『『出雲国風土記』の記載
『出雲国風土記』(733年)には、佐太大神の誕生神話が記されている。
“加賀神崎(かかのかんざき)。窟(いわや)がある。高さは一十丈ほど、周りは五百二歩ほどである。東と西と北とに貫通している。
[いわゆる佐太大神(さだのおおかみ)がお生まれになった所である。お産まれになろうとするときに、弓矢がなくなった。
そのとき御母である神魂(かみむすひ)命の御子、枳佐加比売(きさかひめ)命が祈願なさったことには、「わたしの御子が麻須羅神(ますらかみ)の御子でいらっしゃるならば、なくなった弓矢よ出て来なさい。」と祈願なさった。
そのとき、角の弓矢が水のまにまに流れ出た。その時弓を取っておっしゃったことには、「これはあの弓矢ではない。」とおっしゃって投げ捨てられた。また金
の弓矢が流れ出て来た。そこで待ち受けてお取りになり、「暗い窟である。」とおっしゃって、射通しなさった。
そこで御母の支佐加比売命の杜がここに鎮座していらっしゃる。今の人はこの窟のあたりを通る時は、必ず大声をとどろかせて行く。もし密かに行こうとすると、神が現われて突風が起こり、行く船は必ず転覆するのである。] ”
(島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)
加賀の潜戸から遠くに見える的島
潜戸を射通した金の矢は、勢いのあまりその先の沖ノ島まで射通し穴があいたという。成長した猿田彦命が、この穴を的に弓の稽古をして故、「的島」と呼ばれるようになったそうだ。
矢型の神婚神話とセグロウミヘビ
マスラ神の黄金の矢が、暗い窟屋を、射通し、加賀の潜戸が輝くように穴が開けたとの神話だが、三輪山の大物主の丹塗矢型の神婚神話を思い出す。(ホトタタライススキヒメ誕生神話)大物主の赤く塗られた矢と同じように、マスラ神の黄金の矢は、マスラ神の〝男〟そのものであろう。
そういう交合や性器そのものが、信仰の対象だった時代から、風土記の時代には、すこし隠喩や具象化されているように思う。
また、〝黄金の矢〟からもうひとつ頭に浮かぶのは、佐太神社や出雲大社で奉納されるセグロウミヘビのことだ。この海蛇は、背中は黒いけれど、腹が黄色で、海を照らして泳いでいるように見えるそうだ。
たいへんな猛毒を持ち、恐ろしい海蛇であるが、南洋から対馬海流に乗ってはるばる島根半島に漂着して来る。
海を照らして島根半島にやってくる龍蛇様 セグロウミヘビ
このマスラ神ですが、益荒男(ますらお)の益荒(ますら)、立派な男神という一般的な神名でどういう神なのかよくわからない。また、一説には、猿(古語で〝ましら〟)ということから、猿田彦命は猿と関係があるという誤解につながったのだとか…、いろいろな説がありよくわからない。
それに、この潜戸(くけど)という言葉尻を考えると、久那土(くなど)と名前が似ていて、元々性的な結合を信仰する縄文時代の信仰の場所だったのかもしれない。
太陽の祭祀
加賀の潜戸の中から見える的島 中から見ると小さく見える
谷川健一氏は、『黒潮の民俗学』(筑摩書房)の中で、このように加賀の潜戸のことを述べている。
“加賀の潜戸をつらぬく黄金の矢とは、的島の東から射しこむ太陽の光線に他ならないことを、理解した。黄金の矢を持つ太陽神が、暗い洞窟に矢をはなつ、とは太陽神と、それをまつる巫女の交合の儀式を意味するのである。
そうした伝承をもとにした祭式がおそらくここに生まれた。それには、加賀の潜戸と的島の二つの洞窟の穴が東西に一直線に並んで見透かされるという自然の舞台を必要としたのに違いない。
それは私が沖縄で見た『太陽の洞窟』のひとつにほかならなかった。
かつて、沖縄では、『太陽(てだ)が穴(あな)』の終わりの日に洞窟内の鍾乳石(石筍)に向かって自分の下腹部をこすりつけ、それで神との交合の儀式をおこなったというが、それは太陽神の子を産むための儀礼にほかならなかった。こうして誕生した太陽神の子は、東にあるその洞窟から登って、西の洞窟に沈むと考えられたのある。”