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八束水臣津野命(やつかみずおみつのみこと)と石見国 【龍石伝説】

龍厳山(りゅうがんざん) 島根県大田市仁摩町大国

島根県の西部は、律令体制後は「石見国」(いわみのくに)と呼ばれていました。

現代のなまり言葉も、島根県東部(出雲)が、いわゆるズーズー弁ですが、島根県西部は石見弁であり、その文化も出雲地方とはかなり違います。

しかしながら、伝承には石見独自の神様だけではなく、出雲族の神様もたくさん登場してきます。

その石見国の由来ですが、諸説あります。神話伝承からの説には、出雲王・八束水臣津野命(やつかみずおみづぬのみこと)に関係したものが2つもあります。

 

八束水臣津野命は、どんな神?

八束水臣津野命(やつかみずおみつのみこと)は、どんな神なのか、まず、ひとつひとつ古書を見ていきます。

『古事記』では、大国主命の祖父

『古事記』では、須佐之男命(すさのおのみこと)が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治した後、櫛名田姫と結ばれてからの、出雲王の系譜が書かれています。

『古事記』 出雲王の系譜

 

ここでは、八束水臣津野命(やつかみずおみづぬのみこと)ではなくて、淤美豆奴神(おみづぬのかみ)となっています。

しかし、『出雲国風土記』(733年)には、八束水臣津野命の別名として、「意美豆努命(おみづぬのみこと)と書かれていますので、同じ神と考えられています。

この系譜で言うと、須佐之男命の四世孫であり、かつ、大国主神の祖父となっています。

祖母が、龍神である淤加美神(おかみかみ)の娘の日河比売であり、かつ父母も水の神に関連した神と云われており、八束水臣津野命(やつかみずおみづぬのみこと)の神名などから、「偉大な水の主」とされています。

つまり、水をつかさどる神、龍神としての神格をもっていると思われます。 

『日本書紀』では、記載なし。

『日本書紀』の本書では、大国主命が、須佐之男命(すさのおのみこと)の御子となっているので、その間の出雲王は書かれていません。

ただ『日本書紀』一書の第四では、「五世孫は天之葺根神(あめのふきねのかみ)」の話が書かれています。

『出雲国風土記』では、出雲族の祖神のような書き方

『古事記』『日本書紀』では、須佐之男命が出雲族の祖神のように書かれています。

しかし、『出雲国風土記』では、八束水臣津野命(やつかみずおみづぬのみこと)にその座を奪われています。古(いにしえ)の出雲王だったのでしょう。

  1. 出雲国の国名起源
  2. 国引き神話 意宇郡・島根郡
  3. 杵築大社(出雲大社)の起源

① 出雲国の国名起源

「八雲立つ」の意味がわかりませんが、八束水臣津野命(やつかみずおみづぬのみこと)が話した言葉から、出雲の名前が付いたことになっています。

出雲と名づけるわけは、八束水臣津野命がおっしゃったことには、「八雲立つ」とおっしゃった。

だから、八雲立つ出雲という。

島根県古代文化センター 編 『解説 出雲国風土記』 今井出版

② 国引き神話 意宇郡・島根郡

出雲国の国土が狭いので、現在の島根半島を八束水臣津野命(やつかみずおみづぬのみこと)が、たぐり寄せた話が書かれています。

意宇(おう)郡

意宇と名付けるわけは、国引きをなさった八束水臣津野命がおっしゃられるには、「八雲立つ出雲の国は、幅の狭い布のような幼い国であるよ。初めの国を小さく作ったな。それでは、作って縫いつけることにしよう。」とおっしゃられて、

「志羅紀の三崎を、国の余りがありはしないかと見れば、国の余りがある。」とおっしゃられて、童女の胸のような鋤を手に取られ、大魚の鰓を衝くように土地を断ち切り、割き離して、三本縒りの強い綱を掛け、霜枯れた黒葛を繰るように、

手繰り寄せ手繰り寄せ、河船を引くようにそろりそろりと「国来、国来」と引いて来て縫いつけた国は、去豆の折絶から八穂米支豆支の御埼である。そしてこの国を繋ぎ固めるために立てた杭は、石見国と出雲国との堺にある佐比売山がこれである。

またその引いた綱は、薗の長浜がこれである。・・・以下後略 

島根県古代文化センター 編 『解説 出雲国風土記』 今井出版

島根(しまね)郡

島根と名づけるわけは、国引きをなさった八束水臣津野命がおっしゃられて、名を負わせなさった。

だから、島根という。

島根県古代文化センター 編 『解説 出雲国風土記』 今井出版

③ 杵築大社(出雲大社)の起源

八束水臣津野命(やつかみずおみづぬのみこと)が国引き後だから、杵築大社の創建がものすごく古いということなのでしょう。

高天原が建てずに、地元の神々が建てた話になっています。

杵築郷(きづきごう)

郡家の西北二十八里六十歩の所にある。八束水臣津野命が国引きをなさった後に、所造天下大神の宮をお造り申し上げようとして、諸の神々たちが宮の場所に集まり築き【原文・・・杵築】なさった。だから寸付という。〔神亀三年に字を杵築と改めた。〕

島根県古代文化センター 編 『解説 出雲国風土記』 今井出版

 

1.龍巌山(りゅうがんざん)の伝説

島根県大田市仁摩町の道の駅「ごいせ仁摩」の南側に、石見城跡のある龍巌山(標高153m)が見えます。

文化7年(1817年)に完成した『角鄣経 石見八重葎』(つぬさはう いわみやえむぐら)という書物に、このように記載あります。

又、一説にハ往昔 八束水臣津野命 神馬に騎給ひ、大國村龍岩を見給ひしより號といふ説あり。

『角鄣経 石見八重葎』

(意訳)

石見という国名の起源は、諸説ありますが、その一説に、いにしえに八束水臣津野命が馬にまたがり、大国村の龍岩(石見山の龍岩)を見に来たので、岩見る=石見となったというのがあります。

さらに、迩摩郡の大國本郷のところで詳しく述べています。

駒つなぎ岩

〔出雲国須佐大社五代〕

石見権現宮〔祭神は淤美豆野命、別名八束水臣津野命〕

往昔仁万村より天河内村、赤波村入口之谷々へ入込候入海なり。

此郷之南に今もあり駒岩の上、雲州須賀命御子八束水臣津野命駒を乗上、入海北の龍岩を見玉ヒ、其乗上給ふ石を今に駒岩とて、下より見れハ八尺計り、上の方より見れハ三尺計り、

此岩之上に駒の蹄(ひずめ)の跡二ツ三ツ有。夫より此所の船人を御頼有ハ舟人弐人にて丸木舟に乗せ奉るとなん・・・ 後略・・・

『角鄣経 石見八重葎』

駒繋岩のかけら

(意訳)

古には、大森銀山の奥の谷まで海が入り込んでいました。この里の南にある駒岩の上には、出雲の須我命の息子である八束水臣津野命が馬に乗って、海の向こう側の山の龍岩をご覧になりました。

その馬が乗った石を今は駒岩と言い、下の方は、約2m半、上の方は約90㎝であり、馬のひずめの跡が2つ3つあります。

その駒岩から、八束水臣津野命は、地元の船乗りに頼んで、丸木船に乗り、龍厳山に渡り、近くで山を鑑賞されました。

海を押し上げた宇能治比古命と同じ神?

※ ここで八束水臣津野命は、須我命(すがのみこと)の息子となっています。別の記載では、「出雲国須我祢命の御二男」とあります。

となれば、『出雲国風土記』の大原郡海潮郷に、親の須義禰命(すがねのみこと)を怨んで子の宇能治比古命(うのぢひこのみこと)が海潮を押し上げたという記事があります。

この宇能治比古命と、八束水臣津野命は関係した神との伝承もあったのかもしれません。

現在でも、この駒岩は、「駒繋ぎ岩」(馬を留め置いた岩)と呼ばれ、龍厳山の西方300mに、そのかけらが現存します。

しかしながら、駒繋ぎ岩に鎮座していた石見権現宮は今は無く、八束水臣津野命は、現在、龍厳山の中腹の龍厳神社にて、祀られています。

龍厳神社  祭神 八束水臣津野命

※これが駒つなぎ岩ではありません。

2.八色石の伝説

『石見国由来記』

『石見国由来紀』(1811年)という本に、別の説の石見国の由来が書かれています。

此国を石見と号故は、那賀郡石上、邑智郡龍石、美濃郡角石、此三石よりなりけるよし

『石見国由来紀』

石見国の各地に合わせて、3つの石があり、ここから、石見と称するようになった話が書かれています。

以下 意訳です。

ある婦人が八束水命に訴えました。

「八色石というものが、山を枯れ山にし、川を枯れた川にし、人民を悩ますので助けてください。」と。

八束水命は、その願いのまま、八色石を二つに斬られました。斬られた頭の方は邑智郡の龍石になり、尾は裂けて這っていって、美濃郡の角石となりました。

婦人は大喜びして八束水命を招いて饗応の限りを尽くしたが、翌朝、婦人は忽然と一つの石になりました。

八束水命は、これを見て「奇異石見かな」と、おっしゃったので石見と称するようになりました。

『角鄣経 石見八重葎』(つぬさはう いわみやえむぐら)

『角鄣経 石見八重葎』(1817年)でも同様の伝説が収録されていますが、八色石が八岐大蛇(やまたのおろち)に変わっています。

また、二つに斬ったのではなく、三つに斬り、石がひとつ増えて、千鎌郡(迩摩郡)の福光村の辰岩が加わっています。

そして、切ったのが八束水命ではなく、大穴持命(八色石村の項では素戔嗚尊)に代わっています。

又有説に邑智郡神稲(クマシカ)の郷 雲州の八岐大蛇の末葉出て山ハ枯山となし、川ハ干川となして、民を苦む故大穴持命、是を三段(キタ)に切給ふ。

頭同郡邑智郡之内八色石村へ飛て、人馬を苦む。依て村民須佐能男命を祭りて鎮之ハ其霊八色の石となり、須佐能男尊と一所に祭り込、八色大明神と申スよし、村老人の傳にいへり。此所より石見と申由。

『角鄣経 石見八重葎』

龍岩神社の龍岩  島根県邑智郡邑南町八色石792

『石見海底廼伊久里』(いわみのうみそこのいくり)

原文がインターネットで読めます。⇒ 国書データベース 『石見海底廼伊久里』

安政六年(1859年)に書かれた『石見海底廼伊久里』には、『浜田古事抜粋』と『高子大士(タカスマスラヲ)家の系譜』を引用して、石見の由来を考察しています。2つの書物の話は、『石見国由来記』とほぼ同様でもっと具体的でわかりやすくなっています。

一婦人とは、『浜田古事抜粋』によりますと、「石見天豊足柄姫命」(あめのとよたらしからひめのみこと)ということです。八束水命は、八束水臣津野命になっています。『高子大士(タカスマスラヲ)家の系譜』でも、同様の話ですが、二つに斬ったのではなく三つに斬った話になっています。

浜田の式内社「石見天豊足柄姫命神社」ではこの石の御神体をお祀りしていることが書かれています。

つまりは、3つ石のひとつ那賀郡の石というのは、石見天豊足柄姫命神社の御神体の石ということになります。そこが石見の名の起こりだというのです。

天豊足柄姫命神社(石神社)  島根県浜田市殿町77

ギリシャ神話のメドゥーサ(髪の毛が蛇の女神)のような話です。メドゥーサに見られた者は、皆石と化してしまいます。メドゥーサも父が海神であり、恋人も海神でした。

ここでは、八束水臣津野命に関わったものが、みな石と化してしまいます。

八石色村を日照りの村にしたのも龍神であり、それを斬った八束水臣津野命も水の神つまり龍神です。

八束水臣津野命の登場で、雨が降り、また豊かな潤いのある村に変貌します。しかし、天豊足柄姫命が夜に接待をしたことによって、その姫神も石になってしまいます。

角石の場所は美濃郡のどこか

3つの石のうち、2つは場所まで具体的にわかりますが、美濃郡の角石だけがわかりません。

それも、書かれていました。

彼角石のあなる所はやがて高角山也。もと角石山と言しが、年月をわたるなべにいつばかりよりか、高角山ととなへ来りぬ。

然るに此角石、人皇六十八代後一条天皇の御宇、万寿三年丙寅五月、けやけき高浪おこりて、其山みなから、ゆり崩して、角石はいふも更なり。民屋のこらず海中に没せりと、古事抜粋に見えたり。

『石見海底廼伊久里』

島根県益田市の高津町にあった古の(現存していない)高角山(たかつのやま)ということです。元は角石山という名前でした。万寿3年5月(1026年)の大津波で、海中に没した山ということです。

※ 島根県江津市に高角山が現存しますが、江津市の場合は那賀郡であり、美濃郡ではありません。

考察

〇 二つの石見の由来を示した伝説では、八束水臣津野命が、「石を見る」ということから生まれた話になっています。

〇 なぜ八束水臣津命が登場する理由ですが、有名な神をひきあいに出すのなら記紀神話に登場する須佐之男命や大国主命でも良いところです。

しかし、八束水臣津命に関連するのは、その神格である水の神ということが強く影響しているのだと思います。

〇 八色石の伝説は、記紀の八岐大蛇の話も影響しているかもしれません。雨を降らせない龍神を、八束水臣津命が退治をする話なのです。

しかし、雨を降らせる神もまた龍神なわけで、龍神の荒魂・和魂を表わした話なのかもしれません。

龍神を石神として祀ることで、日照りにならないようにするという根底の祭祀が背景にあってのことです。石見地方に限らず、龍神のような石神を祀ることは多いのです。

参考文献

〇岡崎三郎「石見国名考 ―さまざまな地名説話―」 雑誌「郷土石見」23号

〇大野志津香/須田郡司 著 『続 石神さんを訪ねて 出雲神話から石見の巨石信仰へ』 山陰中央新報社

〇仁摩の郷づくり委員会 『仁摩の郷・ガイドブック』

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