島根県松江市に内(うち)神社があります。

 

『出雲国風土記』(733年)にも「宇智社」(うちのやしろ)として載っている古社です。
奈良県にも同名の神社、宇智神社(奈良県五條市今井町4丁目)があります。この神社もまた式内社であり古社です。

 

奈良の宇智神社は、元々は、「内臣」(うちおみ)の氏神を祭る神社だったのではないかと言われています。
となれば、島根県の内神社も元々は、内臣と関係していたのではないか、という仮説から考えてみます。

 

内神社  島根県松江市大垣町746

 

 

 

内臣とは何か?

 

内臣は、ピンとこない方も多いかもしれません。
しかし、「武内宿禰」(たけうちのすくね)を産んだ氏族と言えば、すぐわかると思います。

 

太田亮 著 『姓氏家系大辞典 第一巻 657ページ( 国民社 発行)の抜粋です。

 

内 ウチ 太古以来上古に栄し大族なり。
1 内臣 大和国宇智郡より起る、延喜式当郡に宇智神社を載せたり、その鎮座地・蓋し此の氏の発祥地なるべし。
孝元天皇子彦太忍信命の後なり。即ち姓氏録大和皇別に「内臣、孝元天皇皇子彦太忍信命の後也、」と記載す。その子屋主忍男武雄心命(武猪心命)は味師内宿禰・武内宿禰の父なり。但し古事記には二人を比古布都押之信命の子とす。

 

味師内宿禰・武内宿禰が共に内と云ふは、此の内家の人なればなり。

 

味師(ウマシ)武(タケシ)は共に美称なり。即ち武内宿禰とは「内家の勇武の方」なる意に外ならず。

 

奈良時代は内神社が鎮座していた本宮山の頂上の説明板  後に紀氏の末裔 大野氏が築城した。

 

 

 

『古事記』に見る系図

 

『日本書紀』では、味師内宿禰(うましうちのすくね)、武内宿禰(たけうちのすくね)の祖父が、彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)が祖父となっていますが、『古事記』では、父となっています。

 

『古事記』の内臣の系図

 

 

物部氏の祖神の布都(フツ)

 

『古事記』の系図には、3つの古代豪族 物部氏、尾張氏、紀氏(木国造)が関係していることが書かれています。

 

おそらく、比古布都押之信命(ひこふつおしのまことのみこと)の「布都」は、母の伊迦賀色許売命の母族である物部氏の祖神 布都大神に由来すると思われます。(ちなみに『出雲国風土記』にも意宇郡楯縫郷・山国郷に「布都努志命(ふつぬしのみこと)」が登場します。)

 

伊迦賀色許売命は、穂積臣等(穂積臣は、物部氏の原型とされる)の祖 内色許男命(うつしこをのみこと)の娘です。

 

葛城国造 2系  高群逸枝説

 

『古事記』においての系図は、孝元天皇が物部氏の御妃 伊迦賀色許売命との婚姻で、皇子 比古布都押之信命を生み、その皇子が、葛城の高千那毘売命(尾張連の祖)の間で味師内宿禰(うましうちのすくね)と、木(紀伊)国造の宇豆比古の妹の山下影日売との間に武内宿禰を生んだ話です。
その内臣の産んだ葛城氏の高群逸枝氏の分析の抜粋です。(『母系制の研究(上)』 講談社文庫 より)

 

葛城直を母族として生じた祖変の中で、最大のものは、前述の如く火明命系の尾張氏と、武内宿禰系の葛城氏とであるが、尾張氏も初めは母氏を承けて葛城氏と称し、また母居たる葛城の地にいたのであることは、天孫本紀の尾張氏系譜に委しく見えている通りである。

 

兄武内宿禰を讒言して成らず、兄の為に殺されんとしたのを、天皇ゆるし給うて、紀伊直等祖に奴隷として賜ったと云うのであるが、紀伊直は武内宿禰の母家である。思うにこれは互の母家たる紀伊直家と葛城直家との闘争であり、また葛城直家所生族中の二系たる火明系と武内系との紛争でもある。
 かくて、火明系は尾張に移住して尾張連と称し、葛城の地は葛城襲津彦の所有に帰した。

 

 

 

出雲の高照姫命が味師内宿禰のいにしえの母祖

 

奈良の葛城の尾張氏を母族とする味師内宿禰(うましうちのすくね)は、出雲の高照姫命とつながることになります。
尾張氏の始祖 火明命の御妃が、大国主命の娘である高照姫命だからです。詳しくは、→ 高照姫命と出雲族

 

 

たまきはる宇智の大野

 

万葉集の歌です。

 

たまきはる 宇智(うち)の大野に  馬並(うまな)めて
朝踏ますらむ  その草深野

 

なぜこの万葉集の歌が浮かぶのかというと、出雲の内神社の麓の郷が、奈良時代には大野郷であったからです。
現在も、古代地名を引き継いで、「大野町」があります。
しかし、出雲の大野郷(おおのごう)のことを詠ったものでは当然ありません。奈良の宇智郡の場所とされています。

 

歌の一般的解釈

「天皇の宇智の野に遊猟したまへる時、中皇命の間人連老はしひとのむらじおゆをして献らせたまふ歌」の反歌です。舒明天皇(じょめいてんのう)が狩りに出られる様子を詠ったものとされ、中皇命(なかつすめらみこと)は、皇后である斉明天皇でないかとも云われています。

 

ここでの「宇智」は、宇智神社のある奈良県五條市の地名とされ、「宇智の大野」とは、宇智の広々とした大きな野原と解釈されています。
ただ「うち」そのものが、天皇を指す場合もあり(たとえば内裏、大内に使われる「内」)、ここの大野も現代語のように大野を理解していいものか、一度考えても良いように思います。

 

全国の大野郷

平安時代の『和名類聚抄』を見てみると、全国に「大野郷」があるようです。(順不同)
何かつながりがあるのか不明ですが、出雲の大野郷は、万葉集の歌と同じように「狩場である野」という共通点があります。

 

①紀伊国 名草郡 大野郷②阿波国 那賀郡 大野郷③讃岐国 香川郡 大野郷④讃岐国 三野郡 大野郷
⑤土佐国 吾川郡 大野郷⑥筑前国 怡土郡 大野郷⑦筑前国 御笠郡 大野郷8筑後国 築城郡 大野郷
⑨豊後国 大野郡 大野郷⑩上野国 山田郡 大野郷⑪下野国 那須郡 大野郷⑫陸奥国 菊多郡 大野郷
⑬加賀国 石川郡 大野郷⑭越中国 礪波郡 大野郷⑮佐渡国 賀茂郡 大野郷⑯丹後国 丹波郡 大野郷
⑰因幡国 巨濃郡 大野郷⑱出雲国 秋鹿郡 大野郷⑲美作国 英多郡 大野郷⑳美作国 苫西郡 大野郷
㉑備後国 深津郡 大野郷㉒周防国 玖珂郡 大野郷㉓山城国 愛宕郡 大野郷㉔駿河国 志太郡 大野郷
㉕甲斐国 山梨郡 大野郷㉖上総国 海上郡 大野郷㉗常陸国 信太郡 大野郷

 

『出雲国風土記』における大野郷

 

 

本宮山(ほんぐうさん) 出雲国風土記時代は、女心高野(安心高野の説もあり)と呼ばれ、内神社があった。

 

 

 

『出雲国風土記』(733年)の記述です。
「宇智の大野」を舞台とした万葉集の歌と同じく、「狩り」の話です。
狩りをするのが、舒明天皇ではなく、和加布都努志(わかふつぬし)能命です。

 

「大野」の元の言葉が、「内野」であり、イノシシの足跡が「失せた」から、「内(うち)」が語源であるという。

 

大野(おおの)郷

 

郡家の正西一十里二十歩の所にある。和加布都努志(わかふつぬし)能命が狩りをなさったときに、郷の西の山に狩人をお立てになって、猪を追って北の方にお上りになったが、阿内谷(くまうちのたに)に至ってその猪の足跡がなくなってしまった。そのときおっしゃられたことには、「自然と猪の足跡が失せてしまった。【原文・・・亡失(う)せき】」とおっしゃられた。だから内野という。それが、今の人は誤って大野と呼んでいるだけである。( 『解説 出雲国風土記』 島根県古代文化センター [編]  今井出版)

 

この和加布都努志(能)命ですが、出雲郡の美談郷にも登場します。
この記事によると、「天と地が初めて分かれた後に天御領田(あめのみた)の長」という役職であるといいます。
天地が分かれた時、天領があるとは思えませんが、いつの時代か、ヤマト王権の直轄地か、いにしえにも神戸(かんべ)のような特定の神に奉納する稲田があったのでしょうか。

 

美談(みたみ)郷。

 

郡家の正北九里二百四十歩の所にある。所造天下大神の御子、和加布都努志(わかふつぬし)命が、天と地が初めて分かれた後に天御領田(あめのみた)の長としてお仕えなさった。その神が郷の中に鎮座していらっしゃる。だから、御田(みた)を見る神の意で三太三という。〔神亀三年に字を美談と改めた。〕この郷には正倉がある。( 『解説 出雲国風土記』 島根県古代文化センター [編]  今井出版)

 

内神社の社伝

 

内神社 一の鳥居 鳥居の奥に、本宮山が見える。

 

 

 

大正11年7月20日発行の『島根県秋鹿村誌』(奥原 福市著 秋鹿村教育会 発行)の抜粋です。

 

内ノ神社 出雲国八束郡秋鹿村大字大垣字高ノ宮鎮座
一、祭神  和加布都努志命
       下照比賣命

 

二、御鎮座 当社は風土記二所謂女嵩野山ノ山腹二在リテ、天下造ラシ、大国主大神ノ御子、和加布都努志命ノ此山ニテ御狩シ給ヘリシ御由緒二依リテ鎮座シ給ヘリ。
  又、同ジ大神ノ御子高姫命(亦名下照比賣命亦名雅国玉神亦名阿陀加夜奴志多伎吉比賣命亦名大倉比賣命)ㇵ素ヨリ此山二座シ、神ナルカ故二、同シク当社二祀レルナリ。

 

  亦此神座セル故二、古来女嵩野ノ山彙ヲ総称シテ、別二高野山或ハ芦高山ㇳ呼ビ、随テ、当社ヲ高野宮又ㇵ、蘆高宮(八束郡出雲郷村阿陀加夜神社ㇵ即チ、阿太加夜奴志多伎吉比賣命ニ座シ明治維新マテ蘆高大明神ト称セリ)トモ称シ奉ル、
  (補。現今モ普通高野宮ト汎称セリ)

 

※所謂 いわゆる  
※女嵩野山(めだけぬやま)  『出雲国風土記』には、「女心高野」(現在の本宮山)とある。 「安心高野」(あしむたかの)と説もあり。
※山彙(さんい) 山の集まり 

 

祭神の筆頭が、出雲国風土記に登場する大国主命の御子、和加布都努志命(わかふつぬしのみこと)です。
そしてもうひとつの祭神が、下照姫命(しもてるひめのみこと)です。

 

この下照姫命の別名が、

 

①高姫命(たかひめのみこと)
②稚国玉神(わかくにたまかみ)
③阿陀加夜奴志多伎吉比賣命(あだかやぬしたきつひめのみこと)
④大倉姫命(おおくらひめのみこと)

 

と4つも書かれており、少々びっくりします。

 

下照姫命と4つの神名が全く同じものかどうか真偽は、どうかわかりませんが、
内神社のことを「高野宮」と呼ぶ由来は、「高姫」の宮から来ていることがわかります。

 

内臣の祖と名前が似ている?

 

ここで、祭神の名前と、ヤマト王権の孝元天皇の御子の名前が非常に似ていることに気づきます。

 

内神社の祭神 「和加布都努志命(わかふつぬしのみこと)」
内臣の祖   「比古布都押之信命(ひこふつおしのまことのみこと)」

 

内神社の祭神 「姫命(たかひめのみこと)」と
葛城の    「千那毘売命(たかちなひめのみこと)」(味師内宿禰の母)

 

 

ただ名前が似ているだけかもしれません。
『古事記』の記述に、出雲の伝承が影響したのか、あるいは、出雲の伝承が『古事記』の影響を受けたのか、
何も証明するものはなにもないですが、ただ不思議です。