一口に孝霊天皇の鬼退治伝承と言っても、地域ごとに活躍する人物が違います。「妻木」では皇子・鶯王(うぐいすおう?)であったり、「溝口」では大矢口命(おおやぐちのみこと)です。

 

また、日野の西楽々福神社(にしささふくじんじゃ)では、皇子・歯黒命(彦狭嶋命)です。

 

印賀の楽々福神社 拝殿 鳥取県日野郡日南町印賀1494

 

そして、印賀(いんが)の楽々福神社では、皇女・福姫命(ふくひめのみこと)となっています。

 

 

印賀と『出雲国風土記』

 

一条山

 

一条山

 

『伯耆誌』には、印賀の福姫命の鎮座地がこのように書かれています。

 

今当社に福姫命一座とす社山を貴宮山と号し、福姫命の御墓と称し、また崩御山と云へるもあれど、凡て信じ難し

 

当社もと榎垣内村一條山に在しを、応永四年一條山の城主肥前守沙彌道栄 今の社地に移すと云へり、

 

当時社頭焼失せしによりて道栄神体を新たに再造し奉るといふ、今古棟札存せず、慶長三年以後是を存す。

 

一つ一つ整理していきます。現在の楽々福神社のあるところに山を「貴宮山」と言い、福姫命の御陵があるそうです。

 

貴宮山

 

 

前に見える建物は、旧・大宮小学校です。大宮というのは、楽々福神社があるからです。察するに元はもっと大きな神社だったのでしょう。

 

中倉城ですが、戦国時代に一条肥前守の居城であったそうです。もしかすると、城を作るために、神社を移動させたのかもしれません。

 

一条山のどこに、楽々福神社があったのか、文章からはわかりませんが、中心部分の頂上(中倉城跡)か、麓だったのでしょう。

 

大国主命と母理郷

 

さて、出雲国との位置関係の話です。

 

写真では、霧があって写っていないですが、一条山の背後に、鷹入山(706メートル)という鳥取県、島根県の県境の山がそびえています。

 

印賀は、出雲国(島根県の東側)との接点の地域なのです。

 

 

この島根県側に鷹入山の北部に永江山があり、大国主命がそこで、「国譲りはするけれど、出雲国だけは守る」という宣言をしたとする伝承が『出雲国風土記』(733年)に載っています。

 

〝母理郷(もりごう)。

 

郡家(ぐうけ)の東南三十九里一百九十歩(東南39里190歩)の所にある。

 

所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)の大穴持(おおなむち)命が、高志(こし)の八口(やぐち)を平定なさってお帰りになる時、長江(ながえ)山においでになっておっしゃられたことには、

 

「私が国作りをして治めている国は、皇御孫(すめみま)命が平和に世をお治めになるようお任せ申し上げる、

 

ただ八雲立つ出雲国は、わたしが鎮座する国として、青く木の茂った山を垣の如く取り廻らし、玉の如く愛でに愛で正して守りましょう【原文…守(も)りまさむ】。」とおっしゃられた。だから、文理という。

 

〔神亀三年(726)に字を母理と改めた。〕〟( 『解説 出雲国風土記』 島根県古代文化センター [編]  今井出版)

 

大国主命の伝承地 永江山の稚児の岩

 

 

『出雲国風土記』の伝承と、印賀の位置関係を考えると、孝霊天皇の鬼退治の「鬼」とは、やはり出雲族だったのではないかと思えてきます。

 

福姫命の異伝 福姫は皇女ではなく、お后

 

ほとんどが皇女

 

印賀の楽々福神社や、生山神社の伝承でも福姫命は、孝霊天皇の皇女となっています。

 

『伯耆民諺記』(ほうきみんげんき)(1742年)にも、「姫宮」(ひめみや)の表現で、皇女として書かれています。

 

ところが、宮内の東楽々福神社の現在の由緒を見ると、皇女説も書かれてはいるものの、「福媛命 后妃」と、書かれているではないですか。

 

さらに、「福媛命は孝霊天皇の妃にて彦狭島命の御母なり。彦狭島命は歯黒皇子と申し孝霊天皇の皇子なり。」とも。

 

彦狭島命の母ということは、つまり福媛命=蠅伊呂杼(はえいろど、絙某弟)ということになります。(※ 下図の黄色い所)

 

 

細姫命と彦狭島命を西の楽々福神社でそもそも祭っていた(伝承では当時存在していたとの話)のですが、実の母子関係ではないのが、私はなんとなく違和感を感じていました。

 

「東」の由緒を見て、実の母子が同じく祭られている方が、自然な感じがします。(『古事記』の系図が正しいと仮定するならばですが)

 

 

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