大庭鶏塚古墳の形状は何を表わすか。

出雲国東部の後期古墳のさきがけともいう「大庭鶏塚(おおばにわとりづか)古墳」を訪ねた。

 

東部のカンナビ山である茶臼山の西北の山裾に、東部の最高首長墓とみなされる大庭鶏塚古墳、山代二子塚古墳、山代方墳が近い場所に築造されていた。

 

その3つの中でもっとも古いのが、大庭鶏塚古墳である。(6世紀前半から半ば)

 

現在の大庭鶏塚古墳。(2020年9月)

 

 

説明板

 

 

なぜ大庭鶏塚古墳という名前なのか

 

この古墳の名前は、この土地に伝わる金鶏伝説によるものである。発掘物からの命名ではない。

〝鶏塚古墳は大字大庭字茶臼にあり、此の附近を長者原と呼び、古笠井長者の住居であったと傳えて居る。毎年正月三日の昃には金鶏の鳴くを例とするとの傳説よりして、終に鶏塚と称するに至つたのである。〟(大正15年 奥原福市 編纂 『八束郡誌 本篇』 名著出版再版)

『八束郡誌 本篇』に、書かれている〝笠井長者〟というのは、わからないが、現在でも地名として「長者原」が残っている。

 

国土地理院地図

 

 

このような金鶏伝説は、全国各地に伝えられており、珍しいものではない。多くは城跡や塚に埋められた金鶏が正月あるいは大晦日に鳴くと言う話である。

 

特に長者伝説につながる話が多く、「霊鳥信仰に中世説話の長者譚(たん)モチーフなどが結び付いて生まれてきた伝説であろう。」(渡邊昭五 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)より)ということであり、元々の古墳築造時代とは関係のない、中世以降に新しくつけ加えられた伝説であると思われる。

 

ここの古墳は内部まで発掘されていないが、いままで須恵器片と円筒埴輪片が出土している。「造り出し」が西方と南方にあるので、形象埴輪が出土しても不思議はない。

 

概観

草木が生い茂って形がわかりにくいので、前に撮った写真を載せる。(2015年12月)

 

方墳と言うことだが、正方形ではなくて、東西辺と南北辺は約12° ほど歪んでいて、少し菱形のような形であるようだ。

 

東北の方墳の角から見た写真である。古墳の頂上までいける段が現在作ってあるのでここから登って行ける。

 

東側は3段になっているが、元々は2段で後世に3段に削られてしまったそうである。

 

 

南西から見た写真で、右側の木が2本生えているのが、南側にある「造り出し」部である。中心線より西寄りに設置してあり、松江大橋川沿いの石屋古墳(5世紀中頃)も同様である。

 

 

北西の角から見た写真で右端の緑色の部分が西側の造り出し部である。南側と違って一辺の中央部に造られている。石屋古墳は北側に設置されているがこれも中央部に設置されている。

 

 

頂上の塞の神さん

 

「社日様」と書かれている本もあるが、塞(さい)の神さんのようだ。(『史蹟 大庭鶏塚 発掘調査報告』には「歳の神さん」)また、『おおば風土記』(荒川勲 著)には、下記の記述がある。

〝そして、その頂上には山代と大庭の境の才の神を祭っています。ここは中世から近世近代と村をあげて実盛送(=いなごと二化めい虫を追い払うという虫送り)の祭りの場所であったといい伝えられているところです。〟

 

 

造出のついた大型方墳は何を意味するか。

 

出雲東部は、類まれな方墳や前方後方墳の地域

弥生時代後期(1~2世紀)にたくさん造られてきた山陰独特の四隅突出墓(よすみとっしゅつぼ)が、古墳時代前期前半(3世紀後半~4世紀前半)になると安来市荒島古墳群にみられるような方墳に発展していく。

 

ほとんどが方墳といって過言ではない。これは出雲西部も同様で西谷古墳群にも方墳が造られていた。

 

墳形は出自(氏族)や王権との関係の深さを示すと云われ、前期段階は近畿地方にも前方後円墳や円墳の中にあって、京都向日市の元稲荷古墳(約94mの前方後方墳)など前方後方墳や方墳が混在していた。

 

4世紀後半になると、出雲東部でも廻田1号墳などの前方後円墳や円墳が登場する。

 

全国的には、前方後方墳や方墳は4世紀ではほとんど造られなくなるが、出雲国東部では

 

5世紀前半に最高首長の大型古墳[(廟所(びょうしょ)古墳(一辺65mの大型方墳  松江市西尾町)]が登場し、

 

5世紀半ばには、石屋古墳(一辺40mの大型方墳、 松江市東津田町)

 

5世紀末には、竹矢岩舟古墳(50mの前方後方墳)や古曽志大谷1号墳(全長46mの前方後方墳 松江市古曽志町)などの前方後方墳が造られ、

 

6世紀半ばには山代二子塚古墳(94m)の最高首長墓が登場する。

 

方墳も6世紀前半(大庭鶏塚古墳)、7世前半(山代方墳 一辺45mの方墳)続けて造られた。

 

出雲の前方後方墳や方墳について、今までは畿内の前方後円墳・円墳と対抗する勢力と考えられてきたが、最近では古墳時代中期の巨大大王墓(誉田御廟山古墳などの)の陪墳(ばいふん)に見られる方墳との類似から、むしろ、ヤマト王権の中枢で重要な役割を担っていた首長であったのではないかといわれ始めている。

 

そういえば、『日本書紀』では、仁徳天皇の臣下である「屯田司(みたのつかさ)の出雲臣の先祖淤宇宿禰」が登場する。

 

※陪墳… 陪塚、陪冢(ばいちょう)ともいう。大型の古墳の周りに計画的に付随するように築造された小型古墳で、大型の古墳に埋葬された首長の親族、臣下を埋葬するものと考えられている。

 

造出(つくりだし)の付いた古墳

 

ウィキぺデア造出によれば、
〝造出(つくりだし)とは、古墳に直接取り付く、半円形もしくは方形の壇状の施設である。「造出し」、「造り出し」とも表記される。

 

中後期の大型前方後円墳をはじめ、ごく一部の古墳のみに確認されている。〟

 

〝造出は納棺後の祭祀(追善供養)を行うための場であったと考えられている。〟

 

そして、
〝納棺儀礼終了後、一定期間の後に追善祭祀が造出で行われ、その期間が終了すると今度は形象埴輪を配置して祭祀の様子を再現し、造出を含めた墳丘への立ち入りはなくなった。

 

最終的にはそれが形骸化し、埴輪による祭祀の再現のみが行われるようになったと考えられている。〟

 

だから、石屋古墳のようにここでも形象埴輪が出土しても良いはずである。

 

石屋古墳から出土した馬の埴輪(島根県立八雲立つ風土記の丘展示資料館)

 

 

〝また全国で4600基あるとされる前方後円墳のうち、造出のあるものは100基程度(その約半分は奈良・大阪の大型古墳)しか確認されておらず、その数・有無は被葬者の地位を反映しているとされている。〟

 

造出のある古墳は限られていて、被葬者の地位の高さに関係しているらしい。

 

それでは出雲東部の造出の付いた古墳を見てみる。

 

5世紀前半の廟所(びょうしょ)古墳、5世紀半ばの石屋古墳、5世紀前半の古曽志大塚1号墳(径45mの大型円墳 松江市古曽志町)、5世紀末の古曽志大谷1号墳などで、5世紀以降で大型のものに限られて設けられているようで、数としては少なく首長級のものしか付設していない。

 

いつの時代の古墳か

 

大庭鶏塚古墳の説明板には、「6世紀中葉」と書かれている。ちょうど欽明天皇(継体天皇の御子)の頃である。

 

古墳時代後期とは、おおざっぱにいって継体天皇(越前王朝)に始まる蘇我氏の繁栄した時代だった。古墳時代後期の大王墓は、前方後円墳だけでなく、方墳が増えてくる。

 

春日向山古墳(用明天皇陵として治定)、山田高塚古墳(推古天皇・竹田皇子合同陵墓として治定)などである。蘇我氏と血縁の近い大王や蘇我氏の古墳が方墳であったと云われる。

 

墳形は「出自(氏族)や王権との関係の深さ」なわけであるから、出雲東部と蘇我氏とのつながりを語られることが多い。

 

蘇我氏は、『姓氏録』では孝元天皇を祖とするを皇別氏族であり、また記紀では武内宿禰を祖とする紀氏の一系だ。出雲東部との関係でいえば事代主命を祖とする皇后出身母族(媛蹈鞴五十鈴媛命など)との関連が考えられる。

 

富家伝承(『出雲と蘇我王国』大元出版)には、初代武内宿禰が垂仁天皇に追われて東出雲の向家(富家)を頼り、婚姻関係を結んだので、その縁で北陸の蘇我家と親族付き合いが始まり、以後も向家より嫁や養子を迎えたとのことが書かれていた。

 

 

参考文献  松江市教育委員会 『史蹟 大庭鶏塚 発掘調査報告』(昭和54年3月)

 

      池淵 俊一著『古墳時代史にみる古代出雲成立の起原』松江市ふるさと文庫

 

大庭鶏塚古墳の場所

 

ガイダンス山代の郷で学習した後、大庭鶏塚古墳⇒山代二子塚古墳⇒山代方墳の順番で見学すると築造された順番で見学するのがわかりやすい。

 

 

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