
売布(めふ)神社 東遷の謎
現在松江市の新大橋の南に鎮座している売布(めふ)神社である。元は白潟の松江大橋の近くにあり、「橋姫大明神」と呼ばれていた。
売布神社 島根県松江市和多見町81

さて、この売布神社であるが、幾度となく東に移動してきている。地図で示してみた。

4が現在の新大橋南詰の場所である。3が近世初期の場所。ボートピア松江の西側附近。南北朝には白潟の町に存在した。
2が袖師鼻で神社の伝承によると故地。1が旧玉湯町の西側、林村のあたりで地元の伝承では昔はここらへんにあったという。
しかし、普通の神社の遷宮の話とは明らかに違う。
大きな移動である。なぜに大きく移動してきたのだろうか?
橋姫大明神
松江大橋 宍道湖大橋から撮る

さて、中世には「橋姫大明神」と呼ばれていて、この松江大橋の南のたもとにあったようである。
この松江大橋の起源であるが、初代は、慶長13年(1608年)に作られ現在の橋が17代目だとされている。参考→ ウィキペディア大橋(大橋川)
しかし、大山寺縁起絵巻(応永5年─1398年)( →ウィキペディア 大山寺縁起(伯耆国) )によれば、南北朝時代には既に白潟橋という橋が一本架かっていたとされており、橋のたもと(南側)に赤い鳥居も描かれている。
また、『昭和九年賣布神社調古文書棟札等寫』によると、
売布神社の社名は、永亨11年(1439年)「橋姫大明神」(若宮三河栄藤 社領寄進状)、名應4年(1495年)「白方御はしひめ」(松浦道念寄進状)と呼ばれていた。
だから、松江の城下町ができる慶長13年以前にも、橋はあったわけであり、橋の南側に、橋の守護神として、橋姫大明神(売布神社)が存在していた。
この『橋姫大明神』の橋姫であるが、橋姫は、京都の宇治橋姫神社など、瀬織津姫(せおりつひめ)を祭神としているところが多いが、現在の売布神社の祭神は、瀬織津姫ではなく、同じ祓戸大神(→ ウィキペディア祓戸大神)の速秋津比売神(はやあきつひめ) である。
ウィキペディアによれば、速開都比売神(はやあきつひめ)は、〝 河口や海の底で待ち構えていてもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込む〟という役割の神のようである。
祓戸四大神
瀬織津比売神(せおりつひめ) — もろもろの禍事・罪・穢れを川から海へ流す
速開都比売神(はやあきつひめ) — 河口や海の底で待ち構えていてもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込む
気吹戸主神(いぶきどぬし) — 速開都比売神がもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込んだのを確認して根の国・底の国に息吹を放つ
速佐須良比売神(はやさすらひめ) — 根の国・底の国に持ち込まれたもろもろの禍事・罪・穢れをさすらって失う
ウィキペディア祓戸大神より
考えてみるに白潟橋の場所は、大橋川と宍道湖との結節点で、大橋川の河口付近(※宍道湖から中海側に水が流れているので、大橋川の入り口であり、河口という表現は微妙である。)に位置する。
しかし、『出雲国風土記』(733年)時代の地形では、大橋川の大部分が朝酌町、矢田町あたりまで、宍道湖がくいこんだ地形で、川と言うより湖だった。
水戸神
天正 3 年(1575)6 月の『島津家久上京日記』によれば、売布神社のあった白潟という町には橋が架かっているだけではなく、船着き場があったようである。
当時は、今と違って、海上交通が重要な意味を持っていた。米子の港→馬かたの関→白潟の港→平田の港という船による旅が読める。
宍道湖 右の奥の山は、平田の旅伏山 あの麓に港があったのだろう。

一廿一日打立、未刻に文光坊といへるに立寄、やすらひ、軈而大仙へ参、其より行て緒高といへる城有、其町を打過、よなこといへる町に着、
豫三郎といへるものゝ所ニ一宿、一廿二日明かたに船いたし行に、出雲の内馬かたといへる村にて関とられ行に、枕木山とて弁慶の住し所有、其下に大こん島とて有、猶行てしらかたといへる町に舟着、
小三郎といへるものゝ所ニ立よりめしたへ、亦舟捍し行に、右ニ檜木の瀬とて城有、其より水海の末に蓮一町はかり咲乱たる中をさなから御法の舟にやとおほえ、漕通、平田といへる町に着、
九郎左衛門といへる者の所に宿、拾郎三郎よりうり、亦玄蕃允より酒あつかり候、
『島津家久上京日記』
『古事記』では、速秋津比売神は、速秋津比古神と共に、伊邪那岐命・伊邪那美命の間に産まれた男女一対の神とされ、別名水戸神(みなとのかみ)とも記されている。
速秋津比売神の「津」は「港」と一般的に解されているので、白潟の港の神というのが、速秋津比売神を祭神とした理由なのかもしれない。
膳夫(かしわで)の神
宝暦(1751~64)年間に書かれたとする『雲陽大数録』には、「白潟の地、白砂の土地故白潟と云なり」とあり、松江市の平野部で、もっとも古い時代に形成した沖積地であった。
さらに、水運の拠点として栄えた松江平野の最初の町であった。
古代から中世にかけては、意宇川の流域が栄えていたと思われるが、中世の終わりから、港を抱えた白潟の町の重要性が大きく高まったと言われている。
尼子氏VS毛利氏の戦国時代には、わかっているだけでも二度も毛利に白潟の町は火を放たれるほど、重要な町であったようだ。
売布神社 本殿

御祭神
主祭神 速秋津比賣神(水門ノ神、祓門ノ神)
相殿神 五十猛命、大屋津姫命、抓津姫命(樹種ノ神)
摂社神 櫛八玉神(漁労ノ神、調理ノ神)
さて、その売布神社の由緒によると、
〝当社は遠く神代において摂社の御祭神である櫛八玉神が 潮路の八百会に座す速秋津比賣神を万物の生命の祖神としてお祀りになったことに始まり、のちに樹種の神とされる 相殿の三神が合わせ祀られたと伝えられています。〟ということで、
速秋津比賣神の孫である櫛八玉神(くしやたまのかみ)が、祖神を祀ったことが、売布神社の創始だという。
この櫛八玉神であるが、『古事記』では、大国主命が国譲りを決めた後、多芸志の小浜で鵜に変身して海底の赤土をとり八十の平皿を作り海藻を刈って 、燧白・燧杵を作り、火を鑽り出し調理した、魚をたてまつる膳夫(料理人)になった神である。
この膳夫の神である櫛八玉神は、水門(港、湊)の神でもあり、火鑽りの神でもあるわけである。出雲大社摂社 湊神社にも祀られている。
ここの境内社であるが、金刀比羅神社、船霊神社、恵美須社、和田津見社など、海に関係する神々が多く、ここ白潟の地が、近世いかに水運、漁業の町として栄えていたのかを物語っている。
和田津見社

売布の名前
この売布(めふ)の名前であるが、一説には、「清火を鑽り出すべき海布の生ずる所」と言われる。
また、全国にこの「売布」の名のつく神社が多数存在する。
『式内調査報告』第五巻から転載すると、
一、高賣布神社 摂津國河邊郡(現 兵庫県三田市酒井宮)。
祭神 下照姫命・天稚比古命。
一、賣布神社 摂津國河邊郡(現 宝塚市売布山中町)。
祭神 高比賣神・天稚彦神。
一、賣布神社 丹後國竹野郡木津村木津。
祭神 不詳。
一、賣布神社 丹後國熊野郡下佐濃村女布。
祭神 稱女布大明神・大咩布命。
一、賣布神社 但馬國城崎郡。
祭神 不詳。
式内社研究会『式内社調査報告』 皇學館大學出版部
一見 一貫性がないようであるが、
最初の二つは、下照姫命(高姫命)と天ワカヒコ命という国譲り神話に関係があり、地祇と天神との婚姻である。
もうひとつの稱女布大明神は、わからないが、「大咩布命」(おおめふのみこと)とは、若湯坐連の祖である意富売布連であり、物部十市根命の末弟である。(『先代旧事本紀』)
物部十市根命は、出雲神宝問題で登場し、出雲大社と関係がある。
加藤義成著『出雲国風土記参究』に、「賣布というのはもと物部氏の遠祖大賣布命に関係があったかもしれない。」という一行がある。
trong>単なる語呂のように思ったが、膳氏(古代の食膳を管掌する伴造氏族)や、若桜部氏の系譜を調べていくうちに、膳氏に阿部氏と物部氏の二系存在することがわかり、物部大咩布命と本当に関係があるのではないかと思うようになってきた。
宝塚市の売布神社の本来の祭神も、下照姫命ではなく物部氏の意富売布連と言われているらしい。
膳氏の系譜
まず、『先代旧事本紀』国造本紀で、膳氏ゆかりの国造が無いか調べると、若狭国造がある。若狭国は、小浜港を抱える福井県南部であり、ヤマト王権の日本海出入り口として、「御食国(みけつくに)」であったとされる。
皇室・朝廷に海水産物を中心とした御食料を貢いだと推定される国であった。
〝若狭国造(わかさのくにのみやつこ)
允恭朝の御代に、膳臣(かしわでのおみ)の祖・佐白米命(さしろよねのみこと)の子の荒砺命(あらとのみこと)を国造に定められた。〟
この膳氏であるが、ウィキペディアで調べると、 → ウィキペディア 膳氏
始祖は『日本書紀』・『高橋氏文』・『新撰姓氏録』によると、 孝元天皇の皇子、 大彦命(おおびこ の みこと)の孫にあたる磐鹿六鴈命(いわか むつかり の みこと)。
『古事記』では大毘古命の子、比古伊那許士別命(ひこいなこじわけ の みこと)を祖としている。『新撰姓氏録』左京皇別・和泉皇別によれば、阿倍朝臣と同祖ともある。膳大伴部の伴造として朝廷の供御を主宰した。
ウィキペディア 膳氏
始祖の磐鹿六鴈は、景行天皇の東国巡幸に隨行し、 上総国において 堅魚や 白蛤を調理して天皇に献上し、その功により以後天皇の供御に奉仕することを命ぜられ、また膳臣の姓を賜ったという。
ウィキペディア 膳氏
また、
684年(天武天皇13年)膳臣一族は朝臣の姓をいただき、『新撰姓氏録』左京皇別及び『高橋氏文』では天武天皇12年に氏の名を高橋氏と改めたと記されている。
ウィキペディア 膳氏
(太字強調は私)
ウィキペディアの記事だけを見ると、「孝元天皇の皇子・ 大彦命の末裔」ー阿部氏の系譜としか、出て来ないが、『新撰姓氏録』(816年)を見ると、物部系も存在するのがわかる。※若桜部は、膳臣余磯(あれし)が賜った由来のもの。
左京 皇別 高橋朝臣 朝臣 阿倍朝臣同祖大稲輿命之後也
左京 皇別 膳大伴部 阿倍朝臣同祖大彦命孫磐鹿六雁命之後也
右京 皇別 若桜部朝臣 朝臣 阿倍朝臣同氏大彦命孫伊波我牟都加利命之後也
摂津国 皇別 高橋朝臣 朝臣 阿倍朝臣同祖大彦命之後也
和泉国 皇別 膳臣 臣 阿倍朝臣同祖大鳥膳臣等。付大彦命之後
右京 神別 天神 高橋連 連 饒速日命七世孫大新河命之後也
右京 神別 天神 若桜部造 造 饒速日命三世孫出雲色男命之後也 ※四世孫 物部長真胆連
山城国 神別 天神 高橋連 連 饒速日命十二世孫小前宿祢之後也
河内国 神別 天神 高橋連 連 饒速日命十四世孫伊己布都大連之後也
和泉国 神別 天神 若桜部造 造 饒速日命七世孫止智尼大連之後也
『新撰姓氏録』
※止智尼大連は、物部 十千根命のこと
「若桜部」の由来の『日本書紀』履中天皇の条を見ると、
膳臣の余磯(あれし)→稚桜部臣
物部長真胆連(もののべのながまいのむらじ)→稚桜部造になったことがワンセットで述べられている。
また、宮内省内膳司に仕えた膳氏の末裔である高橋氏が安曇氏と勢力争いした際、古来の伝承を朝廷に奏上した家記『高橋氏文』(逸文)によれば、
景行天皇に高橋氏の遠祖・磐鹿六獦命(いわかむつかりのみこと)が、膳の姓を賜った話と同時に、若湯坐連らの始祖・物部意富売布連の子の豊日連に火を鑚らせた話、そして、斎火を鑚っている大伴造は、物部豊日連の後裔であるということが述べられている。
こうしてみると、膳氏は、阿部氏一系ではなく、物部氏と相交わるという感じである。
磯城王朝VS物部王朝という図式で、阿部氏VS物部氏という歴史を一つの断面で見ることもできる。
しかし、片方で、饒速日命が、登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ)の妹と婚姻しているという同族化の話(富家伝承では、登美能那賀須泥毘古は、大彦命)を考えると、母系をたどれば阿部氏、父系をたどれば物部氏ということも反映しているのかもしれない。
また、その逆も考えられる。
参考文献
- 長谷川博著『中世水運と松江 城下町形成の前史を探る』 松江市教育委員会
- 式内社研究会『式内社調査報告 第二十巻』 皇學館大學出版部
- 高群逸枝著 『母系制の研究(下)』 講談社文庫