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大和の出雲族─賀茂族の西遷

賀茂族かもぞくと言いますと、地祇(国つ神)の奈良の賀茂族と天神(天つ神)の京都の賀茂族の2つが思い浮かびますが、中国地方の山間部─美作みまさか地方や石見いわみ地方にまで伝承が及んでいます。

奈良の賀茂族が美作地方に移動してきたという伝承の地をたどっていきたいと思います。

大和の賀茂族の登場地

三輪山 奈良県桜井市三輪

大和の出雲族の聖地といえば、麓に大神おおみわ神社が鎮座する三輪山です。
大神神社には本殿が無く、三輪山そのものが御神体です。

第10代崇神すじん天皇の時代に、大神神社に祭られる大物主命の、あるいは事代主神の末裔の大田田根子を探し出して、祭祀を行なわせ、疫病が鎮まったということが『古事記』や『日本書紀』に書かれています。

自ら大物主神と名乗って、「天皇よ、そんなに憂えなさるな。国の治まらないのは、吾が意によるものだ。もしわが子の大田田根子に吾を祀らせたら、たちどころに平らぐだろう。また海外の国も自ら降伏するだろう」とつげた。

『日本書紀(上)全現代語訳』 宇治谷 孟  講談社文庫

大神神社(おおみわじんじゃ) 奈良県桜井市三輪1422

大田田根子の系譜

大田田根子は、『日本書紀』では大物主神の子となっていますが、『古事記』では5世孫、『先代旧事本紀』では事代主神の7世孫となっております。

ともかく、大和の出雲族の代表的な人物であり、氏族である三輪氏、大三輪氏、大神氏、賀茂朝臣氏、石辺公の祖先です。

『先代旧事本紀』には、大田田根子の子孫が詳しく、素戔烏尊から始まって11世孫まで書かれています。

九世孫、大田々祢古命。またの名は大直祢古命
この命は、出雲の神門臣の娘・美気姫を妻として、一男をお生みになりました。

十世孫、大御気持命おおみけもちのみこと
この命は、出雲の鞍山祇姫くらやまつみひめを妻として、三男をお生みになりました。

十一世孫、大鴨積命おおかもつみのみこと
この命は、崇神朝の時代に賀茂君の姓を賜わりました。
次に、弟の大友主命おおともぬしのみこと
この命は、同じ崇神朝に大神君おおみわのきみの姓を賜わりました。
次に、田々彦命たたひこのみこと
この命は、同じ崇神朝に神部直みわべのあたい大神部直おおみわべのあたいの姓を賜わりました。

なぜ大和の出雲族が西遷する必要があったか

この大和の出雲族が、なぜ西遷する必要があったのか?

『日本書紀』の垂仁天皇の時代に三輪君大友主が、播磨国はりまのくににいる天日槍あめのひほことの折衝に倭直やまとのあたい祖の長尾市ながおちとともに播磨へ派遣されたということが書かれています。『播磨国風土記』では、大国主命と争った天日槍が垂仁天皇すいにんてんのうの時代に登場するのは変ですが、播磨の国には天日槍の子孫(新羅の渡来人)が住んでいたのでしょう。

── 一説には、初め天日槍あめのひほこは、船に乗って播磨国にきて宍粟邑しさわのむらにいた。天皇が三輪君みわのきみの祖の大友主と、倭直やまとのあたいの祖の長尾市とを遣わして、天日槍「お前は誰か。また何れの国の人か」と尋ねられた。天日槍は「手前は新羅の国の王の子です。日本の国に聖王がおられると聞いて、自分の国を弟知古ちこに授けてやってきました」という。

『日本書紀(上)全現代語訳』 宇治谷 孟  講談社文庫


また、崇神天皇の時代に「四道将軍の派遣」として、西海には吉備津彦命きびつひこのみことを派遣されたと書かれています。吉備津彦命とともに大和の出雲族(賀茂族)も西の方に流れて行ったのだと思います。

なお、出雲口伝では、四道将軍の「派遣」ではなく、物部氏の東遷(神武天皇の東遷は後代の話だったという)から逃れるための新天地を求めての逃走だそうです。

その結果、大和の出雲族(賀茂族)と天日槍の子孫たちや現地の出雲族との闘いもあったかもしれません。現地の出雲族などという表現はつかわれませんので「荒ぶる神」や「土蜘蛛」の表現でしょう。

四道将軍の派遣は、ヤマト王権の確立期時代の話だと思われますが、原住民である出雲族を制圧していく時代と思われます。

粟鹿(あわが)神社  『粟鹿大明神元記』

『日本書紀』では、「一説」として垂仁天皇の時代に「三輪君大友主」を播磨国の宍粟邑に派遣したとありますが、
片方で、播磨国ではなくて、但馬国にいる天日槍の曽孫・清彦が神宝を献上した話やその子・田道間守たじまもりの話がありますので、三輪君大友主は垂仁天皇の時代の人ではなく、それよりもずっと前の時代の人であったと思われます。

但馬国には、天日槍の神を祀る出石いずし神社と、三輪君大友主と血脈がつながる祭祀氏族粟鹿あわが神社があります。

粟鹿神社 兵庫県朝来市山東町粟鹿2152

粟鹿神社の祭主は、古代に三輪君大友主とつながる神部氏が担い、その後、日下部氏が務めるようになりました。
粟鹿神社には、和銅元年(708年)に祭神や歴代祭主などを記したという『粟鹿大明神元記』の写本がありました。

その『粟鹿大明神元記』には、大和の出雲族の系図とともにその足取りが記されています。
(こちらのサイトで全文読めます。→ 粟鹿大明神元記 – 古代史俯瞰 by tokyoblog )

大田田根子の子  大多彦(たたひこ)命

大田田根子の子として、『先代旧事本紀』と同様に書かれています。粟鹿神社の古代の祭主の祖は、『日本書紀』で宍粟邑に派遣された大友主命ではなく、「大多彦命」です。崇神天皇の時代に、西国に派遣され、国内の従わぬ人を平服させたとあります。

但馬国ですので、ここでは天日槍の子孫たちも制圧したのではないでしょうか。

しかし、美作国大庭郡米木原に墓があるということですので、吉備国にまで、その範囲が広げていったと思われます。(美作国は吉備国の分国)

→ 大鴨積(おほかもつみ)命  これ、賀茂朝臣(かもノあそん)等の祖先。
→ 大友主(おほともぬし)命  これ、大神朝臣(おほみわノあそん)等の祖先。
→ 大多彦(たたひこ)命

美作国大庭郡神直(みわノあたい)、石見国大市郡神直、的大神直、倭三川部、吉備国品治部、葦浦君(あしうらノきみ)等の先祖
大多彦命、磯城瑞(しきみ)カキ宮御宇初国所知御間城入五十瓊殖(はつくにしらすみまきいりひこにゑ=崇神)天皇の時、国内の従わぬ人を平服させた。大国主神の術魂荒魂を桙・楯・太刀や鏡に取りつけ西国に派遣きれた。この時、初めて男女に調物(税)が課せられた。(大多彦命は)但馬国朝来郡の粟鹿村に住んだ。大多彦命の墓は、美作国大庭郡米木原に在る。

意富弥希毛知(おほみけもち)命 神人部の祖、淡路国三原郡幡多神人部川成の祖先。 ↓
以上四人は、大田々祢古命の子である。

『粟鹿大明神元記』

米来神社(めきじんじゃ) 岡山県真庭市目木589
 祭神 大己貴命、仲哀天皇、応神天皇、神功皇后

米木神社には、大多彦命の墓の伝承はありませんが、大庭群美和郷に鎮座した神社であり、地名から神部(みわべ)が関連した神社だと伺いしれます。

大国主命の子 天美佐利命(あめのみさりのみこと)の荒魂を祀る社

粟鹿神社 本殿と拝殿 兵庫県朝来市山東町粟鹿2152 
現在の祭神は、天美佐利命・日子坐王・日子穂穂手見尊

大多彦(たたひこ)命の子の時代に、粟鹿神社の由来が述べられています。

粟鹿の嶺に荒振る大神がいて、それは、大国主命の子である天美佐利命(あめのみさりのみこと)であるという。

この記述から、大和の出雲族の敵は、新羅しらぎの王子・天日槍あめのひぼこの子孫ではなく、現地の出雲族であったと想像できます。

なお白鹿のつのの間に粟が生えていたので、粟鹿大神と名づけたそうです。
つまりは、粟鹿大神=大国主命の子である天美佐利命ということです。

→ 児、大彦速(おほひこはや)命

母は穂積朝臣(ほづみノあそん)らの祖先、内醜男(うちしこを)命の娘玉降姫(たまふりひめ)命と曰う。

右の大彦速命、巻向珠城宮(まきむくノたまきノみや)御宇活目入彦五十狭茅(いくめいりびこいさち=垂仁)天皇の時、但馬国の粟鹿の嶺に荒振る大神がいた。

大国主神の子天美佐利命という。姿を雲紫の如きに変え、自由に空中を駆けていた。坂道を行く人が十余人あれば五人を殺し五人を往かした。二十人が往来すると、十人を殺し十人を往かした。この様なことは、一・二だけではなかった。

数年を経た時、大彦速命が、恐れはばかって朝廷に(この神を)祭ることを望み、この神の様子を報告した。それで、朝廷より幣帛などを賜り祭り始めた。また、粟鹿嶺の白鹿、その角の間に粟が生えていた。それで、粟鹿大神と名付けた。これ以後、人々は安楽になり国内は災難がなくなり、穀物も豊かに実るようになった。

→ 大主(おほぬし)命
これ、石見国の大市郡の神直(みわノあたい)、美作国の大庭郡の神直、又、品治部葦浦君らの先祖。

→ 水練(みずねり)命
これ、纏向日代(まきむくのひしろ)宮御宇大帯彦忍代別(おほたらしひこおしろわけ=景行)天皇が笠志に行幸される時に神事を司った。これ的大神直ら、また倭御川部らの先祖。

『粟鹿大明神元記』

中国山地のさらに西に広がる大和の賀茂族

親の大多彦(たたひこ)命が、美作国みまさかのくに米来めきに墓があるということは、美作国一帯が、賀茂族に掌握されていたのかもしれません。

宮座山(みやぐらやま) 岡山県真庭郡新庄村浦手  詳しくは→ 古代祭祀遺跡 宮座山 
岡山県真庭郡新庄村の御鴨(みかも)神社と岡山県真庭市の美甘(みかも)神社の元の鎮座地

美作地方の前方後方墳

また、美作国に分布する古墳出現期の巨大な前方後方墳は、賀茂族の権勢を物語っていないでしょうか。
一般的には、古墳の形によって序列が、前方後円墳→前方後方墳とされ、前方後円墳が前方後方墳より大きいですが、ここ美作国に限っては、前方後方墳の方が多く、前方後方墳の方が前方後円墳よりもしのぐ大きさです。

植月寺山古墳 岡山県勝田郡勝央町植月東
墳丘長は約91メートルで美作地方の最大の前方後方墳。

大多彦(たたひこ)命の子の大彦速(おほひこはや)命は、粟鹿神社の祭祀を担い但馬国にとどまりましたが、その兄弟の大主(おほぬし)命 は、〝石見国の大市郡の神直(みわノあたい)、美作国の大庭郡の神直、又、品治部葦浦君らの先祖。〟ということですので、さらに西に進み、岡山県の美作地方、島根県の石見地方や広島県福山市まで侵攻、移住したとも思えます。

伯耆国の大石見神社の伝承

ほとんど神社の伝承には、その時代の記憶は残されてはいませんが、鳥取県の大石見神社には、神直みわのあたいの末裔の伝承が残っています。詳しくは→ 大国主命と大石見神社

崇神天皇の御宇大巳貴命の旧跡をたずねたもう。このとき田々彦命の孫 彦伊良津子蒙宣命この国にきたりたもう。

このとき大蔵山雍の戸と申すところに化生住み、民をなやます故に彦太郎弟彦次郎、彦三郎臣志農田を召しつれ以上四人下向ありて化生を退治たもう。

このとき大巳貴命の旧跡によりて大和国三輪大明神を勧請したてまつる由申し伝う、今大蔵山雍の戸というを世人いい誤りて戸の内という。

『日南町史』

ここでは、大多彦命(田々彦命)の孫 「彦伊良津子蒙宣命」(読みがわかりませんが)が登場し、「大和国三輪大明神を勧請」とあります。

ここでも「民を悩ます化生(妖怪、鬼の類)を退治」とありますので、現地の出雲族を制圧したのではなかろうかと想像します。近くに孝霊天皇を祀る樂樂福神社もありますので、吉備津一族に大和の賀茂族が帯同して出雲攻めを行なっていたのではないかと想像します。

     

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