島根県大田市仁摩町には、濃厚な大己貴(オオナムチ)神の伝承地の馬路(マジ)という地域があります。

 

そこの伝承を探ってみます。

 

 

馬路高山と城上山

 

馬路という地域は、琴ヶ浜という鳴き砂で観光で有名な美しい砂浜の海岸のある海に面した地域です。

 

その海岸を眺めるように大きな山が二つそびえたっています。

 

その山が、高山と城上山です。左の山が高山です。

 

 

この高山は、昔は「志賀美山」(城上山)と呼ばれて、頂上には城上神社(きがみじんじゃ)がありました。

 

つまりは、昔は高山の方が、城上山とよばれていたことになります。

 

神社の由緒や地誌を読んでいて、頭が混乱するところがココです。高山は、「打歌山」とも呼ばれていました。石見には「打歌山」と呼ばれている山もたくさんあるので、これまた混乱します。

 

高山というと近くに大江の高山もあり紛らわしいので、馬路高山と呼びことにします。
この山に大己貴(オオナムチ)神が鎮座されていました。

 

友ヶ岩

 

馬路の海端は砂浜ですが、西に行くと、岩場となり、鞆(とも)と云われる場所に、鞆ヶ浦という港があります。

 

鞆ヶ浦(鞆岩の浦)という石見銀山開発当初(1600年代)には、銀鉱石を積みだした港に使われていました。

 

鞆ケ浦(ともがうら)
現在、左の島に鵜島厳島神社を祀る。

 

 

大己貴神(オオナムチのカミ)が、灯台のない時代、海岸にそびえたつ高山を目印に、舟をこぎよせ、この鞆ヶ岩(友ヶ岩)から上陸されたといいます。

 

馬路

 

馬路(まじ)の地名由来が、大己貴神(オオナムチのカミ)の上陸伝説に書かれています。

命が舟をうかべて四方を巡視された時、海上から遥かに志賀美山(今の高山)を見られて彼の地は可美地(うましところ、後馬路と改む)といわれて舟をこぎよせられた。

 

その場所が今の友ヶ岩で、ここから上陸されて、志賀美山(高山・打歌山)に鎮まられた。(『仁摩町誌』仁摩町役場 昭和47年6月30日発行)

神畑(かんばた)

 

神畑の港

 

 

鞆ヶ浦の隣の地名に神畑(かんばた)があります。

 

友ヶ岩の西に接する地が神畑でこれは神波多をいみし神さまの御衣をはたによって織り出したところである。

 

神畑には鎮座山という小山があって、波多都美命(わたつみのみこと)をまつる祠がある。(『仁摩町誌』仁摩町役場 昭和47年6月30日発行)

 

神子路(かんごじ)

 

志賀美山の正面の海浜を神子路浦浜という。

 

これは御子神たちがかよわれたという意味から出た地名で、その北端に突き出た岬が、松ヶ鼻という岬で、ここから命が出雲国を、遠くのぞみ見されたところで、ここに、のぞきの松があった。(『仁摩町誌』仁摩町役場 昭和47年6月30日発行)

 

松ヶ鼻

 

 

馬路高山と式内社城上神社

 

馬路高山の頂上に式内社である城上神社があったという乙見神社の社伝はあったが、『久利家文書』の研究でわかるまでは、一般的には認知されるものではなかったように思います。

 

現在高山と呼んでテレビ塔の立っている山は、古くは城上山と呼ばれて山上に神社の跡地があるが、石見銀山が開発され、はじめ馬路の友の港から鉱石を博多に送った関係もあったと思ふが、ここにあった神社を永享六年(1434)大内氏が大森町の香語山(今云愛宕山)へ遷座し、神領を寄附してゐた事が最近になって判明した。(櫻井貞光 式内社調査報告 昭和58年2月 皇學館大學出版部)

 

大森町に鎮座する城上神社が、高山の神社の分霊を勧請し発展したものだったのです。

 

神社の長い歴史の中で、どの神社が平安時代の式内社であったのか、栄枯盛衰や場所が大きく移動したり、判断がたいへん難しいものです。

 

遷した山が、香語山であったとするならば、中世時代の祭神が大物主命というよりは、尾張の祖・天香語山命だったんしゃないだろうか?などと邪念が浮かびます。

 

古文書だけではなく、神社の遺跡も発見されたようです。

 

仁摩を代表する神社

 

この山上にあった神社すなわち城上神社はかつて仁萬町一円の中心神社であったことは、その社地遺跡が馬路へ向かずに仁萬、天河内へ向かって社殿を建て、しかも広大な社域であったことが最近の調査で明らかになった。

 

石見国府もあったといはれる仁摩の地に邇摩郡筆頭の城上神社があり、城上山の方は大森に遷し、乙見山の神社は現馬路氏神の神社としたと思われる。(櫻井貞光 式内社調査報告 昭和58年2月 皇學館大學出版部)

 

邇摩郡の式内社筆頭に書かれているので、馬路だけではなく、邇摩郡を代表する神社であったのかもしれません。

 

また、石見国府が邇摩郡にあったかどうかは別にして、初代石見国造(紀氏の大屋古命)が邇摩郡に住んでいたという話(天津 亘著 『石見誌』対象14年)もあります。

 

乙見神社(おとみじんじゃ)

 

乙見神社 拝殿 島根県大田市仁摩町馬路927

 

 

馬路高山の頂上に鎮座していた神社でしたが、火災でそこの北麓の乙見山(おとみやま)に遷されてきました。そこから、乙見神社というようになりました。

 

この火災の際、湯里村の難波某が御神体を背負い避難したので、神はその労を多として、早天に雨を降らせ給い、付近の住民は、雨を賜ったお礼に、手を振り足を振りして喜びを、これが馬路盆踊りの一つ願成就踊(がんじょうし)となった。(『仁摩町誌』仁摩町役場 昭和47年6月30日発行)

 

龍蛇信仰

 

この神社には、出雲の出雲大社と同じく、龍蛇(ウミヘビ)を奉納する龍蛇信仰があります。龍蛇は神の使いとして季節風に乗って琴ヶ浜に上ってくるものとされています。大田市の有形民俗文化財指定となっています。

 

続く

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