島根県雲南市掛谷町多根の「多根」(たね)と、大田市三瓶町多根は、オオナムチとスクナヒコネのコンビの種が同じぐらいしにしか考えていませんでした。

 

調べると、出雲市佐田町の北部(窪田地区)も含めて、「多根」地名の周辺には稲田の起源伝承が同じようにあることがわかってきました。

 

 

大歳神社の分布

 

乙加宮の大歳神社の由緒

三刀屋町の乙加宮の大歳神社は、出雲国風土記の時代は、多根神社と同じく、飯石郡多禰郷でした。

 

そこの由緒にも、多根神社と似たような伝承があります。ただ、オオナムチとスクナヒコネの神が、大歳の神に替わっています。

 

大歳神社 雲南市三刀屋町乙加宮1219番地

 

 

須佐之男命の御子大年神、当時加食田の深谷川の津上に坐して、はじめて耕作された、今でも起田という。

 

また稲苗を当郡種の郷に蒔き、育った苗を神門郡一窪田の地に植えられたところ一寸二分の籾が稔ったので、これを諸神の御饌に吹かれた。そこを神食田というと伝えられている。

 

この由緒で、なぜ種を多根郷に蒔いて育った苗を多根郷ではなく、遠く離れた神門郡一窪田(ひとくぼた)で植えたのでしょう?という疑問が出てきます。

 

まずは、神門郡一窪田に行ってみました。

 

自動車で行くと、出雲市の所原町を通り、野尻町の大歳神社の前を行きました。山あいの道です。

 

大歳神社  島根県出雲市野尻町690

 

 

三刀屋町内には、乙加宮とは別にももう一社 大歳神社(現在は坂本神社)があります。

 

大歳神社が、3つもあるなんて、もしかすると、大歳神社の分布と神戸(かんべ)が関係があるのではないか?と思いました。

 

なぜなら、出雲市所原町は、出雲国風土記時代に神戸里(かんべのさと)があったとされている場所だからです。

 

大歳神社とは?

大歳神社の「とし」は,元は穀物などの実りや収穫を意味しましたが、その収穫に1年かかるところから年を意味するようになったと言われています。

 

当時の神社の運営を支える稲田があってこその神戸(かんべ)ですので、いわゆる神田とよばれる田が多根郷あたりから神門郡の南部の山あいに分布していた時代があったのではないでしょうか。

 

神戸(かんべ)とは?

古代,神社に属して,その経済を支えた特定の民。大化改新の前は神社所有の部民であろう。

 

令制では神社に与えられた封戸 (ふこ) の一つで神社に租,庸,調,雑役を納め,神祇官の管轄に属したが,一般の民戸に準じて太政官,民部省などの支配も受けた。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)

 

古代の稲田

 

なぜ山あいの狭い田んぼが、神田なのか疑問に思われるかもしれません。

 

現代的感覚からすれば、水田は平野部の広大ば水田をイメージしますが、古代の水田はむしろ山あいの小さな谷にあったと考えられます。

 

“水田稲作農耕は用水路と排水路が整備された水田を必要とする。

 

中世末までは、土木技術や国家的統率力は未熟だったため、水田は、大河川流域にではなく谷戸(谷田)と称する河川支流の小さな谷間の流域につくられるか、小さな溜池の周りにつくられた小規模水田群であったという。

 

実際平安時代から室町時代のなか頃まで、耕地面積はほとんど増加していない。”(伊藤松雄著『里の植物観察記』 春風社)

 

佐田町一窪田と あだかやぬしたききひめ

 

出雲市佐田町と聞くと、有名な須佐神社があり、佐田町全部が奈良時代に飯石郡須佐郷であったように思い込んでしまいますが、実は佐田町の西部は飯石郡ではなく、神門郡の一部でした。

 

この一窪田(ひとくぼた)ですが、『出雲国風土記』には杵築大社(出雲大社)を建てる材木を育てる吉栗山があると書かれた地域でもあります。

 

そして、ここには大国主命の御子 である阿陀加夜努志多伎吉比売命(あだかやぬしたききひめのみこと)が、初めて稲田を開かれた処という伝説があります。

 

(一窪田)

 

当地の伝説によればアダカヤヌシタキギヒメノミコトが初めて田を開いたのでそこを一窪田といい、やがて村名に発展したと伝えている。(昭和51年3月20日『佐田町誌』 編集発行 佐田町教育委員会)

 

 

 

阿陀加夜努志多伎吉比売命とは?

 

詳しくは  (2) 阿太加夜神社 【 出雲の発祥地】
をご覧ください。

 

『出雲国風土記』では、出雲市多伎町の地名起源の女神として登場します。

 

佐田町一窪田は、ちょうど多伎町に隣接した場所でもあります。

 

一窪田付近の神戸川

 

 

方墳がある地域

 

一窪田・共和地区の小丸山(標高193m)の山頂部には、犬塚古墳群があり、3基の方墳があったものと推定されています。(1号墳 10m×8m×高さ0.5m、2号墳 8m×9m×高さ0.5m、他は不明)

 

考古学では、出雲国西部は前方後円墳・円墳体制、出雲国東部は、前方後方墳・方墳体制みたいに言われますが、一概にそうではないみたいです。

 

参考

 

『佐田町誌』にも、柳田国男の「地名の研究」が抜粋してありましたが、『地名の研究』の「二八 一鍬田」で、「一窪田」の地名の考察をしています。

 

─前略─
この以外にこの国及び備中・美作みまさか等には、また一久保田・一窪田という地名がはなはだ多い。これと一鍬田と二箇の地名はあるいはもと同語ではなかったか。その例を言えば、

 

出雲八束郡朝酌村大字大海崎字一久保田

 

同 簸川郡檜山村大字岡田字上分小字一久保田

 

備中川上郡湯野村大字西山字六日小字一久保田

 

同 阿哲郡矢神村大字矢田字道免小字一窪田

 

美作真庭郡勝山町大字山久世字土居ノ前小字一窪田

 

美作真庭郡二川村大字黒杭字下前田小字ヒトクボタ

 

また二窪田・三窪田もある。また一区田ひとまちだもある。これらの地名と同じとすれば、一鍬田の説明はさして困難ではないと思う。

 

─中略─
一窪田は要するに田を開きにくい地域内に、孤立して存する小面積の田と解してよかろう。窪は漢語でも水溜りの義で、クボは『字鏡じきょう』にも土凹どおうなりと記してある。すなわち小さな水田適地を意味する。

 

ゆえに丘山の間の少しく広い耕地を、すぐに大久保・長久保などと言って珍重する例が多いのである。一窪田はすなわち久保の最も小さいものを、独立して田にし得たのを称するのであろう。

 

中国のある山地にこの地名の集合してあるのは、あるいはかの地方の地学的状況が、特にその発生に便であったためではなかろうか。(柳田国男著 『地名の研究』)

 

一窪田は、『出雲国風土記』時代は、余戸里(あまるべのさと)に属した地域だと言われています。余戸里とは、50戸を一つの郷として編成するとき、50戸にあまる端数の戸で編成した里とされます。

 

出雲市乙立町・佐田町・大田市山口町一帯の地域とされています。後に里が二つになり、伊秩郷になりました。

 

ここは三瓶町多根に近接する地域です。

 

佐田町反辺(たんべ)

 

奈良時代は、飯石郡須佐郷の地域である反辺(たんべ)ですが、神門郡一窪田とすぐ近くの場所であります。ここには、多倍社の比定社である(掛合町の多根神社も比定社)多倍神社が鎮座しています。

 

須佐神社の伝承では、須佐之男命がこの地は食物を作るべきなりと言われて田部の名を生じ、後に転じて反辺(たんべ)と言うようになったというのがあります。

 

多倍神社  島根県出雲市佐田町反邊1064

 

江戸時代には、剣大明神や上野神社と云われていた。須佐之男命が退治した鬼の首を埋め、大岩(首岩)で蓋をした上に社殿があるという伝承がある。

 

 

佐比賣山

 

三瓶山を構成する男三瓶

 

 

『出雲国風土記』、現在の三瓶山(さんべさん)は佐比賣山(さひめやま)と呼ばれていました。いつから、三瓶山と呼ばれるようになったのか定かではありません。

 

真ん中の小屋に見えるのが、立石神社です。

 

立石神社

 

 

「島根大学三瓶演習林」の真ん前に、立石神社という石神さんがあります。

 

『出雲国風土記』(733)では「石見の国と出雲の国との堺なる、名は佐比売山、是なり」と書かれていますが、伝承ではこの石神さんから三瓶山さんの方向が「石見国」で、石神さんから反対側が出雲の国であったようです。

 

となれば、この石神さんはサイの神さんのような境界神なのでしょう。

 

出雲国と石見国との境界神 少彦名命

 

少彦名命が三瓶山麓八郷の開拓に尽くしたと書かれています。

 

立石神社の説明板に書かれていた事柄です。

 

三瓶山の北側には、天井原、浄見原、大水原、竪原、土原、中の原、下ん原、徳原、立石原 が広がる。このなかの立石原には三瓶山麓八郷の開拓に尽くしたと云われる少彦名命をお祀りする霊地上津森がある。

 

 「立石さん」は、この上津森の一角にあり幅、高さとも六尺の三角形の大石をご神体とする石神で立石原の地名の由来とも云われている。その昔山を神聖なるものとして崇拝していた頃、人々は必ずその山容を崇拝する適地を求めた。

 

ご覧のように三瓶山崇拝の適地に鎮座するこの「立石さん」は、また石見と出雲の国境いにあり古くから人々の交流の要衝でもあった。地を拓き治め人々の交流を促し心の平穏をもたされてくれたのがこの「立石さん」の歴史である。

 

 なお、この「立石さん」をお守りする老松は、夕日が沈む頃、立石原の田畑2町歩(2ha) にその影を落とし明治期に落雷で枯死した先代松の後継。何代目かは定かでない。  平成13年3月 上多根自治会11戸 建立

 

田の神 案山子

 

出雲の簸川郡地方のわらべ歌に

 

正月っ、あん、正月っ、あん、

 

どこからおいでた

 

三瓶の山から

 

蓑着て、笠かべって

 

ことことおいでた。

 

というのがあります。

 

中国地方では、正月様=歳神様は、蓑傘を来て一本足であるという伝承が多いです。

 

つまりは、歳神さまは、田の神である「さんばいさん」でもあり、案山子(かかし)の姿をしているようです。

 

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