
出雲郡のカンナビ山 仏経山の麓に加毛利(かもり)神社がある。近くには、富(とび)神社がある。
出雲国風土記(733年)に「加毛利社」として記載のある古社であり、式内社でもある。
加毛利(かもり)神社の概観
島根県出雲市斐川町神氷神守1779

さて、ここの神社の説明書きである。着目点を黄色のマーカーを加えた。
◎祭神 主祭神 天津日高彦火火出見命
配祀神 豊王毘売命
天津日高日子波瀲武鵜草葺不合命
◎由緒
カニモリ(蟹守)の子孫神が、天照大御神の御孫、ヒコホホデミノミコトお后のトヨタマヒメノミコト、その御子ウガヤフキアエズノミコトの三柱神の卸分霊を奉じ、日向の宮崎神宮から船で当地の船子山に着き、宮崎大明神としてお祭りしたのが始まりである。
創立年代は不詳であるが、出雲国風土記(733年)記載の神祇官社、延喜式神名帳登載社であり、古くから地元の守り神として崇敬護持されて来た由緒深い神社である。現存する最古の棟札は寛文5年(1665)松平直政公の時代に行われた修繕の際のものである。
◎神社名および地名の由来
豊玉毘売命が鵜草葺不合命をご出産の時、周りに多くのカニが集まったため、側に仕えていた神がカニを掃いて命をお守りした。命は大層お喜びになりその神に「蟹守」の名を与えられた。
後にカニモリ→カモン(掃部)→カモリ(加毛利)→神守、と変わり今日に至っている。
※御崎さん (境内神域)祭神 玉依毘売命(豊玉毘売命の妹神)御本殿の左側にあり、氏子有志によって勧請し奉祭されている。
※烏居のないお宮
加毛利神社には鳥居が無い。これは御祭神が天つ神てあり国つ神の大国主命を祭る出雲大社より大きい鳥居でなくてはならないということから建てられていない。従って氏子の家も門を造らないという。
※大歳神社 祭神 大歳神(素佐之男命の御子・国つ神)以前は、加毛利神社の境内にあつたが、現在は「上(かみ)の宮」として、川田の丘に移し祭られている。
祭日 加毛利神社 10月19日
大歳神社 4月9日
社頭
加毛利神社の説明版
カニモリ(蟹守)とは、どういう職種か 掃部
まず、カニモリ(蟹守)について考えてみる。名称が、カニモリ→カモン(掃部)→カモリ(加毛利)→神守(かんもり)と変化してきたと書いてある。
「掃部」でインターネット検索すると、「掃部寮(かもんりょう」が出て来る。
掃部寮とはウィキぺディアによれば、
掃部寮(かもんりょう・かもんづかさ・かんもりのつかさ)は、律令制において宮内省に属する令外官。『倭名抄』ではかにもりのつかさとされる。唐名は、守宮署。
掃部寮は宮中行事に際して設営を行い、また殿中の清掃を行う。
ウィキぺディア掃部寮
宮中に際して設営、殿中の清掃を行なう部が、「掃部」であったということである。
天平11年(739年)の『出雲国大税賑給歴名帳(いずものくにたいぜいしんごうれきみょうちょう)』(正倉院文書)を読むと、
出雲郡建部郷と、出雲郡漆沼郷に一戸ずつ、「掃守首」が確認できる。「掃守」は「かにもり」「かもり」と読むらしい。奈良時代は、「掃部」ではなく、「掃守」(かにもり)であったと思われる。
加毛利神社のあるところは、出雲国出雲郷であったと思うが、『出雲国大税賑給歴名帳』は、扶養を要する高年の者や年少者の属する戸主だけを列記したものなので、掃守は出雲郷にも居た可能性は十分考えられる。
カニモリ(蟹守)の子孫神とは誰か
さて、その「掃守」「掃部」の起源話であるが、平凡社の「世界大百科事典」には以下のように書いてある。
令制の掃部司・内掃部司・春宮坊主殿署の掃部や殿掃部は伴部である。掃守、掃部は古くは〈かむもり〉と訓ずるが、《古語拾遺》に天忍人命が神武天皇の父の誕生の際の海辺の産屋に供奉しカニをほうきではらったので蟹守(かにもり)と号したと伝えるのは、〈かむもり〉の転訛の〈かにもり〉による語呂合せにすぎない。
株式会社平凡社世界大百科事典 第2版
神武天皇の父とは誰か。鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)である。
『日本書紀』の本書からの系図である。左手から順に長男、次男、三男と表示する。

『古語拾遺』(807年)は、平安時代の斎部氏が編纂した神道資料である。『世界大百科事典』には、『古語拾遺』に書かれてある、蟹守は「かにモリ」の語呂合わせとしているが、実際どうなのかわからない。
天祖の彦火尊(ヒコホノミコト)は海神(ワタツミ)の娘の豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)と結婚して、彦瀲尊(ヒコナギサノミコト)を産みました。
お産する日、海浜に産小屋を建てました。その時、掃守連(カニモリノムラジ)の遠祖の天忍人命(アメノオシヒトノミコト)が共に仕えていました。
箒を作り、蟹を掃きました。鋪設を掌り、その職のことを「蟹守」と言われるようになりました。[今俗に掃守と言うのは、この事が伝えられているためです。]
『古語拾遺』
『古語拾遺』によれば、蟹守の子孫祖神は、「天忍人命」 (アメノオシヒトノミコト)であり、古代豪族尾張氏系の神である。尾張氏の系譜では、天村雲命の子。子孫神は、尾張系の神か?
『新撰姓氏録』にみられる掃守
『新撰姓氏録』(815年)から、掃守の氏族を抜粋してみた。「振魂命」が祖先というから、やはり尾張氏系である。
和泉国では、「雄略天皇御代。監掃除事。賜姓掃守連」とある。雄略天皇の頃は、中央集権が強化された記事があるので、その頃、伴部として「掃守」が各地で設定されたのかもしれない。
左京 神別 天神 掃守連 連 振魂命四世孫天忍人命之後也
大和国 神別 天神 掃守 振魂命四世孫天忍人命之後也
河内国 神別 天神 掃守宿祢 宿祢 振魂命之後也
河内国 神別 天神 掃守造 造 同神四世孫天忍人命之後也
和泉国 神別 天神 掃守首 首 振魂命四世孫天忍人命之後也 雄略天皇御代。監掃除事。賜姓掃守連
『新撰姓氏録』
なぜ日向神話の神なのか
なぜに日向の三神を祭っているのかと、問えば、たいがいの人は『古語拾遺』の記述からも、豊玉姫のお産の際に、蟹を掃いたという掃守、掃部の起源話からだと想像するのだろう。
しかし、掃守の子孫というのなら、氏神として「天忍人命」 を祭っても不思議はない。
社伝には、「日向の宮崎神宮から船で当地の船子山に着き、宮崎大明神として祭った」のが始まりというので、日向から来たのが原因かもしれない。
出雲郡のカンナビ山でる仏経山の南東の麓には、阿吾神社(『出雲国風土記』では阿具社)があり、そこも彦火火出見尊と 豊玉姫を祭っている。
祭神は時代によって変化するものかもしれないが、日向から移り住んできた氏族がいたのだろうか。