旧潜戸は、古の潜戸
外から見た旧潜戸(きゅうくけど)
観光船に乗ると、旧潜戸(きゅうくけど)こと古潜戸(ふるのくけど)にまず着く。
古潜戸には、「賽の磧」(さいのかわら)があり、「仏」の潜戸とも言われている。
船着き場に着いた――。
まずは、水子のお地蔵さまに拝んだ。
水子地蔵
人の手で造られたトンネルの中を通って、賽の磧へ向かう。
トンネルの中
古潜戸に賽の河原
外から見えた大きな洞門は、近くで見ると、こうなっていた。
昔はここが船着き場だったようだ。
内側から見た旧潜戸
賽の磧(さいのかわら)
〝冥途にあるという河原。小児が死後に赴き,鬼から苦しみを受けると信じられている。《法華経》方便品にある〈童子戯れに砂を聚めて塔を造り,仏道を成ず〉から構想された鎌倉時代の偽経《地蔵十王経》や解脱上人(貞慶)作という《地蔵和讃》,また江戸時代の《賽の河原地蔵和讃》などにより,地蔵信仰のたかまりとともに,中世以降とくに江戸時代に普遍化した俗信である。《賽の河原地蔵和讃》は〈死出の山路の裾野なる賽の河原の物がたり〉で,十にも足らない幼き亡者が賽の河原で小石を積んで塔を造ろうとするが,地獄の鬼が現れて,いくら積んでも鉄棒で崩してしまうため,小児はなおもこの世の親を慕って恋い焦がれると,地蔵菩薩が現れて,今日より後はわれを冥途の親と思え,と抱きあげて救うようすがうたわれている。〟(出典 株式会社平凡社世界大百科事典)
旧潜戸 賽の河原
地蔵菩薩と聞くと、仏経と深い関係があるように思われるのだが、民間信仰で、仏教の地蔵信仰と民俗的な道祖神である賽(さえ)の神が習合したものであるというのが通説だそうだ。つまりは、「仏」というよりは、神仏習合したもの。
ここの賽の河原の説明版があった。
海部人族といえば、宗像族だろうか。
説明板
ここで生み育てたとはあるのだが、
こうして賽のかわらがあることを考えると、猪の目洞窟のように、元々は墓があった所ではないのだろうかと思った。洞窟というのは、出雲風土記の宇賀郷にある「黄泉の穴」のように黄泉の世界につながっているところだし、「賽の」というからには、元々はお地蔵さんではなくて、死の世界(黄泉の国)と生の世界の境界神としての「賽の神」だったのではないだろうか。
古(ふる)は、もしや布留(ふる)ではないか。
昔はは「古(ふる)の潜戸」と呼ばれたようだけれど、もしかしたら、仏教とは最も遠い物部氏の「布留」(ふる)だったのではないかしら。
「布瑠の言(ふるのこと)」とは、「死者蘇生の言霊」と云われる。幼くして亡くなった子供だが、できれば生き返ってほしいと思うのが自然である。
潜戸とつながる滝戸池
不思議な話だが、加賀の潜戸は、遠く離れた松江市の比津神社の西側にある「瀑戸(たきど)の池」(滝戸池)とつながっていて、潜戸から大鯛がおよいでくることがあるとの言い伝えがある。
「音に聞こえし 瀑戸の池は 加賀の潜戸の潮がさす」という俗謡が残っているそうだ。
滝戸池
滝戸池の隣に鎮座する比津神社の祭神は折しも経津主(ふつぬし)命である。中古には(江戸時代の半ばぐらいだと思うが)突貫(とっかん)大明神、又は比津村都支努(つきぬけ)神社と呼ばれていたらしい。
比津神社 島根県松江市比津町140