現在の島根県雲南市掛谷町多根の「多根」(たね)は、古代地名であり、

 

『出雲国風土記』(733年)に「多禰郷」として登場します。

 

島根県には、もう一つ、石見の三瓶山の北麓にも「多根」という地名が存在します。これは江戸時代からあった地名ですが、いつから発生した地名かはっきりしません。

 

多根は種であるということが『出雲国風土記』に明確に書かれています。なお戦国時代には、東出雲町出雲郷にも「多禰」地名があったようです。

 

あれこれ調べているうちに、もしかすると、多根地名は、ヤマト王権の直轄地と関係があるのではないか?という説が頭をもたげてきました。

 

 

雲南市掛谷町の多根

 

 

三刀屋川に流れている濁川を中心にした谷あいの集落です。

 

国道54号線沿いから、西側に下多根、中多根、上多根と分かれています。

 

濁川

 

 

『角川日本地名辞典』の説明では以下の通りです。

 

たね 多根<掛合町>

 

多禰とも書く。飯石郡の中央部に位置し、三刀屋川の谷あいの低地集落と大日山の麓に開けた高地集落からなる。多禰の地名は「風土記」から見える。

 

『出雲国風土記』の多禰郷

 

多禰郷(たねごう)。

 

郡家に属する。所造天下大神である大穴持命(おおなむち)と須久奈比古命(すくなひこ)が天下をお巡りになったときに、稲種をここに落とされた。

 

だから、種(たね)という。〔神亀三年に字を多禰と改めた。〕 (島根県古代文化センター編『解説 出雲国風土記』今井出版)

 

オオナモチとスクナヒコナ コンビによる国造り→農業の普及の神話が語られています。このような神話は『播磨国風土記』揖保の郡にも見られます。

 

(『出雲国風土記』では、須久奈比古命、『古事記』では少名毘古那神、『日本書紀』では少彦名命と表記が違う)

 

稲種山(いねだねやま)。大汝命(おおなむちのみこと)と少日子根命(すくなひこねのみこと)の二柱の神が神前郡(かむさきのこほり)の堲岡里(はにのさと)の生野(いくの)の岑(みね)におられて、この山を望み見て「その山は稲種を置くのによい」と言われた。

 

稲種を送って、この山に積んだ。山の形も稲を積んだ形に似ていた。だから、名づけて稲積山(いなづみやま)といった。(橋本 雅之 現代語訳) ( 『風土記 上』 中村啓信 監修・訳注  角川ソフィア文庫)

 

ここの地名「多禰」(たね)は、文字通り、「稲種」の「たね」に由来するようです。

 

 田部と屯倉

 

式内社 多倍社

 

上多根に鎮座する多根神社  島根県雲南市掛合町多根1485

 

 

多根神社の由緒をみると、多根神社が、式内社である多倍社だったように書かれています。

 

多倍神社六所大明神と称し奉る旧社にして風土記に曰く『天下所造大神大己貴、少彦名天下巡行のとき、御所持の稲種をここに墜し給いしにより種という。

 

神亀三年字を多根とする』。そもそも多倍神社とは多は田にして、倍は辺(あたり)の心、山の辺、川の辺というがごとしで二柱の大神御田を作らししにより多倍神社と奉称、式内社にして数々の古蹟あり。

 

 

実際、江戸時代にここの多根神社を多倍神社とする学者もいました。

 

千家俊信の『出雲国式社考』は多倍神社を知りつつ「倍は禰の誤にて、多禰神社か、さらば多禰郷に坐す六所明神ならむか」とし、多禰神社を推す。(関 和彦著 『出雲国風土記』註論  明石書店)

 

また、飯石郡飯南町に鎮座する「由來八幡宮」(ゆきはちまんぐう)は石清水八幡宮の別宮ですが、その鎮座地には、もともと多倍神社が鎮座していたという由緒を持っています。

 

式内社・多倍社は、佐田町反辺の多倍神社であると半ば通説になっていますが、多根神社や由來八幡宮も比定神社だったのです。

 

さらに、『多根郷土誌 』( 多根小学校百周年記念事業会 発行)では、多根には屯倉(みやけ)あるいは神戸(かんべ)があったかのようにも書かれています。

 

 

屯倉(みやけ)とは?

 

大化以前の大和朝廷の直轄領。官家,屯家,屯宅,三宅などとも書く。収穫物をたくわえる倉庫から出た語。のちには収穫物を得る土地や,これを耕作する田戸,田部までをも含めるようになった。

 

屯倉には (1) 大和のように古くからの皇室領,(2) 地方豪族の領地の一部を皇室の直轄領としたもの,(3) 単なる課税対象の地域などがある。

 

屯倉内には,郷里制,戸籍,班田法など律令の施行によって,全国的農民支配方式が大化前代すでに行われており,皇室の経済力を向上させていた。大化改新によって廃止された。 (ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)

 

神戸(かんべ)とは?

 

古代,神社に属して,その経済を支えた特定の民。大化改新の前は神社所有の部民であろう。

 

令制では神社に与えられた封戸 (ふこ) の一つで神社に租,庸,調,雑役を納め,神祇官の管轄に属したが,一般の民戸に準じて太政官,民部省などの支配も受けた。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)

 

田倍神社

 

今から約千五百年位前に造られた神社で、田戸といわれた部民が上多根に家をつくって田を耕作したようです。

 

それは御名代又は御子代と呼ばれ、御名代田の主税を以て供奉したとなっていますので、大年神田を共同で耕作して主な税のかわりに、そこで取れたお米でお祭りや、神社の造営などをしたと思われます。(『多根郷土誌 』 多根小学校百周年記念事業会)

 

堀田神田と大年神田

 

掛合町の多根には、オオナムチ命とスクナヒコナ命が稲種を落とした田の伝承地があります。現在は石碑が建てられています。

 

堀田神田

 

雲南市多根交流センターから道路沿いに西に100メートルぐらいの所の
下多根集会所の角を登った所にあります。

 

 

大年神田

 

多根神社から北西の道を歩いてすぐの所にあります。

 

 

大年田、堀田神田は当時は沖積土で出来た少し沼がかった土地であったようで、肥料は全く使わないで耕作され、女子、子供、重服の者は田に入ることが出来ませんでした。毎年三月一日に種祭が祟重な古式によって行われていたようです。
─ 中略 ─

 

さて、はじめは上多根の大和屋あたりに松江の風土記ヶ丘にあるような家を作って五、六人の人が一家族として住むようになったことでしょう。(『多根郷土誌 』 多根小学校百周年記念事業会)

 

大田田根子?ヤマト王権の田部?

 

多根地域の伝承や地名を考えると、もしかすると初期のヤマト王権の直轄地 ─ 屯倉(みやけ)があり、田部という部民が居たのではないかと思えてきました。

 

更に、崇神天皇紀に登場してくるヤマトの大神神社の始祖、大田田根子(賀茂氏、大神氏の祖)の名前が浮かんできました。あくまで、空想の域をでませんが、多根(たね)は、大田田根子(おおたたねこ)の「たね」と何か関係していないのでしょうか。

 

大神神社の御神体である三輪山

 

 

大田田根子は、三輪山の大物主命(少名彦名命または、大国主命の和魂 ─ 幸魂奇魂)の子孫と『古事記』や『日本書紀』に書かれています。

 

ここの地名の多根とは直接に関係はないかもしれませんが、関係する祭神は同じです。

 

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