京都の波せき地蔵堂(なみせきじぞうどう)

京都の宮津市の籠(この)神社の奥宮である真名井神社へ行った時にも、参道に地蔵堂があった。これは、もしや、真名井神社の神域との境を示すお地蔵さまかな?と思ったが、全くの見当違いであった。

 

大宝の大地震(約1300年前)に大津波が起きて、ここで波が切り返したというお地蔵さんだったのだ。( 参考⇒ウィキペディア 波せき地蔵堂 )

 

標高40メートルの地らしいが、もともとは大木に寄りかかるように置かれていて、1996年神社が地蔵堂を建てたようだ。
なぜに、お地蔵さまなのだろう。地震や津波で亡くなった人たちの供養で建てられたのだろうが、お地蔵さんにはあの世とこの世の境界の石仏としての役割もある。

 

波せき地蔵堂  京都府宮津市大垣 

 

六地蔵像が、墓地の入り口に祀られていることが多い。六地蔵は、六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)を輪廻する衆生の苦しみを地蔵菩薩さまが救ってくださり、極楽往生で安らかになるようにという信仰から11世紀ごろから祀られるようになった。つまり、自ら六道を巡り、導き救済するのだ。

 

また、村の辻や村境に祀られているのも良く見る。村の辻や境にあるのは、塞の神と同じである。現世とあの世との境界の菩薩であるとともに、共同体の境界神としての塞の神と習合したと云われている。

 

地蔵菩薩とは

地蔵は、正式にが地蔵菩薩で仏教の菩薩の一尊である。

 

ブリタニカ国際大百科事典 によると、以下の通り。

菩薩の一つ。釈迦牟尼が没し,弥勒菩薩が出世成道するまでの無仏の五濁悪世にあって,六道に苦しむ衆生を教化救済する菩薩で,インドではバラモン教時代から日蔵,月蔵,天蔵などとともに,星宿の神として信仰されていた。これが仏教とともに中国に入り,十王思想と結びつき,末法思想が盛んになるにつれて,地蔵による救済を求める者が多くなった。日本にもこの段階で取入れられた。像容は普通,左手に宝珠を持ち,右手は与願印または錫杖を持ち,袈裟法衣を着けた比丘形で表現される。遺品として法隆寺の木像 (10世紀) ,伝香寺の木像 (13世紀前半) などが著名。

 

サンスクリット語では「クシティ・ガルバ」であり、クシティは「大地」、ガルバは「胎内」「子宮」等の意味をもつ。母胎のごとく生命を生み出し大地のような慈悲で生命のあるすべてのものを救い導く菩薩であるが、平安時代から中世にかけて、浄土思想もあいまって、冥途での救済、つまり、極楽浄土を願う民衆の信仰の高まりから普及していく。

 

さらに、「子安地蔵」「夜泣き地蔵」「乳貰(もら)い地蔵」「いぼ取り地蔵」「雨降地蔵」など多種多様な地蔵が現われ、現世利益信仰の、もっとも親しみ安い石仏ともなっていった。

 

塞の神がたいへん習合度の高い神様で、「境界の神」「悪霊や疫病などを防ぐ神」「縁結びの神」「子供の神」という多様な役割を持つように、地蔵菩薩も多様な役割をもっていったと思われる。

 

導きの石仏 一丁地蔵

 

西出雲のカンナビ山、仏経山の麓にたくさん見られるお地蔵さまの一つだが、番号が彫ってあり、なんの番号なのか、わからなかったが、「出雲三十三番観音霊場」への道標としての「丁地蔵」であることがわかった。一丁ごと(約109メートル)に、建てられているから、多いはずだ。
現存する地蔵さまは、18世紀半ば〜19世紀の半ばに製作されたもののようだ。

 

丁地蔵  曽枳能夜(そきのや)神社 島根県出雲市斐川町神氷823番地 
三十四丁と書かれている

 

出雲札所(観音霊場)の起源だが、約一千年前、花山法王(花山天皇)が、出雲の地に観音霊場を開き、順拝されたのが始まりと伝えられている。
しかし、観音さまなのに、なぜ道標が、地蔵さまなのだろう。
他県の三十三番観音霊場をインターネットで見ると、丁石が観音像の場合も多い。
地蔵さまが「道の仏さま」だからなのかしら。

 

賽の河原とお地蔵さま

 

賽の河原 加賀(かか)の古潜戸 
島根県松江市島根町加賀

 

猿田彦大神とされる佐太大神が誕生したとされる加賀の潜戸の「新潜戸」に隣接している、賽の河原の「旧潜戸」である。中世の仏教歌謡「西院河原地蔵和讃」と思われるが、幼くして父母より先立った子どもらがあの世で父母を思って積み石をしている、そこに鬼が来て、その積み石を壊す。そこへ地蔵さまが現れて子どもを救うという「賽の河原」である。

 

加賀の潜戸の場合は、海岸の洞窟である。洞窟は、黄泉国への入り口という信仰がある。
黄泉津平坂(よもつひらさか)で、イザナミから逃げるイザナギが投げた杖から岐神(クナド)の神が生まれたという話があるが、あの世とこの世の境界神のサイノカミ(クナドの神も総じてサイノカミとも呼ばれる)が、地蔵さまに転化したのかなあと思わされる。

 

「賽の河原」というけれど、山にある場合も多い。大山寺の近く佐陀川の上流にある賽の河原。大神山神社(奥宮)の参道の途中、「金門」の看板の所から脇道から入っていく。下の写真は見えにくいが、上の方に石積みが写っている。河原の両側にたくさんの石積みがあった。

 

大山 賽の河原
鳥取県西伯郡大山町大山

 

加賀の潜戸は佐太大神が生まれた所で、ここの賽の河原は伯耆の佐陀神社の川の上流である。サダつながりで、賽の河原とは不思議である、何か関係があるのだろうか。

 

塞の神と地蔵さまの習合

 

『石の宗教』(五来 重 著 講談社学術文庫)という本がある。なぜ地蔵さまにサイノカミが習合するに至ったか、様々な理由が書かれていた。私はたいへん納得できた。

 

このような霊魂の往来を塞るための積石の代わりに、石棒を立てることもあって、石棒が男根形(コケシ形)の石棒となり、これが道祖神の起源であることはすでに述べた。男根形の道祖神は明治維新の「淫祠邪教の禁」で大部分撤去されたので、男神女神抱擁像の道祖神や文字碑だけが残ったに過ぎない。
ところが男根形の道祖神は、顔や袈裟衣を彫刻すれば、そのまま石地蔵になってしまう。石地蔵というものは、けっして図像や仏画や木彫の地蔵菩薩を石像化したものではなく、もともと石の宗教性から地蔵が造形されたものであることを、私は主張するのである。

 

そこで原始的な石の造形が、男根、女根であったことは、これが祖先のシンボルだったためである。
それを近代になるにつれて、祖先であることをわすれて、性的な興味をもつようになったので、恥ずかしいという羞恥心をおこしたり、道徳的価値判断から「淫祠邪教」といったのである。明治維新の宗教政策の一つに「淫祠邪教の禁」があって、撤去処分された石棒は莫大だったという。いま各地の考古資料館などで、石棒や石杵として陳列されている完形品には、そのときの撤去物が多いと言われる。=@(五来 重 著『石の宗教』講談社学術文庫)