『紀氏譜記』の記述

 

伯耆国(鳥取県西部)の紀氏の末裔である進家の伝承などが記された『紀氏譜記』(1761年)には、孝霊天皇の鬼退治伝承も書かれています。

 

伯耆国の紀氏

 

伯耆国の紀氏として進氏以外にも相見氏、巨勢氏などが勢力をもっていました。

 

伯耆の紀氏後裔氏族
『日吉津村 下巻』より

 

 

通説では、伯耆国の紀氏は平安時代に紀致頼が伯耆守に任ぜられ、その後伯耆国を開拓した土地を荘園にし、土着したものと言われています。

 

しかし、孝霊天皇と共に鬼退治をしたとの記述があり、ここが武内宿禰(孝霊天皇の孫、あるいはひ孫)の後裔とすると、時代的には合いません。
それ以前から、初期ヤマト王権を支えた氏族であった可能性もあると思われます。

 

進氏が創建した蚊屋島神社(日吉津天照皇大神宮)

 

 

 

 

 

進氏の鬼退治伝承

 

『日吉津村誌 下巻』より、孝霊天皇の鬼退治伝承のところだけ抜粋しました。

 

日吉津村から見える孝霊山  近世には香原山(かわらやま)と呼ばれていたようです。

 

 

 

 

妻木の郷の朝妻

 

一、孝霊天皇は大和の国に御鎮座あり、然所伯耆妻木の郷に朝妻と申す美女有ㇾ之、遠国なれども天皇聞及び給ひて宮女と成し、御寵愛遊ばし給ふ。

 

彼朝妻には古郷に老婆あり朝妻姫に逢度き由右の趣奏聞ありしかば暫く御暇を乞ひ古郷妻木に帰宅し老母を養育し給ふ。

 

天皇は朝妻姫を慕ひて雲路に車をうながし伯耆国今の孝霊山へ臨幸遊ばし、淀江の灘より清浄の石を孝霊山の山上に運ばせ、宮殿楼閣を建て、暫此処に住給ふ。若宮御誕生、諡は鶯王と申奉る。

 

 評曰、孝霊天皇御丈七尺、御面躰青く面頭には三尺の角有り、飛行自在の天皇也若宮鶯王鼻なきよし世に鼻無き王子と云ふ。朝妻姫は世に類なき美女にて衣裳の外より御はだへ透き通り候由。

 

第7代天皇 孝霊天皇は、伯耆(ほうき)国の妻木(むき)の郷(さと)に住む「朝妻」という美しい女性のことを聞き、朝妻を宮廷に仕える女にして特別に愛しました。

 

妻木の故郷には、年老いた母がいたので暇をもらい、母の世話をするために朝妻は帰郷しました。

 

孝霊天皇は、朝妻への慕情がつのり、孝霊山に降臨し、淀江の海より石を孝霊山山頂に運ばせ、宮殿をたてました。

 

孝霊天皇と朝妻との間に、鶯王(うぐいすおう)という皇子が誕生しました。孝霊天皇は、身長が約2メートル12cm、顔や体が青く、90cmのツノがあり、自由に空を飛べました。 

 

妻木(むき)の郷とは、日本最大の高地性集落遺跡『妻木晩田遺跡』(むきばんだいせき)のある場所です。

 

高地性集落遺跡は、弥生時代の「倭国大乱」時代のものと言われ、孝霊天皇の鬼退治は倭国大乱時代の何かの反映とも考えることができます。

 

妻木晩田遺跡(むきばんだいせき)  妻木山地区の復元した家屋

 

 

 

 

鶯王は、音読みでは「オウ」ですが、おそらく「うぐいすおう」と読むのではなく、「ほうきおう」(伯耆王)と読むのではないかと思います。

 

『出雲国風土記』(733年)の「島根郡法吉郷」には、現代のウグイスである「法吉鳥(ほほきどり)」が、登場します。(宇武賀比売命がウグイスになっておりて鎮座したとする記事)

 

鳴き声がホーホキキョから「ほほきどり」になったかはどうかわかりませんが、鶯=法吉=伯耆という言葉の掛け合わせだと思われます。

 

鬼住山の鬼退治と進氏の名前

 

一、伯州日野郡鬼住山に悪鬼住し近国の人民を取り、隣国の人民天皇に奏聞す。天皇悉(ことごと)く逆鱗ましまして鬼神退治に直に向はせらる。

 

其時大連申上ぐる様は、鶯王を大将として此大連罷り向って退治仕り可ㇾ申由申上ければ、則勅命を蒙りて鬼住山に向って飛行し、天変の悪鬼を獨り残さず打したがへしとなり。

 

 大連鬼退治に真先に進む、依之叡慮の余りに則進と云ふ進の名字と成りしよし。評曰、鶯王此地にて戦死あり、今楽楽福大明神は鶯王の霊を祭るとなり。

 

日野郡の鬼住山(きずみやま)に悪い鬼が住み、民衆を困らせていた。

 

民衆は孝霊天皇に上訴すると、天皇はお怒りになり鬼退治に向かうことになりました。

 

鶯王を大将として、悪鬼をひとり残さず打ちのめしました。鶯王に付き従った大連(おおむらじ)は、真っ先に進んだということに因んで、「進」の名字になりました。

 

鶯王は、この地で戦死し、現在、楽楽福大明神(ささふくだいみょうじん)として鶯王の霊を祭るのです。

 

ここでは、楽楽福大明神=鶯王となっていますが、さまざな楽楽福大明神を祭る神社伝承では、孝霊天皇とその一家を祭神としています。

 

鶯王と共に、真っ先に進んで戦ったことから、「進氏」の名字としているので、その理屈からすると、ヤマト王権を支えた氏族の末裔ということになります。

 

元々、紀(木)国造家の一族だったのか、後で武内宿禰の血が混じったか、わかりませんが、紀氏の一族だったのでしょう。

 

朝妻

 

一、人皇三十六代孝謙天皇、世代の旧記を見給ふて朝妻姫の崩御の地を御尋ねあって玉簾山朝妻寺を寺号とし給ふ、今の汗入郡玉簾山是なり。

 

第36代の孝謙天皇が古い記録を見て、朝妻姫の亡くなった場所を探し当てました。玉簾山朝妻寺を寺号としました。現在の汗入郡(あせりぐん)の玉簾山です。

 

現在の玉簾山清見寺(大山町長田)の前身が妻木にあって、「朝妻寺」と称したらしいです。

 

『紀氏譜記』では、孝霊天皇の朝妻姫を由来としています。

 

しかし、同じく江戸中期に書かれた『伯耆民諺記』(1742年 松岡布政)には、全く別の由来が書かれています。

 

 

朝妻、妻木の由来 『伯耆民諺記』

 

 『伯耆民諺記』(ほうきみんげんき)では、朝妻寺を孝霊天皇ではなく、第49代天皇 光仁天皇(709年~782年)の后の話になっています。
時代としては、かなり新しい話です。

 

清見寺 汗入郡六木村天台宗

 

玉簾山清見寺と号す、古へは朝妻村といふ村名も妻木(むき)と号す

 

往古此妻木の里の或女皇都へ上る仔細あって光仁天皇の后女と成る

 

妻木(むき)の由来も書かれています。

 

汗入郡 古 安合(アアイ)郡と言フ 然るを汗入郡と称事けたしきく光仁天皇の御宇

内裏へ諸国より夫役を上ること有て 当国よりも人夫を皇都へ捧るに此郡或里の女 老夫にかはり禁裏へ其役を成しに行ク
然るに此女貌容他に勝れて叡慮にかなひ奉リ終に皇后となる
其故にや此郡村の夫役其後相止ム 此時彼女 歌を読詠して上る

 

月日より なを弥増の詔り かすの人夫も 汗を入ぬる

 

此詠歌により後世に至て郡名を改め今汗入郡と称す
又彼皇女の里は勅あって妻木の里となつく今は六木村と言フ

 

一つの説ですので、なにが真実か検証が必要だと思います。

 

高杉神社

 

孝霊山の東の麓には、孝霊天皇や皇后と二人の妻神を祭神とした高杉神社が鎮座しています。

 

高杉神社 鳥取県西伯郡大山町宮内88

 

 

現在は小さな神社ですが、古文書に、「元汗入郡大社」「高杉郷大社」とあり、古は大きな社殿をもつ神社だったと思われます。
元禄二年までは、高杉郷8ケ村の氏神であったから、信仰圏も広かったようです。

 

高杉神社の伝承( 『鳥取県神社誌』より)

 

〈祭神〉
 大足彦忍代別命(景行天皇)、大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)、押別命、本媛之命(朝妻姫)、松媛之命、千代姫之命、小葉枝皇子、根鳥皇子

 

当社社伝には孝霊山は景行天皇御草創の地にして、皇子忍別命の本居別稲置の首にして当社は皇孫代々の宗廟たりと。

 

ある説によると、斉衡三年(856年)の従五位上の大帯孫神は、この神社だといいます。
元々景行天皇の皇子 押別命の子孫が神社の創建をしたのか、あるいは、後から奉祭氏族が代わったかわかりませんが、孝霊山の起源が、景行天皇になっており、孝霊天皇と景行天皇が習合した由緒に見受けられます。

 

由緒の一部分です。

 

〈由緒〉
 雄略天皇丙辰の年近郷衆庶に崇りあり。在事年を累ね人民これを歎く。その時神の託宣に二人の官女たる松姫命、千代姫命の霊魂が細姫に対し嫉妬の崇りありとし、これを神廟に祭祀し御告の隋に宮殿を建造し一ノ御前社(本殿)、二ノ御前社(中殿)、三ノ御前社(末殿)と奉仕し、祭日には嬲神事とて三人の仕人物忌み神懸りあり。幣帛をもって打合せ式あること絶えず。

 

ここでは、『紀氏譜記』に登場する「朝妻姫」ではなく、松姫命、千代姫命という二つの妻神が登場します。

 

 

続く