佐太神社のアラハバキ門
現在の佐太神社の随身門 島根県松江市鹿島町佐陀宮内73
江戸時代初期の橘三喜(たちばな みつよし)『一宮巡詣記 』(いちのみやじゅんけいき)には、佐太神社にアラハバキ門が図示されていました。⇒ 『一宮巡参詣記』
図の場所から考えると、現代の随身門だと思います。
随身門といえば、神社の境内に入る前の左右にお武家様が鎮座している門です。
なぜにお武家様が神社を守っていて、そこがアラハバキ門なのでしょうか。
黒川春村 説 大伴・佐伯氏 ワラハバキ装束説
江戸時代末の国学者である黒川春村によれば、随身ではなくて、門部を率いた大伴氏・佐伯氏だそうです。
⇒黒川春村 『神祇雑考』 国立国会図書館デジタルコレクション
この木像をが身に着けた古代の小袴のようなものが、藁ハバキで(ワラは、荒か新の転化という)、これを身に着けた此の二像をアラハバキとも言うそうです。
以下 『神祇雜考』 阿良波婆伎の項の抜粋です。
櫛石窓等の説は、神代に天照大神の殿門を此の二神に守衛せしめたまへることのあるによりて牽合せしなり、此の像は更に左様の神像にあらず、
按ずるにこれは大伴・佐伯二氏の像なるべし、中古までも朝廷の大儀ある時は、殿門の左は大伴、右は佐伯、此の両氏門部を率いて、胡床に坐して侍候すること、弘仁の内裏式、貞観の儀式等に見えたり
此の両氏の古儀に準じて、諸社の瓊門(けいもん)にも安置しそめし物なるべし、されば此の二像は、御門守(みかどもり)と称すべきものにて、随身(ずいしん)・看督長(かぎのおさ)などというまじき事なり、
さて、此の像の装束は、すべて束帯なれど、古代の製(つくり)は小袴(こはかま)ようのものを着用せしものありて、それをば阿良婆々伎というなり、
藁脛巾(わらはばき)の義なるべし。
脛巾は中古朝廷の御門の衛士が着用のものにて、あれば、アラハバキという名のあるも御門神(みかどがみ)の像なるによりてなり (黒川春村『神祇雜考』 阿良波婆伎より)
アラハバキから門客人へ転化?
江戸時代初期の『一宮巡詣記 』には、佐太神社には「アラハバキ門」と書かれていました。
その後の江戸時代中期の地誌『雲陽誌』(1717年)の佐太神社(佐陀神社)の鎮座する「秋鹿郡宮内」の所を見ると、「アラハバキ門」は無く、二つの門客人社と記載あります。
門客人社二宇 天忍日命 大來目命なり
外門客人二社 豊磐間戸神と櫛磐間戸神をまつる
天忍日命は、瓊瓊杵尊に随伴した大伴氏の先祖です。
大來目命は、大久米命のことだと思いますが、これも神武天皇に随伴した大伴氏の先祖です。
黒川春村説もうなづける点がありますね。しかし、佐太神社の宮司家は、大伴氏の末裔を称していたので、別の意味もあるのかもしれません。
外門客人社は、天の岩戸を外で守っていた神です。これは古い図を見ると、門とは関係なくて、一つの祠のようです。
神魂神社には、江戸の初期から『随身門客人』
江戸時代初期の『一宮巡詣記 』に松江市大庭町の神魂神社の境内も載っていました。
本殿の右手に、杵築神、天照大神、熊野三社(ここまでは現在もあります。)、その次に西宮、そして随身門客人が書いてありました。(現在は御釜殿があるところです。)
神魂神社本殿と杵築社 島根県松江市大庭町563
名前は随身門客人とはなっていますが、門ではなく、小さな祠のようです。(隣の西宮は、えびす神でしょうか。)
境内の守り神のような役割があったのかもしれません。
門客人がなぜ一社か?
佐太神社には門客人社、外門客人社が2対ずつ祀られているのに神魂神社には一社です。
黒沢石斎著『懐橘談』上巻(1653年)に、一社である理由が書かれています。(『懐橘談』 上)
此の宮には、門客人一神あり。いわれは凡そ神社には、門客人とて二神あり。是男女の二神を守護し玉う故、客人とは云う也。
此の宮に一神在ますは、伊弉冉の宮なれば、男神計り客人と成り玉うとぞ。
イザナミの女神が一神だから、守護神の門客人が男神一神で良いということでしょう。
この文書をどう解釈したら良いかわかりませんが、門客人は男女の1対の神なのでしょうか。
『懐橘談』には、伊邪那岐宮(真名井神社)、八重垣明神(八重垣神社)に、一対(二神)の門客人があることも書かれています。
佐太神社のことも書かれていますが、なぜだか『雲陽誌』に書かれていることと全然違います。
当社門客人、北の門は加茂の大明神。南は熊野権現也。外の門、東は阿式明神。西は玖潭の明神也。(『懐橘談』 下)
※阿式明神は、味鋤高彦根命、玖潭(くたみ)の明神は、大国主命と思われる。
民俗学 アラハバキ地主神説
民俗学者 柳田国男氏は、『石神問答』のなかで、アラハバキ神について、ちょっとだけ述べています。
諸国に客大明神(きゃくだいみょうじん)・客人社(まろうどしゃ)・門客人明神社などという小社があって、それがアラハバキと称されることもある。
いずれも神名・由緒ともに不明である。(『石神問答』)
民俗学の分野においては定説ではないかと思われる説を唱えたのが中山太郎氏ではないかと思われます。
中山太郎『民俗学辞典』(昭和書房 昭和8年)からの引用です。
アラハバキカミ 〔荒脛巾神〕門客神の異称である。武蔵大宮町の氷川神社の摂社に門客人社があり、祭神は豊磐窓櫛窓磐窓の両神となっているが、古くは荒脛巾神社と称したのを、神職が今の名に改め、足摩手摩の二神を配祀した(武蔵風土記稿)。
これは氷川社の祭神が須佐之男命と改定されたので、祭神に縁ある足手二神を追祀したものと考える。
同国西多摩郡小宮村大字養澤に門客神(アラハバキ)明神があり、祭神は豊櫛両磐窓神である(同上)。
武蔵国には此の外に北足立郡に荒脛巾神社が三社あるも今は省略する。
陸前宮城郡多賀村大字市川の阿良波々岐神社は、俚伝に一宮の末社と云うているが確証は無い。
これに祈るものは報賽として脛巾を献ずるが、その理由は不明である。同国玉造郡一栗村大字下一栗の荒鉏(アラハバキ)権現社は、創建及び祭神とも未詳である。(以上。封内風土記)。
岩代北会津郡湊村大字赤井の荒脛巾神社は、祭神は金山比古命と称している。(新編会津風土記)。
甲斐都留郡下和井村の、春日神社は同村の氏神であるが、社内にアラハバキ二体(衣冠の座像)あり、背面に文明十五年の銘がある(甲斐国志巻七二)。
是等に由れば此の神は、関東から東北に多く祭られている。
従って荒脛巾の神名より「常陸風土記」に見えた八束脛系の祭神が聯想されるが、それは妥当ではない。
これは原祀神たる地主神が、後祀神のために総てを奪われ漸く客人と云う名の下に、社殿の奥から門前の方へ敬遠され、ここに門客神と称されるようになったので、神職は門に由縁ある豊櫛両磐窓神に付会され、更に門神(後には随神とも云う)ゆえ荒脛巾(草製の脚巾)を付けた木像などが作られ、遂に此の名を負うたものと考える。 (中山太郎『民俗学辞典』)
関東、特に埼玉県と多く、東北に広く分布しています。
問題の結論ですが、
もともと祭られていた地主神は、後から祭祀されるようなった新しい神に代わり、その鎮座する主祭神から、「客人」として、奥から門前の方へ追われ、門神となり、脛巾(はばき)をつけた木像などが造られるようになり、それゆえアラハバキと呼ばれるようになったという話です。
時代によって、祭祀する氏族が変わったり、あるいは、神社再編のあおりを受け、祭神が代わってしまうことはよくあることです。
それが消滅するということではなく、門神として追われ、主であった神が、客になってしまうとして、主客が転換してしまうとは、なんとも物悲しい話です。
地主神が追いやられてしまう神社
そもそも地主神とはなんなのでしょう。
中山太郎氏によれば、
地主神とは
1.天孫民族が、我国に渡来せぬ以前に、先住民族によって祭られた神。
2.天孫渡来後において、天孫民族以外の異民族によって祭られた神が、年時の推移によって、天孫民族の祭った神が取って代わる場合。
3.同じ天孫民族が祭った神が、何等かの理由によって、他の天孫民族系の神と変更さるる場合。 (中山太郎『地主神考』)
ただ中山太郎氏は、理論上の区別にしか過ぎず、各神社について、具体的に説明するのは不可能としています。
出雲神が、全部地主神かと思うとそうではなくて、例えば出雲神の建御名方神も、地主神を追いやる神として書かれています。
ここには、天孫民族とはなっていますが、記紀神話に登場する主要な神々以前の神といったほうが正しいのかもしれません。
中山太郎『地主神考』による地主神
片岡社 上賀茂神社境内社 京都府京都市北区上賀茂本山339
- 京都の上賀茂神社の地主神 片岡神社
- 下賀茂神社の地主神 柊神社
- 洛外の日吉神社の地主神 大物主命、そのまた前の地主神 阿加真良神
- 伏見稲荷大社の地主神 藤ノ森神社
- 石清水八幡宮の地主神 狩尾明神
- 奈良の春日神社の地主神 榎本神社
- 摂津の住吉神社の地主神 侍社御前
- 姫路の姫山の地主神 刑部神
- 備中の吉備津神社の地主神 岩宮(祭神 健日方別神)
- 紀伊の日前・国県神社の地主神 中言神社
- 尾張の熱田神宮の地主神 千竈社(祭神 紀太夫)
- 信濃の諏訪神社の地主神 穂高神社
- 摂津の住吉神社の地主神 田裳見宿禰と市姫
古社で格式あるとされる有名な神社ばかりで、地主神が別にあるとは驚きです。中山氏の推測ではなく古文献を根拠としています。
単純に天孫族の神が、先住民の神を追いやったとは思えませんが、氏族の伸長と没落や、宗教再編(例えば律令体制など)の度に、新しい神社に交替したことは充分考えられます。
吉野裕子 アラハバキ神=荒神説
民俗学者 吉野裕子氏は、民俗学の定説「地主神 客人説」を踏まえた上で、地主神は蛇神であり、荒神との関係を述べています。
伊勢神宮の地主神 屋乃波比伎神
矢乃波波木神の鎮座図 『神宮祭祀概説』の図より作図
※ 屋乃波比伎神は古く「矢乃波波岐皇神」「矢乃波波木神」とも称していた。
吉野裕子氏は、伊勢神宮の矢乃波波木神が守護神として、蛇神であると言っています。
土地の守護神は、エジプトやその他の例でもわかるように、一般に蛇神であって、聖域の外側に鎮祭される。
伊勢神宮における波波木神の在処も、図に示されるように、内宮の御垣の一番外側の荒垣の東南隅である。
東南は辰巳、竜蛇を象徴する方位であって、その神格は、その祭祀方位にも暗示されているである。 (吉野裕子『山の神』人文書院)
島根半島では荒神社はアラハバキサンと呼ばれていた
吉野裕子氏は、島根県松江市の爾佐(にさ)神社の境外摂社である荒神社が、通称「オキャクサン」あるいは「マロトサン」と呼ばれていることを知ります。
さらに爾佐神社の宮司より、かつて「アラハバキサン」と呼ばれていたことを教示を受けます。
「いまはまったく忘れられているが、この荒神社は昔は、アラハバキさんと呼ばれていた。島根半島にはこうした例は少なくない」と教示されたことがある。
つまりアラハバキ・マロト・荒神の三者はひとつなのである。(吉野裕子『山の神』人文書院)
しかし、他の書物でそのように書かれている本は見たことがありません。
中国地方で盛んな荒神(こうじん)祭祀は、神木に藁蛇を巻き付けるものですから、当然蛇木(ははき)が想定されてきます。
「顕波波木(あらははき)」⇒「荒波波木」で、「波波木」が脱落して、「荒神」となり、「コウジン」と音読されたのではないかという説です。
谷川健一 蝦夷の神説
八束脛(やつかはぎ)系の祭神
中山太郎氏の『民俗学辞典』では、「『常陸風土記』に見えた八束脛系の祭神が連想されるが、それは妥当ではない。」としていますが、『常陸国風土記』を読むと、アラハバキ神が八束脛と何か関係あるのではないかと思ってしまいます。
ただ脛(はぎ)というゴロが同じということではありません。ある人によれば八束脛つまり長大な脛の持ち主「ナガスネヒコ」を連想するのではないでしょうか。
八束脛は、『常陸国風土記』の地名起源に登場します。つまりは現在の茨城県のいわれでもあります。
簡単に概略だけ書きます。
昔、国巣(くず)〔俗人(くにびと)の語に都知久母(土蜘蛛)また夜都賀波(八束脛)という〕の山の佐伯・野の佐伯というのがいた。山の穴倉を掘っていつも穴に住んでいた。
多氏の同族の黒坂命が穴に茨蕀(うばら)をしかけ、攻めていった。逃げた佐伯たちは、茨で体をいため傷ついて死んでしまった。
先住民の平定神話です。
先住民の名前が「山の佐伯・野の佐伯」です。
佐伯部を統括した佐伯氏は大伴氏と同祖と言われてますが、「佐伯部」は、東国の蝦夷が組織された部民とされています。だから、この話は、蝦夷征伐の話だと思われます。
佐伯(さえき)という名称は、一説には、「サエギル」という意味から来ているという説があります。その佐伯氏は、宮門を守る役割をもった氏族です。
佐伯氏はかなずしも蝦夷出身とはいいがたいが、もともと蝦夷と深い関係をもつ氏族であったとはいい得る。
その佐伯氏が大伴氏とともに宮門を守る役目についたということは、かつて捕虜にしたり手なずけたりした蝦夷を使って、攻撃してくる蝦夷を撃墜した、つまり蝦夷をもって蝦夷を制したやり口の名残ではなかったかと思われる。(谷川健一『白鳥伝説』)
東北のアラハバキ神の鎮座地
谷川健一氏は、東北のアラハバキ神社の鎮座地から、蝦夷の侵入をさえぎる場所と考察します。
宮城県の多賀城
奈良時代に創建されたといわれている陸奥国鎮守の多賀城址に、阿良波々岐(あらはばき)明神があり、多賀城をかこむ築地の外に、しかもその築地の近くに置かれています。
谷川健一氏は、阿良波々岐(あらはばき)明神は、「外敵退散のために置かれたこと」を伝えているとしています。その外敵とは蝦夷であり、多賀城は蝦夷を治めるのが目的だからです。
青森県の後方羊蹄(しりべし)
斉明天皇4年(658年)4月から斉明天皇6年(660年)5月にかけて、越国守であった阿部比羅夫(あべのひらふ)が蝦夷・粛慎の征討を行ったことが『日本書紀』に記されています。
阿部臣比羅夫は、斉明天皇の5年(659年)に、津軽に遠征して、津軽郡の蝦夷と担振鉏(いぶりさえ)の蝦夷を集めて饗宴をひらいたと『日本書紀』にある。
担振鉏と呼ばれる蝦夷の鉏(さえ)は、サエまたはサエギの意であり、佐伯と関係があるかもしれないと太田亮は言っている。
またこの年に、阿部臣比羅夫が後方羊蹄に政所を置いたと記されているが、そこは今の青森市の茶屋町から西南に入ったシリベシの林であり、その林には義経の片脛巾を祀る荒脚巻(あらはばき)明神がある。(谷川健一『白鳥伝説』)
谷川健一氏は「このアラハバキ神社は、政所を外敵から守るためのものでなかったか、と類推することが可能」としています。
そうして、結論としてこのように述べています。
かつての先住民族たる蝦夷が後来の侵入民族に土地をうばわれて、主客の位置が転倒したという歴史的事実を遠い背景に置いているように思えるのである。
ここからアラハバキは八束脛などのような異族の名称ではないという推測も生まれるのである。(谷川健一『白鳥伝説』)
アラハバキの神とは何か。
一、もともと土地の精霊であり、地主神であったものが、後来の神にその地位をうばわれ、主客を転倒させられて客人神扱いを受けたものである。
二、もともとサエの神である。外来の邪霊を撃退するために置かれた門神である。
三、客人神としての性格と門神としての性格の合わさったものが門客人神である。主神となった後来の神のために、侵入する邪霊を撃退する役目をもつ神である。(谷川健一『白鳥伝説』)
アラハバキ神はクナト神と一対の女神
吉田大洋氏が書いた『謎の弁財天女』の序文と、『謎の津軽第二出雲王朝』(未完)に載っています。
アラハバキ神のことは、吉田大洋氏が伝聞したことのみ書かれています。
出雲口伝の伝承者である富當雄(とみまさお)が語った言葉として、
「我々の大祖先はクナトの大首長(岐神)だが、もう一つ隠された女首長にアラハバキ(荒吐神)があった。
体制側によってこれらが抹殺されようとしたとき、クナトは地蔵に、アラハバキは弁財天へと変身した」(吉田大洋『謎の弁財天女』の序文)
「アラハバキとクナトは出雲の大祖神で、上古は共に祀られていた。
しかし霊威が強いため、アラハバキは追放され、クナトは出雲大社の末社の出雲井神社に押し込められてしまった。」(吉田大洋『謎の津軽第二出雲王朝』)
また、吉田大洋氏は、倶知安のアイヌの元酋長・菊池俊一夫妻によると、
アイヌの古語でクナトは男根、アラハバキは女陰の意味で、本来一対のものでなったかという(吉田大洋『謎の津軽第二出雲王朝』)
クナト神と対の女神ということならば、道祖神(男根型)ではなくて女陰型の石神だったのかもしれません。
岩手県花巻市東和町の丹内山神社の胎内石(アラハバキ大神)のようなものを祀っていたのでしょうか。
五来重『石の宗教』(講談社学術文庫)の一説が浮かびました。
石棒形のはまた荒帚(あらはばき)神といい、東北地方の叢祠(そうし)で、戦前までは男根形の木の棒を山のように奉納してあった。(五来重『石の宗教』)
石棒形のそのものが、アラハバキ神といったかは疑問に思いますが、男根系の石棒は、見ようによっては膝と脛(すね)に思えます。
そうなると脛に巻く脛巾を女陰に見立てることもできます。同様に刀剣の鎺(はばき)にも言えます。
アラハバキ神は、そのような性的な意味をもつ塞の神の要素を持っているのは間違いないと思われます。
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