
火明命を祖とする天孫族と出雲族は最初から親戚だったというのが今回のテーマである。
国譲り神話が頭に染みついている人には、理解に苦しむ話だ。
まず「ホアカリ」と聞いて、どんな神様か気がつく人はあまりいない。
漢字で書くと、「火明命」「天火明命」だ。
記紀神話では、ニニギノミコトの息子の中の一人として登場してほとんど存在感がない。
しかし、平安時代の有力氏族の祖先神としては圧倒的な存在感である。
(表題の写真は、天火明命を祀る籠神社の鎮座する天橋立)
姓氏録における火明命を祖とする氏族
「姓氏録」とは『新撰姓氏録』の略である。
嵯峨天皇の命により平安初期の弘仁6年に、作成された氏族の祖先や系譜を書かれた書物。京および畿内に住む1182の氏族を「皇別」・「神別」・「諸蕃」の3種類に分類して記載されている。
主なものを記す。火明命を祖とするのは、古代豪族 尾張氏の系譜である。
左京 神別 天孫 尾張宿祢 宿祢 火明命 廿世孫阿曽祢連之後也
左京 神別 天孫 伊福部宿祢 宿祢 尾張連同祖 火明命之後也
右京 神別 天孫 丹比宿祢 宿祢 火明命三世孫天忍男命之後也
山城国 神別 天孫 尾張連 連 火明命子天香山命之後也
大和国 神別 天孫 尾張連 連 天火明命子天香山命之後也
大和国 神別 天孫 伊福部宿祢 宿祢 同上
摂津国 神別 天孫 津守宿祢 宿祢 尾張宿祢同祖火明命八世孫大御日足尼之後也
河内国 神別 天孫 襷多治比宿祢 宿祢 火明命十一世孫殿諸足尼命之後也
和泉国 神別 天孫 若犬養宿祢 宿祢 火明命十五世孫古利命之後也
火明命は、天孫族の代表格であるが、記紀神話では火明命は脇役で、ニニギノミコトが日向に降臨する主人公である。
ニニギノミコトを祖先にすればいいのにと思うが、記紀神話ではニニギノミコトの息子に過ぎない火明命を始祖としている。
ニニギノミコトを始祖とする神別氏族があるかといえば無い。
ここが記紀神話と大きく違っているところである。
「姓氏録」では、饒速日命(天神)を始祖とする物部氏系の氏族、天穂日命(天孫)を祖とする出雲氏、大国主命(地祇)を祖とする大和の賀茂氏などの氏族がある。
『日本書紀』の火明命
『日本書紀』(720年)では、火明命は存在感の薄い神さまではあるが、確かに登場する。
本書
はじめ燃え上がった煙から生まれ出た子を、火闌降命(ほのすそりのみこと)と名づけた──これが隼人らの始祖である──。次に生まれ出た子を彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)と名づけた。
次に生まれでた子を火明命(ほのあかりのみこと)と名づけた。──これが尾張連らの始祖である──。全部で三人の御子である。
宇治谷 猛 全現代語訳 『日本書紀 上』 講談社学術文庫
一書(あるふみ)の、第二では次男、第三・第五・第七では長男、第六・第八では、父神であるはずのニニギノミコトの兄という設定である。
さて、火明命について、日本書紀では名前だけさらっと書いているが大部分だが、面白い記述もある。
一書(第六) その天火明命の子の天香山(あまのかぐやま)は、尾張連らの遠祖である。
宇治谷 猛 全現代語訳 『日本書紀 上』 講談社学術文庫
天香山(天香久山) 奈良県橿原市南浦町

天香山は、姓氏録にも見える神名ではあるが、大和の天皇が国見をする山の名前でもあり、天の岩戸神話にでてくる高天原の山の名前である。
また、別の一書では、火明命の名前が修飾された神名になっている。
一書(第八) 天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほのあかりのみこと)と名づけた。
宇治谷 猛 全現代語訳 『日本書紀 上』 講談社学術文庫
この火明命の修飾された神名の天照国照彦火明命であるが、『先代旧事本紀』では、「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」という神が登場する。
つまり、尾張氏の祖先の「天火明命」と物部氏の祖先の「饒速日尊」(ニギハヤヒノミコト)が同神ということになる。
「天照国照」ということから、「太陽神はもともと男神説」だとか、「天津神と国津神の始祖は同じ」ということからスサノオ同神説が登場してくる由縁でもある。
『播磨国風土記』『丹後国風土記』の火明命
『出雲国風土記』には、火明命は登場しない。
しかし、『播磨国風土記』と『丹後国風土記』には出雲族といっしょに火明命が登場する。
播磨国風土記では、火明命はオオナムチの息子!?
播磨国風土記
飾磨(しかま)の郡(こおり)
伊和の里。
―前略―
昔、大汝命(おおなむちのみこと)の子である火明命は心もおこないも頑なで恐ろしかった。こういうわけで、父神が悩んで、逃げ捨てようと思われた。
因達(いだて)の神山に到ってその子に水を汲みに行かせ、戻ってくる前に船で出発して逃げ去られた。さて火明命が水を汲んで戻ってきて、船が出発されて去る様子を発見された。
するとにわかに火明命は大いにお怒りになった。そこで風波を起こし、その船を追い攻められた。ここに、父神の船は進み行くことができなくて、ついに破られた。
そんなわけで、そこは波丘、琴が落ちた所は琴神の丘と名づけ、箱が落ちた所は箱丘と名づけ、𣗄匣(くしげ)が落ちた所は匣丘(くしげおか)と名づけ、箕(み)が落ちた所は箕形丘(みかたおか)と名づけ、甕(みか)が落ちた所を甕丘といい、
稲が落ちた所は稲牟礼丘と名づけ、冑(かぶと)が落ちた所は冑丘と名づけ、沈石(いかり)が落ちた所は沈石丘(いかりおか)と名づけ、綱が落ちた所は藤丘と名づけ、鹿が落ちた所は鹿丘と名づけ、犬が落ちた所は犬丘と名づけ、
蚕子(ひめこ)が落ちた所は日女道(ひめじ)丘と名づけた。
その時、大汝の神が妻の弩都比売(のつひめ)に「悪い子から逃れようとしてかえって波風に遇い、ひどく辛く苦しい目に遭ったなあ」と言われた。
だから名づけて瞋塩(いかしお)といい、告(のり)の斉(わたり)といった。
橋本 雅之 現代語訳『風土記 上』 中村啓信 監修・訳注 角川ソフィア文庫
『播磨国風土記』では、火明命はオオナムチの子どもの設定で、かなり気性の荒い乱暴者のように描かれている。
オオナムチとスクナヒコの命令により火明命は丹波を治める
丹後国風土記(残欠本)
志楽(しらく)の郷(もとの字は領知)
志楽と名づけた訳は、むかし少名彦命と大穴持命が、支配する天下を巡覧するとき、この国をすべて巡り終えた。
さらに越の国にでかけるときに、天火明命を呼ばれて「あなたは、この丹波の国を治めなさい」と宣言された。火明命は大いに喜んで、「末永く青雲の領知(支配)する国」と云った。それで、志楽という。
二石崎(ふたしさき)
二石崎につき、古老が伝えていう。むかし、天下を治められる時に、大已貴(おおなむち)命と少名彦がこの地に来まして、御二方が相談されました。
白と黒の真砂をすくい持ち、天火明命を呼び寄せて詔(みことの)りました。すなわち「これらの石は、私の分霊である。あなたは良く、この土地で祭りなさい」と。そうすれば、世界の波が荒れても、丹波国が荒らされることは決してない。
天火明命は詔のとおりに、その霊石を尊びました。それは左右に黒白に分かれていて、神の気配があった。それは今でも、変わりがない。それで、その地を二石崎という。(二石は、不多志と読む)
斎木雲州著 『出雲と大和のあけぼの』 巻末付録 大元出版
『丹後国風土記』では、オオナムチとスクナヒコに命ぜられて、火明命が丹波の国を治める話になっている。
記紀神話を正しいと思う人には、この関係は頭が混乱してくる。
『播磨国風土記』と『丹後風土記』 に書かれていることはおかしくないかと思うけれど、京都宮津市の籠(この)神社の古文書を読むと関係性が理解できる。
火明命と国宝『海部氏勘注系図』
籠(この)神社 京都府宮津市字大垣430

現存の古文書は、江戸時代初期の写本であるが、原本は仁和年中(885年 – 889年)に編纂された『丹波国造海部直等氏之本記』であるそうだ。
全部載せると、膨大なので火明命(彦火明命と記述される)と出雲族との関連個所だけ抜粋する。
彦火明命高天原に坐しし時、大己貴神の娘天道日女命を娶りて天香語山命を生みます。天道日女命は亦名屋乎止女命と云ふ。
大己貴神多岐津姫命、亦名神屋多底姫を娶りて、屋乎止女命、亦名高光日女命を生みます。
海部光彦 編 『元伊勢の秘宝と国宝海部氏系図』 元伊勢籠神社社務所 発行
火明命の系図

火明命は、オオナムチの娘である天道姫をめとり、天香語山命を生む。この天道姫だが、オオナムチと宗像三女神の多岐津姫(別名神屋多底姫)との間の娘で、別名ヤオトメノミコト、タカテルヒメと言う。
ちなみに『先代旧事本紀』と同じように、火明命は饒速日命と同じ神であることが書かれている。
ここから読んでいくと、出雲族のオオナムチの娘と結婚した火明命は、婿ということだ。子であるが血はつながっていない。
丹波の国を治めたのが出発点だから、尾張氏は京都市北部→奈良県→愛知県と南下したことになる。尾張氏の名前は、ヤマトの高尾張邑から来ていると云われている。
筑紫から東遷した饒速日命の始祖の物部氏と丹波から南下した尾張氏の祖が同じということが、古代史の解明のカギと思われる。