江戸時代は、潜戸で誕生したのは猿田彦命ではなかった。

 

 

新潜戸 新しい潜戸でもないのに、現在は「新」が付いている。
佐太大神,潜戸,猿田彦命

 

現在、潜戸で誕生した神様は、「猿田彦命」とされており、いろいろなパンフレットや説明板には佐太大神=猿田彦命と説明されている。

 

しかし、それはあくまで明治以降からだと思われる。

 

 

 

『出雲国風土記』(733年)に書かれる加賀の潜戸は、誕生する神は、佐太大神であり、生んだ母神は神魂命の子ー支佐加比売命(きさかひめのみこと)となっている。

 

だから、「猿田彦命」とはどこにも書かれてない。

 

 

 

ともかくも奈良時代は、母神ー支佐加比売命、誕生神ー佐太大神あった、中世以降(どこが始まりかはわからないが)には母神ーイザナミのミコト、誕生神ー天照大神、佐太大神ーイザナギノミコト・イザナミノミコトになった模様だ。

 

 

 

それも、江戸時代も続き、明治の国家による神道の再編の中で、現在の支佐加比売命・猿田彦命に変わったようだ。

 

江戸時代の『潜戸縁起』

 

『潜戸縁起』

 

加賀大津の代官家(よこや)に『潜戸縁起』という本が3冊あるそうだ。そのうちの一冊は、年代が不明だが、一冊は宝暦三年(1753年)八月吉日金津真治とあり、もう一冊は宝暦九年十二月初五日之写 金津八坡と記してある。

 

宝暦というのは、江戸幕府第9代将軍 徳川家重の時代だ。

 

 

なお『潜戸縁起』のことが、雲陽誌(1717年)にも書かれているので、『潜戸縁起』の原本そのものはかなり古く書かれていたものと思われる。

 

 

 

その内容だが、

 

“伊弉諾尊と伊弉冉尊は、淡路島に天下られてから、一万二千年の間、陰陽のことは、知られなかったが、あるとき、川すずめの振舞を見てやっとわかられ、和合されて、十か月目に、お産のひもを解かれ、そこを潜戸と名付けられた。お生まれになったのが、天照大神で、幼名は、宇宝童子(どうじ)、その後、皇命(すめらみこと)と名付けられ、のちに天照大神と申し上げるようになった、と記されています。”

 

 

“天照大神がお生まれになったとき、イザナキは、加賀(よしよし)と言われ、お二方とも加賀(よろびよろこ)ばれた。この地を加賀(かか)と名付けられたのは、こんなめでたい意味があり、赤ん坊が生まれると今でも、よろこびというのは、これからはじまったのだ。と、そして、母のことを、かか、というのもこれがもとだ、と記されています。” 

 

            『島根町誌 本編』(島根町教育委員会発行 1987年)より

 

 

新潜戸の鳥居
佐太大神,潜戸,猿田彦命           

 

元々の『潜戸縁起』が、いつの時代かはっきりしないが、それに先立つ(?)佐陀大社(現在の佐太神社)の『佐陀大社縁起』(明応四年)にも、『潜戸縁起』と同じような内容が記されている。明応四年は、1495年で室町時代だ。

 

室町時代の『佐陀大社縁起』

 

『佐陀大社縁起』

 

抑南瞻部州大日本国出雲州嶋根郡佐陀大明神者、即天地開闢曩祖、陰陽最初元神、伊弉諾・伊弉冊尊也

 

そもそも、南贍部州(なんせんぶしゅう)の大日本国の出雲国島根郡の佐陀太明神とは、 すなわち、天地開闢の祖である、陰・陽の最初の神である伊弉諾・伊弉冊の尊です。

 

 

一 伊弉冊者為伊弉諾尊妃。妃有妊、別居於加賀潜戸。 於是天照太神誕生。 是故彼岩窟中有御乳房形作石。 于今其露滴不断故海中草依受此乳味潤其味皆甘矣。

 

伊弉冊は伊弉諾尊のお妃となり、妊娠されました。「加賀の潜戸」に別に住まわれました。 この場所で天照大神が誕生しました。あの岩窟の中には乳房の形をした石があるそうです。
今も、その露の滴は途切れていないので、海草はこの乳味の潤を享受し、皆甘いのです。 

 

 

一 加賀者伊弉冊尊棲潜戸而未出時天下暗、出潜戸時天下忽明。于時伊弉諾言赫々、是故其地名加賀也。

 

『加賀』は、伊弉冊尊が潜戸にお棲みになり、外にお出にならない時には、天下は暗かったが、潜戸をお出になると、天下はたちまち明るくなりました。その時、伊弉諾尊が「赫々(かくかく)たり」(光り輝くさま)と言われました。このため、其の地を「加賀」と名付けられたのです。

 

 

神社の祭神でも長い歴史の中で、神道の変化に伴い、すり替わったりするものだが、加賀の潜戸でも変わっていたのである。

 

 

 

        参考文献 『島根町誌 本編』(島根町教育委員会発行 1987年)