塞の神の原像(3)弓浜半島におけるサイノ木信仰

妻木晩田遺跡(むきばんだいせき)から望む弓浜半島

 

 

『出雲国風土記』(733年)には、三穂之崎(現在の美保関)を引き寄せた綱が「夜見嶋」(現在の弓ヶ浜半島)であると書かれている。

 

行き寄せた綱というぐらいだから、島と言っても、奈良時代には一本の半島のごとくつながっていたのかもしれない。

 

名の通り弓のように美しい円弧を描く半島である。

 

ここ弓浜半島では、近世においてサイの木信仰が盛んで、いろいろな場所に神木であるサイの木があったようである。

 

 

財ノ木町(さいのきちょう)の才ノ木

 

鳥取県境港市財ノ木町

 

さいの神の原像(3)弓浜半島におけるサイノ木信仰

 

昭和56年財ノ木町設立の町名の由来ともなった黒松である。財ノ木町文化会館前にある。地元では「ポンポ松」と呼ばれている。古い外浜街道筋にあり、360年以上を経た松と言われ、平成4年6月10日に境港市指定文化財の指定を受けていた。
しかし、残念ながら倒木し、指定は取り下げられていた。表示板の後ろに平成21年4月に指定の解除が記載されている。境港市観光協会ホームページや本に載っている逆くの字の立派な屈曲した姿はもうそこにはない。(谷戸貞彦著『幸の神と竜』 大元出版215ページ)

 

現在のサイノカミの神木は、元々の黒松から生まれたものである。

 

幸神神社

鳥取県境港市幸神町906-5

 

 

現在の幸神神社が鎮座する幸神町(こうじんちょう)は、佐斐神地区民家集団移転事業により造成された新興住宅地であり、昭和54年(1979年)6月1日より誕生した。

 

ここの幸神神社は、もとは佐斐神町(さいのかみちょう)に鎮座していた。

 

その佐斐神町であるが、『伯耆民談記』(1742年)には、「才ノ木村」とある。ゆえに才の木があったことを示している。

 

また『伯耆誌』(1850年)には「村の西北松林中に道祖神サイノカミの祠あり、村名これに起る」と記述されている。寛政八年(1796年)会見郡神社改帳には「佐斐神村、幸神、三尺四方、三間、三間半、村の北」とある。

 

しかし、『鳥取県神社誌』(昭和10年)によると

 

祭神
猿田彦命、宇受売命、事代主命、素盞鳴命、綿津見命

 

由緒

 

創立年月不詳ならざれども、明和六年の棟札あり。

 

三寶荒神宮と号せしを明治元年神社改正の際蛭子神社と改称、青木神社へ合祭。

 

明治12年復旧存置せしが、同42年2月青木神社に蛭子神社を合祀、社号を幸神神社と改称す。

 

青木神社の創立年月も不詳、唯寛永3年11月修復以後の棟札あるのみ。

 

「三寶荒神宮」ということで、サイノカミ(青木神社か?)に神仏習合のサンポウコウジンが合祀されたように思われる。三宝荒神が、サイノカミと習合したのかもしれない。

 

現在の幸神神社は、コウジン神社と読まれる.。「三寶荒神宮」からそうなったのかもしれないが、元々の意味からすると、サイノカミ神社だと思われる。

 

 

外江の「才の木神社」

 

鳥取県境港市外江町2208

 

 

境港市指定有形民俗文化財。ここの才の木神社は、「耳、鼻、喉の神様」であるようだ。耳の病気を治す神様という話はよく聞くが、鼻や喉にもご利益があるとのこと。

 

丁寧な説明板が備え付けてあった。吊るした椀と説明板に書かれていたが、祠の下に奉納されていた。一般的には、耳病、健脚の神として穴あき椀やわらじが奉納されるそうだ。

 

もとの西外江と東外江の境目にあったようだ。集落の境界にサイの木を祀る風習が当時はあったものと思われる。

 

以下、説明板の文。

境港市指定文化財

 

外江町の才ノ木

 

ここ才ノ木神社の境内には、祠・鳥居のほか、エノキ・クスの巨木がそびえ立っている。神社や木の由来は定かではないが、地元では「才ノ木さん」と呼ばれて親しまれている。

 

 江戸時代、村の入り口や分かれ道には、村や旅人を守る神として「サイノキ」「サイノカミ」「道祖神」と呼ばれる巨木や祠などが祭られていた。

 

地域によって石像や木製の人形を祭るところもあったが、中でも、樹勢の強いエノキは、生命力が強いことから信仰の対象となったことが多かった。

 

信仰の起こりは定かではないが、松尾芭蕉が著した「奥の細道」(1702年刊)には、旅に誘う神として登場している。

 

 また、村人にとって身近な存在であることから、病気平癒の神、縁結びの神などとしても親しまれてきた。ここ才ノ木神社は、昔から耳病を治す神として知られ、地元を中心に熱心な信者を集めている。

 

木の根元には、信者が願いを込めて吊るした椀が飾られており、信仰に託した人々の思いが伝わってくるようである。

 

以前はこのような場所が市内各地にあったが、今ではここ一ヶ所を残すのみとなった。

 

先人達の信仰や暮らしぶりを伝える場所として、後世に残していくべき地域の財産である。

 

平成二十三年九月一日 境港市教育委員会

 

 

現在、サイの木信仰の場所として、3つの場所が残っているが、「才」のつく地名自体は弓浜半島には多数残っている。

 

境港市の旧境町には「才の木東」の字地名があり、ここに天永元年以前はサイノカミの大社があったと言われる。

 

だが、寛政八年の神社改帳には「境村、幸神、無社、三間に一間半、境村より上道の間に御座候、御神体青木」とあり、社は無くなっていた。

 

この他にも境港市には、竹内に才仏、岡才仏、才仏灘、福定に才仏、上才仏の地名があるようだ。(『境港市史』昭和61年3月31日)

 

■ 参考文献 ■ 森 納著 『塞神考(因伯のサイノカミと各地の道祖神)』

 

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