馬潟(まかた)とは、どういう地域であったのか。

中海から大橋川に入ってすぐのの南の岸を馬潟(まかた)という。
「馬潟」といえば、9日間にわたって行なわれる「ホーランエンヤ」(松江城山稲荷神社式年神幸祭)で、一番船を務めるの地域である。
文化5年(1808)の神幸祭の際に、風雨が激しくなり、御神霊を載せた船が危ない状態になった時、馬潟村の漁師が助けて芦高神社(阿太加夜神社)まで無事送り届けたという由来による。

 

奈良時代において馬潟は、「意宇郡山代郷」の一部であった。そして、この頃は、朝酌渡という渡し船が馬潟にはあり、北方に向かう交通の要衡だった。

 

中海大橋から見える馬潟付近の大橋川

 

戦国時代でも、北方に向かう交通の要衝であり、地名として、「まかつた」「馬方町」「馬形」「馬からた原」と書かれた。
尼子氏がこの地で陣をはったことが、江戸時代の『雲陽誌』(1717年)に書かれている。

 

馬 潟
馬潟原 永禄四年四月、尼子三郎四郎義久、同九郎四郎倫久兄弟八幡星上に陣を取て、大江羽林と相対して白鹿の城を援といへとも、同月九日攻落されて白鹿の城の守護松田蔵人も遠流に處せられしかは、義久倫久大に怒て自給をとり討て出馬潟原に陣を取といひ伝るは此所なり、

 

なぜ「まかた」というのだろうか

私の頭の中で二つの仮説が浮かぶ。

 

馬をとめる場所説

ここは大橋川でも狭まった地域で、ここに船着き場─港があったのは間違いない。船から降ろした荷物は、馬に載せて運んだのではないだろうか。
だから、ここに馬を留めておく場所があったのだろうか。人や荷物を運ぶ業者を「馬方」「馬子」というが、そこから来ているんではないかなどと思った。

 

水辺の祭祀説

「馬形」を古語辞典で調べると、

〝うまがた【馬形】馬の形を木・紙などで作り、神馬の代りに神に奉るもの。〟(『岩波古語辞典』大野晋・佐竹昭広・前田金五郎 編)

と、ある。

 

律令体制確立以降(奈良時代)、全国的に水辺で〝祓え〟(はらい)の祭祀が行なわれていた。
下の図は、兵庫県出石市の袴狭遺跡の出土品である人形(ひとがた)であるが、(人形代とも云う)当時の役所は、木で人の形を作り、これに息を吹き替えたり、こすったりして穢れや病気などの災いを移し、河や湖などに流す儀式を行っていた。デフォルメされていて、一見人には見えないが、顔が書かれている。

 

 

袴狭(はかざ)遺跡の人形(ひとがた)        いずし古代学習館 展示

 

同様に馬形もいっしょに出土している。下記の木で作った馬形であるが、竹ひごのような木の「足」が4本さしこまれていた。これもデフォルメされているので、馬なのか、一見してわかりにくいが、他県で出土したものに、頭を長くしたり、馬の背中に鞍を付けたものがある。

 

なぜ、馬が「祓えの祭祀」に選ばれたのかというのは主に2説あるようだ。ひとつは、馬は人の乗り物で、速く、人形を乗せて別の世界に連れていくという意味である。もうひとつは、神馬が「河の精」と考えられ、雨ごい祭祀に水神への捧げたということが『続日本紀』に書かれている。雨ごいをするときは「黒毛馬」、雨を止むようにするときは「白毛馬」を奉納するのが慣例だったようである。
長野県の屋代(やつしろ)遺跡群では、人形を伴わないで、馬形のみが使用された形跡がある。

 

袴狭遺跡の馬形(うまがた)                                           いずし古代学習館 展示

 

参考サイト ⇒ 調査員オススメの逸品第170回 古代の人々が使った祭祀の道具②-馬形代  公益財団法人滋賀県文化財保護協会

 

由貴神社

 

由貴神社  島根県松江市馬潟町266 
『出雲風土記』記載の古社であり、式内社。御祭神 速秋津日子神(はやあきつひこのかみ)

 

大橋川と宍道湖の結節点に売布神社が、水門神の女神・速秋津比売神を祭っているが、大橋川と中海の結節点である馬潟でも、水戸神の男神・速秋津日子神を祀る由貴(ゆき)神社が存在する。

 

ここの鎮座地は、明治時代当初は、意宇郡馬潟村字高橋であった。江戸時代にも、井の奥渡や馬潟渡などの渡し船で川で渡っていた。「字高橋」というが、もしや膳氏の末裔高橋氏と関係があるのか? 膳氏の分布が港と関係しているように思ったからである。

 

また、天和三年(1683年)の『出雲風土記鈔』に、「山代郷(中略)由貴社、同郷間潟村社也」とあった。『出雲神社巡拝記』(天保四年ー1833)には、「馬潟村王子大明神、記云 由貴社、式云 由貴神社」とあり、江戸時代には、「王子大明神」「王子権現」(雲陽誌)が一般的な名称だったらしい。

 

この王子とは何なのか。

 

〝神が王子の姿をとって現れる (王子神) とされる信仰。八幡信仰 (若宮八幡) ,八王子信仰 (日吉・祇園社) ,熊野信仰 (熊野神社) などがある。有名神社の信仰が広まるにつれて,その王子神が各地に勧請され,王子信仰は全国に広がっていった。〟(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)

という。

 

あちこちに王子権現が鎮座しているので、由貴神社とのつながりは全く不明である。

 

それよりも、神社名の「由貴」とはなんであろうか。神社名の由来がわかったものなど何一つないが、考察してみる。「ゆき」と言えば、天皇の大嘗祭の悠紀殿(ゆきでん)・主基殿(すきでん)が浮かぶ。
また矢の先を上にして入れ、背に負う上古の入れ物である「靫(ゆき)」が思いつく。

 

その形状から発想すると、港に停まっている船のごとく見立てられなくもない。

 

高良神社(加和羅神社)

高良神社 島根県松江市八幡町

 

竹矢公民館発行のパンフレットにここの神社の説明がある。

出雲国風土記に「加和羅(かわらの)社」と書かれている古社で、もとは玉垂命(たまたれのみこと)を祭ったといわれている。
玉垂命は筑後(福岡県)の高良大社の祭神で、神功皇后の三韓遠征に際し、潮干玉と潮満珠を授けたと伝えられる神である。
現在は武内宿祢命を祭神とし、平濱八幡宮の末社になっている。
当社は、大橋川が中海に注ぐ河口附近の高台にあり、昔、人々が中海などの水運や半農半漁宇で生活を営んでいた時代からの守護神である。 松江市竹矢公民館 発行『天平の風を感じて 古代出雲の里  竹矢』 より

筑後の一の宮「高良大社」と同じ祭神、「高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)」を祭っていた。いわゆる勧請なのかもしれないが、奈良時代は「加和羅(かわらの)社」だった。

 

神社名が違うがなぜ?と思うが、高良(こうら)大社自体が、昔は「かわら」と呼ばれていた説もある。。
『神社覈録(じんじゃかくろく)』(1870年)には「高良は加波良(かわら、香春)と訓べし」との記述有り。
それで、石清水八幡宮の摂社「高良神社」も、もとは「川原社」と呼ばれていた。
こうなってくると、豊前国の香春神社と筑後国の高良神社が何か深い結びつきがあるのではと考えてしまう。

 

なぜここに高良神社があるのかと思うに想像するに、近くに武内神社もあり、神功皇后の三韓遠征にここから参加した船もあったのかなどと想像する。(妄想の類だが)

 

江戸時代の地誌『雲陽誌』にも記載がある。

 

〝加波羅明神

八幡本社を去こと八町、俚人曰斯森高良明神の社跡なり、祭日九月廿八日、〟

 
※ 一町=109.09091 mなので八町は約873メートル。

 

江戸時代には、ここが元は「かわら」で「高良」とは同じ読みで、同じ神社だということがわからなくなり、混乱していた模様だ。

 

八幡荘

 

ここ馬潟周辺は石清水八幡宮の荘園(八幡荘)だった。出雲国最古の石清水八幡宮別宮で、創建年代は不詳であるが、天永2年(1111年)、陰陽寮で当社の遷宮の日時を占ったという記録がある。しかし、当然ながら、境外摂社の高良神社の方が古い。

 

さて、天正 3 年(1575)6 月の『島津家久上京日記』に、「馬かたといへる村にて関とられ」という記述があった。

 

ここでの関であるが、いわゆる奈良時代の剗(せき)とは意味合いが違っていたようだ。『解説 出雲国風土記』(島根県古代文化センター編)によれば、奈良時代の剗(せき)は、「主に反乱の対策や、税収の減収につながる浮浪や逃亡などの人の流れを制限する機能」を担っていたということである。

 

平濱八幡・武内神社  島根県松江市八幡町303 
富家伝承本では、初代武内宿祢が住んでいたところの記述あり。武内宿祢は、古代豪族紀氏の祖である。正面に見えるは武内神社。

 

しかし、戦国時代の関は通行税を徴収する意味が強かった。

 

「尼子経久袖判多胡久愛預ヶ状写」(享禄3年ー1530年)5月には、「平浜別宮(平浜八幡宮)」領の中に「馬形」で徴収される「上分銭」があり、平浜八幡宮に対して年6貫文が納められることになっていた。「毛利元就袖判平浜別宮領書立」(永禄7年ー1564)8月では「平浜別宮」領八幡荘300貫の中に「馬形 上分共ニ」とあった。
「上分」とは神への捧げ物という意味で、海上を通過して神仏を拝む時の捧げ物として船舶から徴収され、関料(通行税)の起源といわれる。

 

参考文献

 

式内社研究会『式内社調査報告 第二十巻』 皇學館大學出版部

 

長谷川博史 著『松江市ふるさと文庫15 中世水運と松江 城下町形成の前史を探る』松江市教育委員会