木の根神社のご神体

 

 

国道9号線を米子から約東へ25キロ走らせると、左手に「木の根まんじゅう」の大きな看板が出ている。

 

そこの店で買って食べてみたが、程よい甘さでおいしかった。

 

ここの饅頭は、「木の根まんじゅう」のすぐ近くの神社「木の根神社」のご神体を模して作ったものだという。

 

木の根神社のご神体とは何か。木の根神社に参拝して、ご神体を拝見させていただく。

 

木の根神社 鳥居

 

 

ここの神社は、「木の根さん」「への子松」とも呼ばれ、子宝、縁結びなどにご利益があるとのことで、今でも全国から参拝客があるようである。由緒が説明板に書かれていた。

 

神社の由緒

 

生まれつき身体が弱く、元気のない松助という若者は、結婚すればすぐお嫁さんに逃げられてしまいました。母親は、何とかならぬものかと八幡さんにお参りすると「山の中ほどにある大きな松の根にあやかりなさい。」とお告げがありました。

 

そこで、母親は、その松の根を持ち帰り、朝夕一心にお祈りすると、数日たって松助は見違えるほど立派な男になり、後に5人の子供にも恵まれ、長者になったということです。

 

木の根神社

 

 

ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、明治二十四年にセツ夫人とこの地を訪れ、紀行文に木の根神社の事を書いたそうだ。

 

下記は紀行文の抜粋である。

 

 

上市という、眠ったような小さな村の近くで、名高い神木を見るというので足を止める。神木は、街道ぎわの小高い丘の森の中にあった。木立をはいると、三方を低い崖に囲まれた、小さな窪地みたいなところへひょっこり出た。

 

――崖の上には、樹齢いくばくともしれぬみごとな老松が、亭々と群ら立っている。太い磐根が岩を割って崖の表面に這いだし、さしだす枝と枝が低いそこの窪地に、昼なお暗い緑陰をおとしている。

 

そのなかの一本が、太い三本の根を妙な形に突き出していて、その根元のところに、なにやら祈願の文句を記した紙のお札だの、奉納の海草だのが巻きつけてある。

 

なにか言い伝えによるというよりも、その三本の根そのものの形が、民間信仰から、この木を神木に祀り上げた、といったものであるらしい。…中略… 

 

いったい、樹木崇拝――もしくは、その樹木に宿っていると考えられる神の崇拝、これは多くの原始民族に共通な性器崇拝の名残であって、昔は日本にも広く流布していたものだ。

 

それが政府の弾圧をうけるようになってから、まだ五十年とはならない。 …後略…( 小泉八雲著・平井呈一訳『日本督見記 下』 恒文社 )

 

現在は、ご神木の松は見られないが、岩から突き出た根っこは、神社の中に見られた。この根っこの形が、男根の形に見立てられ、神木になったらしいことが書かれている。小泉八雲の「その3本の根」自体はどれかわからぬが、中の祠に石棒が供えられていた。

 

ご神体の木の根

 

 

神社の中の祠

 

 

小泉八雲は「多くの原始民族に共通な性器崇拝の名残であって、昔は日本にも広く流布していたものだ。それが政府の弾圧をうけるようになってから、まだ五十年とはならない。」 と書いた。

 

原始時代の信仰として、ホト岩や石棒などの性器信仰は世界共通のものであり、その信仰は続いていたのだが、明治時代の神社の再編でたくさん廃詞された、ここの神社も例外では無く、

 

「一時、神社法制定のころ淫祠として廃棄をすすめられたこともあるという。」 (鳥取県立米子図書館編 『郷土史跡めぐり(西伯耆編)』米子 今井書店発行)

 

神社巡りをしていると時に祠の中に石棒が中にあったり、性器を模した木のご神体があったりする。

 

最近の風潮から、珍しくなってきたのであるが、古代から脈々と息づいてきたものだと思う。

 

 

縄文時代の石棒信仰

 

石棒(奈良県立橿原考古学研究所附属博物館) ウィキペディア 石棒より

 

Sekibou.jpga>
タペストリー - 作者自身が撮影, パブリック・ドメイン,
リンクによる

 

 

縄文時代(1万3千年前~2千300年前)の祭祀で使われたものとして、土偶と石棒がある。

 

石棒は、単純に棒状のものだけではなく、先端にくびれを作り先を磨いたものや笠状にしたものなどがあり、明らかに男根を象徴したものである。

 

縄文時代中期(5千年前~4千年前)からは、1メートル前後の大型のものが現われ、後期晩期には小型石棒や石剣や石刀などなどが多くなり、儀礼のための武具に転化していくとされている。

 

古代ギリシャのヘルマ  道の神

 

では、ラフカディオ・ハーンの生まれたギリシャ(ラフカディオ・ハーンは、1864年ギリシャに編入されたレフカダ島 で誕生)ではどうだったのだろう。

 

〝ヘルマ〟という古代ギリシャには道の神としての石棒とした造形物があることを私はネットで知った。以下のヘルマは、ポリュエウクトス が造った古代ギリシャの政治家デモステネスをかたどったヘルマである。

 

なお原始時代ではなく、紀元前280年頃のものである。

 

アテナイの市場に置かれていたデモステネスのヘルマ。グリュプトテーク蔵。 ウィキペディア ヘルマ より

 

Herma Demosthenes Glyptothek Munich 292.jpg

 

 

〝ヘルマ(ギリシア語:ἕρμα, herma, 複数形:hermai,   ヘルマイ)は、石もしくはテラコッタ、青銅(ブロンズ)でできた正方形あるいは長方形の柱。

柱の上にはヘルメースの胸像が乗っており、通常あご髭を生やし、さらに柱の部分には男性の生殖器がついている。

古代ギリシアの神ヘルメースの名はこのヘルマに由来するという説があり、一説には、ヘルメース神は商人および旅行者の守護者としての役割を担う前は、生殖力・運・街道と境界と関連した、ファルス(男根)の神であった。〟
( ウィキペディア ヘルマ

 

石柱に写実的な彫刻。それだけでよさそうなのに、なぜ男性の性器を描く?と思うが、この性器が、この石棒神の本質であったから描かざるを得なかったのだろう。

 

高群逸枝氏の文章が、頭に浮かんだ

〝交通の神が性の神でもあるというのは、族外婚段階のヒロバのクナドを考えればわかろう。クナドは文字通り神前共婚の場所であるが、またそのことによって他群と交通し、結びつくことになる場所でもある。

 

原始時代では、性交は同族化を意味する。排他的な異族の間では性の交歓だけが(ときには性器の見せ合いだけでも)和平への道であり、理解への道であり、村つくり、国つくりの道でもあった。

 

大国主命の国つくり神話が、同時に妻問い神話になっているのも、この理由にほかならない〟(高群逸枝 『日本婚姻史』 至文堂 )

 

ギリシャの「道の神」ヘルマも、共同体と他の地域の共同体を「結ぶ神」だったのかなあと思うのである。

 

それがまた異界なる共同体の接点として、攻めてこないような、悪霊を封じる塞神としての役割をもつようになったのではないかと思う。

 

道の神は、性神であり、また交通の神ー交易の神ー商業の神へと変容していったのであろう。

 

< 戻る          次へ >

 

 

 このエントリーをはてなブックマークに追加 

Copyright © 2024 古代出雲への道All Rights Reserved.