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さいの神の原像(2)伯耆国 双体道祖神

 

 

亀甲神社(かめのこじんじゃ)の道祖神

亀甲神社(鳥取県米子市淀江町中間642番地)には、上記のようなサイノカミが11体もあります。このサイノカミは、市の指定有形民俗文化財になっています。

男女の双体道祖神が8体、男根型が1体で9体です。

男根型の左にある線彫りの双体道祖神は、一番古いもので、文化13年(1816年)のものだそうな。

9体のものに加えて、右前のおかめが描かれたものと(アメノウズメか?)、その後ろのタキシードとウェディングドレスを身に着けたカップルが描かれたものが、あります。

新型のものは、平成2年に新たに付け加えられたものだそうです。

ここの神社になぜサイノカミが集められたのかはわかりません。

亀甲神社の由来を鳥取県神職会編『鳥取県神社誌』(昭和10年)で調べてみると、

亀甲神社 鎮座地 西伯郡大和村大字中間字海道ノ上

 祭神 須佐之男命

 由緒 創立年月不詳、神木を以て荒神宮と稱す、大神山神社の摂社たり、明治元年神社改正の廢社となりしを、同十二 年十一月許可を得て再興し、亀甲神社と改む。

『鳥取県神社誌』(昭和10年)

 と、あります。

元々は、「大神山神社の摂社であり、荒神の宮」だったのです。白亀がこの近くの海岸に上陸し、「亀甲」という地名の由来になったようです。

ここで多くみられる男女の「双体道祖神」ですが、鳥取県では、伯耆の西部にしか見ることができません。

東は赤崎町から西は米子市、溝口町、江府町までに合計348体のサイノカミが数えられているようです。

(伯耆の東部(倉吉市など)はというと、石に一人の男の神像をほった単体の道祖神(サイノカミさん)がほとんどであるとのこと。)

伯耆では、江戸時代の中頃から、石に男女の神様を彫って、御神体とすることが流行しました。

伯耆で最も古いものは、米子市尾高の安永5年(1776年)です。

伯耆でもっとも古い双体道祖神  側面に安永五年申三月と刻まれています。米子市尾高上市 

黒住教社の横に入ったところに、3体の双体道祖神があります。

このことをもって、塞ノ神信仰全体が、近世に始まったものと決めつけるわけにはいきません。

たぶん、もともとあった塞の神信仰が、時代時代によって、性格が変わり、再編され、継承されてきたのではないかと私は思います。

双体道祖神の全国比較

岡成神社の鳥居の近く左手にあります。 鳥取県米子市岡成

「慶応三卯三月吉日」と刻まれています。

下の表は、伯耆(鳥取県西部)を含む鳥取県と他県との比較です。『日本の石仏、五七号』(1995)に載っている資料の表です。長野県の道祖神研究家、若林栄一氏が調査された全国の双体道祖神の数

サイノカミ全体の数では無くて、その一つの形態である「双体道祖神」だけの数です。

双体道祖神の数

都道府県名調査数推定数
長野県25842600
群馬県22282300
神奈川県3201300
新潟県341400
山梨県166300
静岡県307300
岐阜県 6970
愛知県3650
富山県1430
埼玉県4050
東京都2230
栃木県2030
福島県1030
千葉県1010
茨城県110
山形県110
青森県110
鳥取県 347360
岡山県10
島根県 7850

長野県、群馬県が圧倒的に多いが、鳥取県はその次に多い。

尾高前市の御崎神社の双体道祖神

なぜに、サイノカミ信仰にこのようなばらつきが生じているのか、また江戸時代の宗教政策に国ごとに違いがあったのか、よくわかりません。

たとえば、会津藩主・保科正之や水戸藩主・徳川光圀が行った「淫祠の整理」というものがあります。(1666年)

サイノカミだけが淫祠の対象では無かったようですが、サイノカミが少なくなったことに影響が無かったとは思えません。

さて、伯耆のサイノカミの性格ですが、「縁結び」「子供の神」の性格が強いのが特徴のようです。

一般的に云われる「悪霊を封ずる神、境界神」としてのサイノカミとは違うようです。 

■ 参考文献  ■ 

  • 淀江町教育文化事業団 『ザ・淀江 ―伯耆のサイの神さん―』
  • 石田 哲也(文)・椎橋 幸夫(写真・調査)著 『道祖神信仰史の研究』 名著出版

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