遣され平定したと『古事記』には書かれています。
大吉備津彦の命と若建吉備津日子とは、二柱相副ひて、※針間の氷川の前に※忌瓮を居ゑて、※針間を道の口として、吉備国を言向け和したまひき。
『古事記』倉野憲司 校注
※針間…播磨の国(兵庫県) ※忌瓮を居ゑて…正常な瓶を置いて神を祭り行旅の無事を祈って。
※針間を道の口として、吉備国を言向け和したひき…播磨の国を道の入り口として吉備の国を平定された。
その「忌瓮を居ゑて」いた場所は、兵庫県加古川駅前にある播州信用金庫のあるところだといわれてきました。(そこには昭和46年6月まで居屋河原神社、通称大鳥居神社がありましたが、現在は日岡神社に境内に移されています。)
しかし、「吉備国の平定」とありますが、吉備の兄弟が来る前は、だれが治めていたのでしょうか?古事記にはそのことは全く描かれていません。入口の播磨国の風土記には、出雲の葦原志許乎命(大己貴神の別称)の神話や天日槍命と出雲神の争いが描かれている所を見ると、出雲族が治めていたと考えられます。
『日本書紀』の記載 【四道将軍の派遣と出雲神宝問題】
『日本書紀』にも、孝霊天皇の御子が名前の表現が微妙に違うものの、ほぼ『古事記』と同じように書かれています。
しかし、吉備津兄弟(彦五十狭芹彦命・稚武彦命)の吉備地方の派遣のことは書かれていません。(稚武彦命=若(日子)建吉備日子命とされる。)
吉備津彦命はだれか
吉備津彦神社 岡山県岡山市北区一宮1043
主祭神 大吉備津彦大神

『日本書紀』に書かれているのは、第10代目の崇神天皇の項で、四道将軍のひとりで「吉備津彦」が登場します。
四道将軍
九月九日、大彦命を北陸に、武淳河別を東海に、吉備津彦を西海に、丹波道主命を丹波に遣わされた。詔して「もし教えに従わない者があれば兵を以て討て」といわれた。それぞれ印綬を授かって将軍となった。
全現代語訳『日本書紀(上)』 宇治谷 孟 講談社学術文庫
『古事記』では、武淳河別も吉備津彦も皇族として描かれているのに、なぜだか「命」(みこと)の称号がはずされています。
吉備津彦はいったいだれかということですが、兄の「大吉備津彦」なのか、異母兄弟の弟の「稚武彦命」なのか、歴史や神社伝承の世界でも、はっきりしません。また二人を合せて、吉備津彦命なのか、あるいは、子も含めて、言った象徴の名前なのかもしれません。
吉備の出雲攻めとして解釈される出雲神宝事件
神宝
六十年七月十四日、群臣に詔して「武日照命の、天から持って来られた神宝を、出雲大神の宮に収めてあるのだがこれを見たい」といわれた。矢田部造の先祖の武諸隅を遣わして奉らせた。この時出雲臣の先祖の出雲振根が神宝を管理していた。・・・中略・・・ここに甘美韓日狭・鸕濡淳は朝廷に参って、詳しくその様子を報告した。
全現代語訳『日本書紀(上)』 宇治谷 孟 講談社学術文庫
そこで吉備津彦と武淳河別とを遣わして、出雲振根を殺させた。
ここに登場する出雲大神の宮は、よく出雲大社(杵築大社)として解釈され、吉備国の出雲への侵攻と解釈されることが多いです。しかし、出雲地方の伝承地は、出雲大社というよりは、雲南市三刀屋町や加茂町が舞台地です。「出雲大神の宮」とは出雲大社ではなく、三屋神社か神原神社の辺りだったのかもしれません。
詳しくは → 出雲振根命と神宝事件
初代の吉備王はだれか? もともと吉備族は出雲族の親戚
吉備王の墓とされる楯築墳丘墓(2世紀後半)の墳頂 岡山県倉敷市矢部

出雲VSヤマト王権みたいに考える歴史家が多いですが、『古事記』や『日本書紀』をよく読むと、出雲族が初期ヤマト王権をいっしょに作ったとしか思えません。はあ?と思う方は、こちら→ 初期ヤマト王権と出雲族
この理屈からすると第7代孝霊天皇や吉備津彦命にも出雲族(事代主神の)の血が流れているということになります。
ただ、第8代天皇までの時代は、「欠史八代」と言って巨大な前方後円墳もない時代であり、史実ではない、古墳時代の幕開けを持ってヤマト王権というのが古代史界の解釈です。
さて、初代の吉備王がだれなのかということですが、『古事記』や『日本書紀』の文面からすると、孝霊天皇の皇子の「彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)」と「若(日子)建吉備日子命(わかひこたけきびつひこのみこと)」のどちらかということになります。
しかし、伯耆国(鳥取県西部)の神社伝承では、孝霊天皇自らが、皇子の歯黒王子(彦狭島命)や鶯王と共に戦い鬼退治を果たしたとあります。(詳しくは 孝霊天皇の鬼退治 )
だから、先の吉備津兄弟だけではなく、孝霊天皇も一緒に大和から侵攻したと考えられ、初代の吉備王が孝霊天皇だった可能性もあります。
それを裏づけるように鳥取県西部や広島県府中市には、孝霊天皇のお墓の伝承地があります。
孝霊天皇の陵墓がある樂樂福神社(ささふくじんじゃ) 鳥取県西伯郡伯耆町宮原225

『古事記』や『日本書紀』は、天皇が直接戦場におもむくのを記述するのは、はばかる傾向があるので、実際大和で命令を発していただけではないと思われます。(第12代の景行天皇が九州に征伐にでかけたことを考えると吉備地方や伯耆地方ははるかに近い。)
しかし、楯築墳丘墓を吉備王とすると年代(弥生時代後期)から考えれば、孝霊天皇や吉備津彦兄弟よりもちょっと前の時代にも吉備王がいた可能性も考えられます。吉備の中山の大吉備津彦命の陵墓とされている中山茶臼山古墳(4世紀前半)と楯築墳丘墓(2世紀後半)との時代を比べると100年以上の開きがあります。
吉備王の墓・楯築墳丘墓と出雲王の墓・西谷墳丘墓
少しずつ加筆更新してまいります。
