出雲国側の多根地名に関連している地域を書いてきましたが、

 

今回は石見国の地方について考えてみたいと思います。

 

 

石見国の多根

 

石見国の多根地名ですが、いつから存在したのか定かではありません。

 

『角川日本地名大辞典』で調べてみました。

 

たね 多根 〈大田市〉

 

三瓶山北麓の森田山の北側に位置する。地名は田根・種・稲種に由来する。大国主命が稲種を当地の人に授けたと伝える(八重葎)。

 

〈近世〉 多根村、江戸期~明治22年の村名。(『角川日本地名大辞典』)

 

この八重葎という書物ですが、『角鄣経 石見八重葎』(つぬさはう いわみやえむぐら)という書物で、文化7年(1817年)に完成した地誌です。多根についてのどのように書かれているのでしょうか。

 

志学郷之内

 

 多根村

 

抑多根村と号以所ハ、大穴持尊国を順行仕玉ふ時、稲の種を此里の民に被下置故に種村といふ、或抄見へたり。出雲風土記にも同国の田根村の説にも、左(右)之通此時の次手ならん。中古田根村、今多根村と申ス。

 

※ 抑=そもそも

 

『出雲国風土記』に、ほぼ同様のことが書かれています。『出雲国風土記』では、オオナモチ&スクナヒコ 二つの神が稲種を落とされたとしていますが、『石見八重葎』では、オオナモチの神のみとなっています。

 

佐比賣山神社(さひめやまじんじゃ)島根県大田市三瓶町多根イ305
主祭神 大己貴命・少彦名命・須勢理姫命

 

 

この多根の地域ですが、平安時代は石見国安濃郡(あのぐん)邑陁(おおた)郷に属していたと言われています。

 

 

邑陁(おおた)郷 太田部?

 

現在の地名 大田市(おおだし)の由来ともなっている邑陁(おおた)郷です。

 

『角川日本地名大辞典』ではどう書かれているか。

 

おおだ 大田〈大田市〉

 

邑陁とも書く〈和名抄〉。大田市の中心部、三瓶川の流域。地名の由来は、大田部の移住開拓によるとの説があるが、屯倉じゃ置かれていない。

 

邑陁については「山田で会う」という伝承もある(八重葎)。石見三田の1つの田園地。

 

広い水田地帯が大田になったともみられる。

 

〈古代〉邑陁郷、平安期に見える郷名。石見国安濃郡のうち。「和名抄」に邑陁とあり、現在の大田市大田町を中心に東用田・西用田・多根・小豆原などがこれに属していた(旧県史5)と推定される。(『角川日本地名大辞典』)

 

1、大(太)田部の移住開拓説

 

「大田部の移住開拓によるとの説」と書かれていましたが、大正12年発行の『島根県史』にその説が展開されています。

 

 

第十九章 石見に於ける屯田

 

一、太田部 之れ田部の一種にして若田部に対する朝廷直領なる屯田に使役せる部民なり此太田部の存する地方は

 

上野吾妻郡 信濃水内郡 美濃安八郡 大野郡 常陸久慈郡 安房安房郡 武蔵埼玉郡 遠江周智郡 長下郡 筑後上妻郡 日向諸縣郡 讃岐香川郡 紀伊名草郡 備後世羅郡 播磨佐用郡 揖保郡等に大田郷 上総国長柄郡に邑陀郷 肥前杵島郡に多太郷等

 

和名抄に見えたるは皆太田部の住居せし地なり而して此部の貢租を掌りし伴造には太田君、直、連、臣、宿禰の數姓あり和名抄に石見安濃郡に邑陀郷あり之れ安濃郡中に於ける尤も肥沃の平野にして

 

穀物豊穣の地なれば太田部を置かるるに尤も拾適の地なり邑陀は即ち太田の轉字なること辨ずるまでもなし因にいふ屯倉に付ては己に前に述べたれども此には品部を記するを目的としたるを以て再説せり

 

此太田部の存するより見れば此地方も亦屯倉の一なるか (『島根県史 三』 大正12年3月)

 

全国に分布する「大田郷」地名からの類推だと思いますが、稲種由来の多根村を有していて、太田部であるかはともかく、田部という部民がいて屯倉(みやけ)があったという説は捨てがたいです。

 

ただ灌漑事業を要する現在の広い水田からの古代の姿を想像するのがどうなのか、また漢字から意味を考えてしまうのか疑問が残るところです。

 

2、山田に会う説

 

『石見八重葎』(いわみやえむぐら)に書かれている伝承です。

 

〔神代 逢田、中古 會田、順和名抄ニ邑陀、今太田〕

 

 太田北本郷

 

抑太田村と号以所ㇵ、健南方命細人貸稲ヲ奉リシ時、阿次(アス)ㇵ山田に會んと宣ふより号、今人太田と書来れり。

 

なんでここで、諏訪神の健南方命(たてみなかたのみこと)の神が登場するのか、びっくりするところですが、ここもよく読むと、稲田が関係する伝承です。

 

 

3、猿田彦命(大田命)に由来する説

 

猿田彦命(サルタヒコのミコト)の別名を大(太)田命(おおたのみこと)とも言います。

 

インターネットで検索すると、「宇治土公(うじつちのきみ)の遠祖大田命」ばかりで出てきますが、猿田彦命自体が大田彦命とも云われており、『石見八重葎』(いわみやえむぐら)にも載っています。

 

記紀神話では三輪神社の大物主神の祭祀者として、大田田根子というのが出てまいりますが、あの人物も猿田彦命の子孫であるということから、「大田」という名前がついているのかもしれません。

 

波根本郷

 

道祖神  祭神〔猿田彦命・天細(鈿)目命〕

 

     別名 〔太田命・底度久(ソコトク〕御魂、都夫多都(ツブタツ)御魂又阿和佐久(アワサク)御魂。委細ㇵ神代正語ニ有。又妻ノ神共云、其外御名多し。〕

 

そして、太田命に由来した村名が迩摩郡に存在することも、『石見八重葎』(いわみやえむぐら)にあります。

 

迩摩郡 上巻 

 

大家郷之内

 

大(太)田村

 

抑太田村と申ㇵ、此所の永楽曽根と云所に妻ノ神ノ御森有、此神別名甲神(カウシン)共、妻(サイ)ノ神共、船玉神共、塩土舞(シオフキ)大田神ト申ス故大田村と申ス。

 

妻の神(さいのかみ)の別名、塩土舞(シオフキ)大田神の名前により、太田村という名前がついたとしています。

 

猿田彦命は記紀神話では、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の導きの神として登場しますが、

 

原初的な神であるからして、種神がオオナモチ神&スクナヒコ神ではなくて、猿田彦命であってもいいわけです。

 

和加布都努命に由来する地域 【天御領田】

 

『石見八重葎』(いわみやえむぐら)を読んでいると、多根村や小豆原村等を含む邑陁郷のみならず、 剌鹿郷にも『出雲国風土記』に登場する和加布都努命(わかふつぬしのみこと)が登場します。

 

出雲国との境界の郷であるし、安濃郡には、石見国一の宮 物部神社が鎮座しているので、古代豪族 物部氏が関係していると単純に考えてしまいがちですが、『出雲国風土記』「美談郷」の地名起源をよく読むと、「天御領田」(ヤマト王権の直轄地)を見る(管理する)神として描かれています。

 

物部神社(もののべじんじゃ)  島根県大田市川合町川合1545

 

祭神 宇摩志麻遅命(うましまじのみこと)

 

 

 

律令体制以前のヤマト王権の直轄地である御田(みた)におかれ、収穫した穀物を納めた倉を「屯倉」あるいは「正倉」と言います。

 

美談郷(みたみごう)。

 

郡家の正北九里二百四十歩の所にある。所造天下大神の御子、和加布都努志(わかふつぬし)命が、天と地が初めて分かれた後に天御領田(あめのみた)の長としてお仕えなさった。

 

その神が郷の中に鎮座していらっしゃる。だから、御田(みた)を見る神の意で三太三という。〔神亀三年に字を美談と改めた。〕この郷には正倉がある。(島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)

※ 和加布都努志(わかふつぬし)命を物部氏の神とする説が多いですが、所造天下大神=大国主命の御子と書かれているわけですので、神門臣氏と物部氏の混血の神と考えられます。

 

詳しくは⇒ 出雲大社別火氏の謎(1) 懐橘談(かいきつだん)

 

ますますヤマト王権の屯倉(みやけ)が多根地名と関係しているのではないか?と思ってしまいます。

 

まとめ

 

〇 「多根」地名は、出雲国、石見国を問わず、三瓶山が関係した、水田の発祥地の伝承があります。

 

〇 飯石郡、安濃郡のみならず、出雲国神門郡の山あいの水田地帯とも、水田の起源伝承がつながっています。

 

〇 初期ヤマト王権の屯倉(みやけ)があったという証拠はどこにもないですが、多倍神社、反辺や大田地名とともに、和加布都努命伝承から考えると、屯倉(みやけ)や田部があったとして不思議はない地域だと思われます。

 

参考文献

 

関 和彦 『出雲国風土記』註論  明石書店

 

『多根郷土誌 』 多根小学校百周年記念事業会

 

『佐田町誌』 編集発行 佐田町教育委員会

 

『佐田町の遺跡 窪田地区』 島根県佐田町教育委員会

 

松尾充晶 『島根県大田市立花横穴墓出土の頭椎大刀に関する考察』

 

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