『尾張国風土記』に登場する多具國

 

『古事記』に載っているホムチワケ伝承では、出雲国の出雲大神(葦原色男大神いわゆる大国主命)を拝むことで、垂仁天皇のホムチワケ皇子がしゃべれるようになった話になっている。

 

しかし、『尾張国風土記』(逸文)のホムチワケ伝承では、また別の国と神がが登場する。(ちなみに『日本書紀』では、くぐい(白鳥)を捕まえて、皇子がくぐいと遊んだだけでしゃべりだすようになる。)

 

尾張国 風土記逸文  (『釈日本紀』卷十)

 

“吾縵(あづら)郷

 

 尾張風土記の中巻にいう。丹羽郡。吾縵郷。巻向の珠城の宮で天下を治める天皇(垂仁天皇)の世、品津別(ほむつわけ)皇子は、七歳になっても言葉を発することが出来なかった。その理由を広く臣下に尋ねたが、はっきりとわかるものがいなかった。

 

その後、皇后の夢に神が現れた。お告げに言う。「我は、多具(たく)国の神で、名前を阿麻乃弥加都比女(あまのみかつひめ)という。我には祭祀してくれる者が未だにいない。

 

もし我のために祭祀者を当てて祭るならば、皇子は話すことができるようになるだろう」。

 

天皇は、霊能者の日置部等が先祖に当たる建岡の君を祭祀者に指名して、(彼が神の求める祭祀者であるか否かを)占うと吉と出た。そこで、神の居場所探しに派遣した。ある時、建岡の君は、美濃国の花鹿山に行き着き、榊の枝を折り取って、縵(かづら)に作って、占いをして言う。

 

「私が作った縵が落ちた所に、必ず探す神がいらっしゃるだろう」。すると縵がひとりでに飛んで行き、この吾縵郷に落ちた。この一件でこの地に阿麻乃弥加都比女の神がいらっしゃることがわかった。そこで社を建てて神を祀った。

 

(「吾が作った縵」という建岡の君の発言によって)社を吾縵(あがかずら)社と名付け、また里の名に付けた。後世の人は訛って、阿豆良(あづら)の里といっている。” 『風土記 上』 中村啓信 監修・訳注  (角川ソフィア文庫)

 

ホムツワケ伝承で垂仁天皇が祭祀を行なう出雲の神が違っているのだ。

 

『古事記』では 葦原色男大神(あしわらのしこおおおかみ) 
                      いわゆる大国主命

 

『尾張国風土記』では 多具(たく)国 阿麻乃弥加都比女(あまのみかつひめ)

 

もしかすると、阿麻乃弥加都比女(天𤭖津日女)は大国主命以前の出雲大神だったのだろうか?

 

多具国(多久国)は、出雲国の部分か全体か

 

出雲国風土記にみられる「多久」の伝承地   ※松江市の多久川は現在の講武川

 

 

 

このことに照応するように、『出雲国風土記』(733年)の秋鹿郡には、「天𤭖津日女命」(あめのみかつひめ)が、登場する。そして、楯縫郡・島根郡には、多久社という神社名があり、島根郡、楯縫郡には多久川という同じ名前の違う川が流れていた。

 

また天𤭖津日女命の夫神である意美豆努(おみずの)の命の御子、赤衾伊努意保須美比古佐倭気能命(あかぶすまいぬおおすみひこさわけのみこと)の関係する出雲郡伊努郷(いぬごう 元の字は伊農)や秋鹿郡伊農郷(いぬごう)がある。

 

天𤭖津日女命が直接、間接的に関係する出雲郡伊努郷から楯縫郡、秋鹿郡、そして島根郡の多久川付近までは、島根半島の中央部に位置する。

 

『尾張国風土記』が言うところの「多具(たく)国」がどこの地域を指すかであるが、秋鹿郡から島根郡にかけての多久川周辺の場所か、楯縫郡の多宮村をさすかと、今まで考えられてきた。

 

しかし、もっと視点を変えると、出雲国の小さな一部分では無く、律令体制後に出雲国と呼ばれる前に、広く出雲国全体を「多具国」と呼ばれていた可能性はないのかとの考えが浮かんできた。

 

『出雲国風土記』の多久は何を意味するか

 

まずは、『出雲国風土記』楯縫郡の総記の記事である。

 

〝楯縫と名づけるわけは、神魂(かむむすひ)命がおっしゃられたことには、「わたしの十分に足り整っている天日栖宮(あめのひすみのみやの縦横の規模が、千尋(ちひろ)もある長い栲紲(たくなわ)を使い、桁梁(けたはり)を何回も何回もしっかり結び、たくさん結び下げて作ってあるのと同じように、

 

この天御量(あめのみはかり)をもって、所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)の住む宮を造ってさしあげなさい。」とおっしゃられて、御子の天御鳥(あめのみとり)命を楯部として天から下しなさった。

 

そのとき天御鳥命が天から退き下っていらして、大神の宮の御装束としての楯を造り始めなさった場所がここである。それで、今にいたるまで楯や桙を造って神々に奉っている。だから楯縫という。〟(島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版) 

 

ここで、杵築大社の創建神話が語られる。

 

神魂命が、御子の天御鳥命に命じて、「拷紲(たくなわ)を使って結び、宮をつくりなさい。」宮の御装束としての楯を造り始めたので、楯縫郡だと言う。

 

重要な点では、杵築大社を作るように命じたのは、高魂命(高木神)や天照大御神ではなく、神魂命である。

 

ここには、栲紲(たくなわ)が出てきた。これは、「多久」と関係がないのだろうか。

 

栲(たく)とは

 

『精選版 日本国語大辞典』(小学館)によると、

 

〘名〙 植物「かじのき(梶木)」、または「こうぞ(楮)」の古名。

 

[語誌](1)カジノキとコウゾは古くはほとんど区別されていなかったようである。中国では「栲」の字はヌルデを意味する。「栲(たく)」は樹皮を用いて作った布で、「タパ」と呼ばれるカジノキなどの樹皮を打ち伸ばして作った布と同様のものとされる。

 

コウゾとは梶の木は別のものらしいが、日本の古代においては同じく栲(たく)の言葉が使われたようである。

 

楯縫郡の神名樋山の記事で、阿遅須枳高日子命の御妃が、天御梶日女命(あめのみかじひめのみこと)で、多伎都比古命を多宮村(たくむら)で生んだという話があるが、あの梶と言う字も、この「栲」(たく)を暗示していないだろうか?

 

ただ、天御梶日女命と天𤭖津日女命が同神だと言われているが、おじいさんと孫の御妃が同じというのはいかがなものか。

 

多久都玉命との関係

 

多久神社 島根県松江市鹿島町南講武602番地  祭神は天𤭖津日女命

 

 

『新撰姓氏録』(815年)の爪工連の氏族系譜に、神魂命の御子に「多久都玉命」が登場する。

 

左京神別天神爪工連 神魂命子多久都玉命三世孫天仁木命之後也

 

丹波には出雲国にある多久神社と同じ名の神社ある。

 

また対馬島に多久頭神社があり、この神社も現在別の神を祀っている。

 

さらに大和国に、石園座多久虫玉神社があり、ここも別の神を祀っている。

 

この三社とも、本来は古代豪族 紀氏の祖・多久都玉命が祭神であるという説も強い。

 

中田憲信編『諸系譜』 第4冊に、紀氏の末裔の「望月」系図なるもの(30ページ)がある。→ 国立国会図書館デジタルコレクション 『諸系譜』 第4冊
(望月氏は、紀氏系の滋野氏の末裔である。)

 

この系図で見ると、多久豆魂命(多久都玉命)は神魂命の子では無く、孫となっている。

 

そして、娘に素戔嗚命の妃神「大矢女命」、孫になんと天火明命の后神の「天道日女命」(『先代旧事本紀』では、事代主命の妹)と、楯縫郷に楯部として天下ったとされる天御鳥命が並列に記載されている。(紀伊国造家の祖とされる天道根命は、この天御鳥神の子となっている。)

 

『出雲国風土記』楯縫郷の総記に登場する杵築大社創建神話では、天御鳥命はとなっているが、この系図では五世孫である。

 

どちらにせよ多久豆魂命も天御鳥命も神魂命の系統である。出雲の女神、天道日女命や素戔嗚命の御妃である大矢女命も系図に書かれていることを見ると、これはどこか近畿の話では無く、出雲国の話であるようだ。
天神は出雲神と対立するものであるという発想からすると理解しがたいかもしれないが、紀氏の源が出雲国の東部にあったとするならばこの系図も不思議では無い。

 

松江市大庭町には神魂神社がある。現在は、伊邪那美命を祀っているが、神社名の名の通り、神魂神が本来の祭神であったかもしれない。

 

多久という地名に神魂命が関係しているようである。次に天𤭖津日女命がどういう神なのか考察していく。

 

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